今日の長門有希SS

 季節は移り変わる。
 ちょっと前まで寒い日が続いてきたが、そろそろ春らしき日も増えた。とは言え、ちょっと天気が崩れれば時間が巻き戻ったのではないかと思ってしまうような気温まで落ち込むこともあり、未だに予断を許さない。
「そろそろコタツを撤去する時期じゃないか?」
「ありえない」
 長門が即座に否定した。今日は天気が悪く、うつぶせで肩のあたりまで入って読書をしている。まるでヤドカリのように見えなくもない。
「いや、まあ確かに今日は寒いが」
「予報によれば、数日おきに寒い日がやってくる。それを過ぎ去ってからでも問題はない」
 電源の入っていないコタツでぬくぬくと暖を取りながらそう言った。まあ、二人も人が入っていれば、今の時期は体温で十分に温かくなれる。というか、電源を入れると熱すぎる。
「いやまあ、お前がそういうなら強行するつもりはないが」
 トイレから戻ってきて、コタツと一体化しそうな長門を見て思いついただけで、別に何か信念があって言ったわけではない。それに、そもそも撤去すると言っても布団を外すだけだ。大した手間じゃない。
「あなたも入った方がいい」
「ああ」
 部屋自体を過剰に温めているわけではないので、コタツから出ていると微妙に肌寒い。コタツに入ったところで背中なんかは冷えるのだが、下半身を温めるだけでかなり違うようだ。
 まあ、長門のようにすっぽり入ってしまえば、全身くまなく温められるのだが。
「おっと」
 布団をめくると長門の足があった。反対側から肩のあたりまで入っているので、はみ出るほどではないがこちらまで浸食してきている。
 俺はそれを避けて、長門と並行になるように足を入れる。
「あ」
 長門の体に足がぶつかったらしい、長門が動いてコタツがわずかに振動した。
「悪い」
「……」
 長門はすっぽりとコタツに埋まっているので、こちらからは顔が見えない。最も、姿が見えていたところで、後ろ姿のはずだが。
「う」
 足にぞわりと奇妙な感触があった。くすぐったい。
「わざとやったわけじゃないぞ」
「わたしもわざとではない」
 言いながら、足の裏がつんつんと突かれている。指などではなく、恐らく肘でも使っているのだろう。
「はあ」
 コタツ布団をめくる。もちろんそこには長門の足があって、さっと引っ込めようとするが、俺はその足首を掴んだ。
「悪いな、わざとじゃないんだぞ」
 そういって、逆の手を使って足の裏をなぞる。あまり力を入れないように、触れるか触れないかといった感じだ。
「――っ!」
 がくん、コタツが跳ねた。長門の体がよじれたというか、尻がぶつかったようだ。
「指を使った」
「ん?」
「指を使ったということは、あなたも同じことをされる覚悟があるということ」
「なんだそのちょっとかっこよさそうな台詞は」
「問答無用」
 次の瞬間、俺の足が固定され、今までの人生で一度も味わったことのないようなくすぐったさが全身を駆けめぐった。


 それから数分後、長門が「動いたから暑い」と言って、コタツの布団を取り外していた。

今日の長門有希SS

「これが……なんて、大きいのでしょう」
 緑色の髪をした先輩は、驚愕に目を見開く。太く長いそれは、通常のものよりかなり大きい。
「これは、舐めても折れたりしないのでしょうか」
 ほうと息を吐きながら、根本にそっと手を添える。
「……」
 おずおずと顔を近づける。小さく整った唇から、可愛らしい舌がのぞく。それが、だんだんと接近する。
 ぺちゃり。
 屹立したそれに、舌が触れた。側面からだった。
 ぺちゃり……ぺちゃり……
「美味しい……この、ミルク……」
 うっとりとした表情で舌を動かし続ける。その舌は、とろりとしたミルクのせいで白く汚れている。
 口元から垂れる液を感じたか、彼女は顎から唇まで指でなぞる。ミルクの付いた指は、日光を浴びてテカテカと輝いている。
 しばらく見つめてから、したたる白い雫をその小さな舌でチロリとすくい取った。
「はあ、美味しい……」


「何やってんですか、喜緑さん」
 ここはショッピングセンターのフードコート。長門がいるのは当然だが、本日は朝倉や喜緑さんも一緒にやってきた。そういえば、この四人で出かけるのも、最近あまりなかった……ような気がする。
 で、そこで飯を食おうとしていたのだが、喜緑さんは最初からいきなりソフトクリームを買ってきた。俺と長門はカレー、朝倉はラーメン、喜緑さんだけソフトクリーム。意味がわからない。
「食後のデザートです」
「いきなりじゃないですか」
「お二人を見ているとお腹いっぱいなんです」
「……」
 思わず、長門と顔を見合わせてしまう。
「いえ、朝倉さんと革新派のヒューマノイド・インターフェースのお二人」
「引きこもりだけどサバゲーマニアっ娘がいつの間に!?」
「冗談です」
 くすりと笑う。
「ああ、青春っていいですねえ」
「喜緑さんも初対面の時は彼氏を助けてくれとか言っていたじゃないですか」
「物は言い様です」
「……」
 用法が違うような気がするが。
「とにかくですね、熱々のお二人を見ていると、それだけで空腹も満たされてしまいます。だからこのデザートだけで十分なんです」
 ぴちゃぴちゃ、と口から水音を立てる。無駄にエロい。
「あと、実は家を出る前に菓子パンを食べてしまったのです」
「普通に食ってたんじゃないですか」
「でも、甘いパンってあまり食事って感じしませんよね」
「何を食べたんですか」
「パンの耳にチョコレートがコーティングされたやつ、ご存じありません?」
「あー」
 確かにあれは食事っぽくはない。
「ランチパックを作った廃品利用みたいなパンです。同じメーカーなんですよ」
「はあ」
「普通のチョコだけじゃなくて、ストロベリーとかあって美味しいんですよ」
「はあ」
「でも、ランチパックを作った廃品利用みたいなパンなんですよね」
 なぜわざわざ上げて下げますか。
「とにかく、お腹が一杯なんですよ。専門用語で言うと『お兄ちゃん、オナカいっぱいだよぅ』って感じです」
「専門的すぎますね」
「……」
 くいくい、と引っ張られる。
「なんだ、長門
「そういう台詞が好み?」
「おかしな事を覚えなくていいからな」
「やだ、キョンくんって……そうなんだ……」
「お前もおかしな誤解をするな朝倉」


 ともかく、そんな風に食事の時間は過ぎるのだった。

今日の長門有希SS

 前回の続きです。


「眼鏡のメイドさんも悪くないわね」
 この一言だけで状況を全て説明できているようには思うが、遅れてやってきたハルヒはまず朝比奈さんにターゲットを絞り、持ってきた眼鏡を次々と朝比奈さんにかけていった。まるで着せ替え人形……と言う言葉が適切なのかどうか俺にはわからない。ハルヒが来る前から着ていたメイド服はそのまま身につけているので、着替えをさせているわけではないからだ。
 しかしながら、眼鏡の着脱っぷりはその比ではない。眼鏡ケースから出して、顔にかけて、外す。この間、一分もかからない。
キョン、こういうのはどうかしら?」
「メイド長って感じだな」
 俺はハルヒのコーディネイトした朝比奈さんに対し、思ったままの言葉を口にした。
 朝比奈さんがかけているのは、楕円型の黒縁眼鏡。縦より横に長い。しかもそれはつるにチェーンがつけられており、肩に垂れ下がってから後ろに流れている。
「なんか、これだと仕事できそうなイメージね。みくるちゃん、お茶淹れてみて」
「ふぁい」
 ハルヒの予想に反し、朝比奈さんの足取りはおぼつかない。ふらふらとポットに向かう途中、机の角にぶつかって「あいたた」と漏らす。
「やっぱりみくるちゃんはドジっ子メイドさんの方が似合ってるわね」
 ま、予想を裏切られた割にハルヒが不満そうでないのでいいだろう。朝比奈さんもそれほど勢いよくぶつかったわけではないし、タンスの角に小指をぶつけたことに比べれば怪我のうちにも入らない。
「サングラスもあるのか」
 気まぐれに開けたケースの中に入っていたのはまっ黒なサングラス。これをかけて黒いスーツでも着れば、宇宙人の秘密を握った組織に在籍するエージェントだと名乗ってもいいかも知れない。
「手に持ってないでかけてみなさいよ」
 と言って、持っていたサングラスがハルヒの手に渡り、それから俺の顔に。
「……あんた、サングラス似合わないわね。目が見えないのがよくないわ」
「ちょっと暗いが視界はあるぞ」
「あたしからに決まってんでしょ」
 わかってたけどな。
「古泉くんはなんか勉強できそうね」
「はは、どうも」
 そう返した古泉は、知的に見えつつお洒落さは失っていない、なんともスカした眼鏡をかけていた。
「俺には、結婚詐欺を企んでいるようにしか見えないけどな」
「それはそれで褒め言葉ね。結婚詐欺師って、相手に魅力的に見せようと努力してるでしょ? つまり、今の古泉くんは結婚詐欺をしかける人と同じくらい、自分を魅力的に見せる眼鏡をかけているってことよ」
「ありがとうございます」
 いや、褒めてることになっているのかね、それ。
「ところで長門は、どうしたいんだ?」
「……」
 俺の言葉に、長門は本から顔を上げる。
 いつの間に眼鏡を持っていったのかわからないが、その顔にはフレームのない丸い眼鏡に鼻とヒゲ……いわゆる鼻眼鏡が装着されていた。
「ユニーク」
「お前自体がな」


「こう言うのもあったわね」
 ハルヒが選んだのは、半透明のサングラス。銀縁にブルー系統のグラスがはいったもので、俺がかけられたものに比べるとお洒落な印象だ。
「どうよ、キョン
 ハルヒはつるを畳んだまま顔の前にあてる。
「片方が赤だと立体映画とか見れそうだよな」
「昭和?」
「さあな」
 俺も知らない。
「片方が青って、こんな感じ?」
「それだと戦闘力でも計測できそうだな」
 他にもサングラスはあったが、確かまだ赤はお目にかかってないな。
「まあ、そういうサングラスってなんとなく悪い奴がかけてそうだな」
「誰にかけるのがいいかしら。サングラスなら、有希も意外な感じでいいかも。みくるちゃんもギャップ萌えでいいわね」
「似合いそうなのは古泉か」
「古泉くんがかけたら、なんかホストとかそっち系になりそうね」
「光栄です」
 光栄か?
「でも、意外性を狙わないなら確かに古泉くんね。普段は大人しいサラリーマンなのに、サングラスをかけると特命を帯びた係長になって悪者をやっつけるの」
「あの係長、普段は眼鏡で暴れる時だけ眼鏡を外すんじゃなかったか?」
「じゃあ、サングラスをかけたヤクザの親分が、素顔でサラリーマンやってるの」
「その設定から離れろ」
 しかし、そういう作品が指示されてるってことは、世のサラリーマンはそんなに暴れたいんだろうかね。
「とにかく、古泉くんこれこれ」
 と言ってサングラスを古泉の顔に引っかける。
 途端、正面に座っていた俺は凍り付いた。
「ぁん?」
 口から小さな声が漏れる。
 サングラス越しの古泉の目は、笑っていなかった。眉間にシワをよせ、俺を睨みつけるようにしている。
「あれ、古泉……くん?」
 顔を向けられたハルヒが一歩下がる。
「ひっ――」
 顔をのぞき込んだ朝比奈さんの手から金属製のトレイが滑り落ち、カラカラと大きな音を立てた。顔から血の気が引いて、白というか青というか、まあそんな色になっている。
「なんだ?」
 まずい、ハルヒの設定が本当になって、古泉のガラが悪くなった。目を細め、普段の営業スマイルをふっとばした古泉は、まるで何人か殺してそうに見える。
「外した方がいい」
 いつの間にやら、長門が古泉のすぐ横にいた。素早くサングラスを外すと古泉はいつも通りの顔になる。
「このサングラスには度が入っている。度の入ったサングラスをかけ続けると、視神経に悪影響がある」
「……ありがとうございます」
 やや笑顔を強ばらせる古泉は、長門に向かってぺこりと頭を下げる。
 実際に度が入っているのかも知れないが、明らかに古泉の様子はおかしかった。ハルヒは「あー、そういうことね。でも度の入ってない眼鏡ばかり集めたはずだけど」とか首を捻っているが、まさか古泉の性格が変わっていたなんて思いつかないだろう。
「ところで長門、一ついいか」
「なに」
「お前も外した方がいいと思うぞ」
「……」
 長門はぴくりと肩を震わせてから、そっと鼻眼鏡を机に置いた。

今日の長門有希SS

 人間、平穏が一番である。
 こういう言葉は高校生としては大人しすぎるように聞こえるかも知れないが、それは俺たちSOS団にとって何よりも貴重なものだ。今はのんびりと、朝比奈さんのお茶を飲みながら古泉と将棋を指しているが、これがいつ破られるかわかったものじゃない。
「どうかなさいましたか?」
 真正面から声がかかる。
「ちょっと遅いと思ってただけだ」
 俺の視線はハルヒの指定席に向いている。
 今はそこに誰も座っていない。パソコンの前は空席だ。
「あいつは掃除当番だったから俺より後になるのは当然だが、とっくに終わっててもいい時間だ」
「それは……何もないといいですね」
「ああ」
 ハルヒは目の前で何かやらかしている時が一番厄介だが、目の前にいない時も同じくらい厄介だ。もちろんあいつだって年がら年中騒動を引き起こしては――いるんだが、毎日というわけではない。
 どちらかと言えば、ただパソコンをいじくりまわして時間を潰しているだけの日が多く、俺たちは無駄に放課後の時間を費やすことになる。古泉の将棋の腕前はなかなか上達しないし、古泉とばかり将棋を指している俺も似たようなもんだ。お茶を淹れ、雑用をする朝比奈さんの仕事はそもそも俺たちが時間を潰していなければ発生しない類のものだから、どちらかと言えば「無駄ではない」と断じてもかまわないのは、読書をして新しい知識を吸収している長門だけだ。
 などと考え事をしていると、何の前触れもなく部室のドアが開いた。いつかドアを破壊するのではないかという勢いである。
「お待たせ!」
 ハルヒは満面の笑みを浮かべている。嫌な予感がした。
「用意してたら遅くなっちゃったわ」
 一体なんの用意だ。
 などという言葉を発する必要はなかった。ハルヒの手には、何やら中身が詰まっているらしい紙袋が携えられている。
 まずそれをドンと長机の上に置き、倒す。紙袋の中に詰められていた何かは、物理法則に従って机に散らばり、将棋盤を押し流した。まあ、将棋盤自体はそれほど軽い物ではないので、流されると言ってもわずかなものだが、それでも盤上のコマの配置を狂わせることは可能だったようだ。
「おや、あなたの飛車が歩の前に」
「取るなよ」
 元に戻そうにも、俺も古泉も多少は考えているが確固たる戦略を持って打っているわけでもないし、中盤から終盤にかけては思いつくまま手なりで進めているので、どこにどのコマがあったかなんて覚えちゃいない。
 というわけで、これは無効試合として放置したほうがいい。
「で、これはなんだ」
 机の上にあるのは色とりどりの小さなケース。大きさは共通で、どれも片手で握れるようなサイズだが、実際に持たなくても手からははみ出る長さだ。皮やプラスチックや金属、素材はそれぞれだが、ペンケースのように見えなくもない。
「なんか書くのか」
「は? あんた何言ってんの?」
 遠足の説明中に「バナナはおやつに入りますか」と質問された教師のような顔をして、ハルヒは手元にあったケースを持ち上げて開ける。
 中には縁なしの眼鏡があった。
「どうしたんだ」
「思ったのよ、SOS団に何が足りないか」
 つるの部分を閉じたまま、ハルヒはそれを自分の顔にそえる。
眼鏡っ子よ!」
 その瞬間、俺や朝比奈さんや古泉の視線が一点に集中する。
「……」
 言うまでもなくそれは、今もなお読書を続けている長門に他ならない。ハルヒがやってきても、我関せずと無関心だった長門だが、さすがに視線が集まると――まあ、読書を中断することはなかったのだが。
「眼鏡なら長門がそうだっただろう」
「今は違うじゃない。それに、あたしの求める新しい眼鏡っ子像と有希はちょっと違うのよね」
「……」
 本から視線を上げた長門は、ようやく気が付いたようにハルヒに顔を向け、わずかながら頭を横に傾ける。
「ほら、眼鏡をしてるって当然目が悪いじゃない? 読書好きとか、ガリ勉とか、まあ有希はそのイメージにうまく当てはまりすぎてる気がするのよ。あ、もちろん王道って重要だけど、そればかりじゃ面白くないじゃない。SOS団が誇る眼鏡っ子には、新機軸が必要なのよ!」
 わけのわからない熱弁を始めやがった。言っちゃあ悪いが、ハルヒの口にしている内容が俺にはちっとも理解できない。
「で、長門以外で眼鏡の似合う奴を新たな眼鏡キャラにしようと考えたわけか」
「そういうこと」
 どういうことだ。
「とにかく、試すわよ」
 ハルヒの一方的な宣言により、またよくわからないことが始まるのだった。

今日の長門有希SS

 前回の続きです。


「……」
「どうかしたか?」
 午前は長門と二人で回ることになった。特に目的なくぶらぶらと歩き回っていたが、普段にも増して口数が少ない長門に疑問を覚えて声をかけた。
「考え事をしていた」
「何をだ?」
「今朝の事。朝比奈みくるについて」
 それはつまり、集合場所に向かって来た途中で電柱にぶつかった時のことだろう。そういえば、朝比奈さんが遅刻してきたのも珍しい。改めて思い出すまでもなく、今朝の朝比奈さんは普段とは違った。
 何か、長門が考え込んでしまうほどの、まずいことが起きているのだろうか。古泉も気にしていたくらいだ。
「なあ、朝比奈さんが遅れてきたのは本当に単なる寝坊なのか?」
 喫茶店でそのように説明していたのだが、あれはハルヒの前だからそう言っただけで、実際は何か違う理由があるのかも知れない。
「嘘をついていた様子はなかった。言葉通りに受け取ってもいい」
「そうか」
 それならいいんだけどな。
「じゃあ、朝比奈さんのことで何を考えていたんだ? 電柱にぶつかったことか?」
「そう。不可解な点がある」
「本当か?」
「……」
 長門は無言のまま首を縦に振る。
 確かに、動いている物ならともかく、ただその場にあるだけの電柱にぶつかるというのは、なかなかあることではない。よそ見していたとしても、なんとなく察知してよけることはできるだろう。
「朝比奈さんは、焦ってぶつかっただけって言ってたよな? 実際は違う原因があるのか?」
 例えば、朝比奈さんが何らかの勢力によって攻撃を受けていたという考えはどうだろう。本人が気づいているかどうかはともかく、視覚など認識がおかしくなっていたとか。
「それはない。朝比奈みくるが電柱にぶつかったのは、あくまで不注意によるもの」
「じゃあ、何を考え込んでいるんだ?」
「あんな風にぶつかれる理由がわからない」
ハルヒはドジっ子だからとか言ってたな」
涼宮ハルヒがそう断言したのなら、恐らくそれは正しい。しかし、いくら不注意だとしても、電柱に衝突するのは難しい」
「まあ、実際に焦って見えていなかったんだろう」
「人間の視界はそこまで狭くはない。正面を見て」
「ああ」
 言われるままに顔を前に向ける。
「わたしが見える?」
 長門は俺の横にいる。真横ではなく、半歩前に移動したあたりだ。
「ああ」
 意外と見えるもんだな。
朝比奈みくると電柱の位置関係はこのくらい」
 と言うと、そこから斜め前に移動し、俺の前でくるりと回れ右をする。
「このような位置関係で体当たりをしなければいけない」
「わざわざぶつかろうと思わなきゃ難しいな。まあ、車に轢かれそうだから助けるとか、そういう事情でもなければ体当たりはできない」
 しかも相手は電柱だ。朝比奈さんは怪我をしていなかったようだが、運が悪ければ大怪我をしているだろう。
「仮に、電柱にぶつかっても絶対に怪我をすることはなく、痛みがなかったとしたら、体当たりをすることはできる?」
「どうだろうな」
「試したい」
 長門に手を引かれて歩き出す。先ほどの場所から少し移動し、電柱の前に立たされる。距離は一メートルほどか。
「ぶつかって」
「ああ」
 軽く駆けだして電柱に衝突する。ぶつかったのは肩で、俺の体は半回転する。
 長門の言うように痛みはない。擦り傷すらできていないだろう。
「これでいいのか?」
「あの時、朝比奈みくるは可能な限りの速度で走っていた。あなたも全力を出して」
「わかった」
 先ほどの位置に戻り、今度は全力で――
「うわっ!」
 思わず電柱をよけてしまう。電柱が迫ってくる速度が異常に速かった。
「なんだ、今のは」
「人間の筋肉は、全力を出し続けると破壊されてしまう。緊急事態を除き、百パーセントの能力を発揮することはできない」
「で、それがどうしたんだ」
「痛みと同時にそれもカットしてしまった」
「そうかい」
 道理でおかしかったはずだ。自転車を立ちこぎした時のような速度が出ていたような気がする。
「大丈夫、元に戻した。続きを」
「ああ」


 と、しばらくそれを続けていたせいか、不思議な人がいると聞きつけたハルヒがやってきて「紛らわしいのよ!」と昼食をおごらされることが決定した。

今日の長門有希SS

「来ないわねえ」
 ハルヒが携帯のディスプレイで時間を確認して呟く。
 とある休日の朝、例によって不思議探索のために集められた俺たちだが、ここにいるのは四人。最後に到着し、集合時間に間に合っているか否かにかかわらず喫茶店の代金を支払わされることにも慣れてしまったが、決して無駄金を使いたいわけではないので、払わなくてすむならそれに越したことはない。
「電話してみたらどうだ、寝坊している可能性もある」
「寝坊なんてするのあんたくらいよ。それに、まだ五分しか過ぎてないし、早すぎるわ」
「俺の場合はすぐに電話がかかってくるような気がするけどな」
「あんたは特別よ」
 そうかい。
「集合時間を間違えている可能性もありますね」
 横から口を挟んできたのは古泉だ。このまま駅前でナンパをしたら今日中に婚姻まで持って行けそうな、うさんくさい作り笑いを顔に貼り付けている。
「ありえなくもないわね」
 俺と違って古泉の言葉はあっさり飲み込むんだな。ハルヒは携帯を開いて操作して「メールにはちゃんと書いたんだけど」なんてぶつぶつ呟く。
「メールを見てないんじゃないのか?」
「ちゃんと返信が来てるわよ。あんたと違って」
 俺の場合、メールが入浴中に来ていたので、気が付いたのは布団に入った時のことだった。既にメールを返すには遅い時間になっていたので、そのまま返信しないで寝てしまった。
 なお、寝ている間にももう何件かメールが来ていて、それを返信したのは今朝のこと。
 ハルヒは古泉と話し始めてしまったので、俺の方は手持ち無沙汰になる。俺たちから離れ、ベンチに腰掛けていたもう一人の横に腰を下ろす。
「まあ、単なる遅刻だよな。別になにも起こっちゃいないだろう?」
「そう」
 本に視線を落としたまま長門はこちらを見ることなく断言した。
朝比奈みくるの家からこの場所までの間で、事故や事件の類は観測できない。ただ単純に遅れているだけ」
「それならいいんだ」
古泉一樹にも同じことを聞かれた」
 ハルヒは不思議な存在に取り巻かれているが、その中でも古泉の所属する『機関』は特に異変に過敏だ。もしどこかでおかしなことが起きた時、最初に対応するのは恐らくそこだろう。長門も朝比奈さんも、どちらも積極的に動こうとするほうではない。
「それなら、別に心配する必要はないよな」
「大丈夫」
 長門はぱたんと本を閉じ、顔を上げた。
「もう来た」
 その方向に顔を向けると朝比奈さんがいた。
「すいませぇん!」
 ぱたぱたと小走りに駆けてくる。朝比奈さんにとっては全力なのかも知れないが、あまりスピードも速くなく、走り方も相まってそれほど急いでるようには見えない。
 しかし、朝比奈さんの顔を見ると、かなり焦っているようだ。半泣きで、髪がほつれている。とりあえず、服だけ身につけて飛んできたといった風情だ。
「もう、遅いわよー」
 怒っているより、どちらかというとほっとした様子でハルヒが声をかける。恐らくあいつも、朝比奈さんが来ないのは事故にでもまきこまれたのではないかと少しだけ心配していたらしい。
「ふぇ、今行きますぅ――きゃぅ!」
 突然の出来事だった。歩いていた人を避けたはずの朝比奈さんが、くるくるとコマのように回転して倒れた。
「みくるちゃん!?」
 ハルヒが駆け出す。運動神経が抜群で足も速いハルヒだが、驚いたせいかあっさりと古泉に追い抜かされていた。
「大丈夫ですか」
 遅れて俺や長門も到着した時、朝比奈さんの体を抱き起こしていたのは古泉だった。まるで少女漫画に登場するイケメン野郎のようだ、まるで台本に従っている役者に見える。
「みくるちゃん、どうしたの? 何かに足を引っかけた」
「えっとぉ、ぶつかっちゃいました」
 朝比奈さんは困った顔で俺たちを見回し、おずおずと手を上げる。
 指を差したのは、少し離れたところにそびえ立つ電柱だった。
「もう、なんで止まってる電柱にぶつかるのよ」
 呆れたように息を吐き、朝比奈さんの頭をくしゃくしゃになで回す。
「し、心配かけてすいません」
「さすが天然モノのドジっ子ね。養殖じゃこうはいかないわ……心配したけど、いいもの見れたわ」
 さて、とハルヒは朝比奈さんの手の手を引いて起こす。
「それじゃ、いつものところに行きましょう。みくるちゃんのドジっぷりは待った甲斐があったし、今日はキョンのおごりで」
「ちょっと待て」


 もちろん俺の言葉など聞き入れられることはなく、俺の財布からまた金が飛んでいくことが決定するのだった。

今日の長門有希SS

「おかわりが欲しい」
 放課後の部室、例によって古泉とトランプをしながら過ごしていると、長門の声が耳に入る。特別大きな声を出したわけではなかったのだが、俺と古泉の雑談も途切れ、たまたま静かになっていたタイミングだった。
「あ、はぁい」
 朝比奈さんが返事をして立ち上がり、急須を確認して「ちょっと待ってくださいね」と長門に声をかける。
 長門が示しているのは湯飲みだ。そもそも、俺たちは別に何かを食っているわけでないし、おかわりという単語が指し示すものはそれくらいしかない。
「わかった」
 触れていた手を湯飲みから外し、長門はその手を机の上から下ろす。読書をしているわけでなく、両手は太股の上にでものせられているのだろう。湯飲みの横には先ほどまで読んでいたはずの文庫本が置かれている。
 長門だって、常に本を読み続けているというわけではない。本を読みながら食べるには厳しいお茶菓子などが用意されている場合、長門は読書よりそちらを優先する。
 しかし、こうして朝比奈さんがお湯を沸かしているのを待つ間に、本を開いていないのはなんだか珍しいように思える。
「読まないのか?」
「一休み。少し、疲れたから」
「へえ」
 俺の頭では少々理解しがたい小説をすらすらと読んでいる長門だが、そんなこともあるのか。
「どうしたんだ?」
「登場人物の中に、少し嫌なキャラクターがいた」
 様々な本を読んでいればそんなこともあるだろう。そもそも、主人公に敵対する存在というのは、定番と言ってもいい。多くの物語では主人公が挫折したりピンチに見舞われるものだ。
「敵対するわけではない。ただ、なんとなく読んでいて不愉快なキャラクターだった」
「そうか」
 まあ、そんなこともあるのだろう。全ての登場人物が万人に好かれるような性格とは限らないのだ。もっとも、それで読者に嫌な印象を与えるのはどうかと思わなくもないが。
「どうぞ」
「……」
 朝比奈さんがお茶を注ぐと、長門は無言のままわずかにアゴを引く。それからゆっくりした動作で口に運び、湯飲みを傾ける。口から離して一息吐いてから、もう一度口を付ける。
「……」
 長門はすっと立ち上がり、本棚から新たな一冊を取り出して、それをめくり始めた。先ほどの本は机の上に置いたままだ。
 一服して気分転換し、そのまま読む本まで変えてしまったらしい。中断した本をいつ読むのかわからないが、長門のペースなら今読んでいる分もすぐ読み終わって、またすぐに再開するのだろう。
「ねえ有希」
 と、そこでハルヒが横から口を挟む。部室の中が静かだったので、俺たちの会話が聞こえていたらしい。
「その本、読まないならあたしが読んでもいい?」
「かまわない。ただし図書館から借りたものだから、一週間程度で返して欲しい」
「まあ、そんなに厚くないみたいだし、明日か明後日には返してあげるわ」
 本来は又貸しはよろしくない行為だと思うが、ハルヒなら大丈夫だろう。


 その翌朝。
「……よう」
 登校した俺は、ハルヒの顔を見て声をかけるのがためらわれたが、放置した方が後で面倒だとわかっているので渋々声をかけた。
「おはよう」
 不機嫌そうに、ハルヒは本から顔を上げる。
「どうしたんだ?」
「有希の言ってたことわかったわ。ムカつくキャラがいるのよ」
「ああ、昨日借りた本か」
「そう。帰ってからちょっと読んで、なんかウザいからすぐ閉じちゃったのよね。で、学校来てから読んでみてるんだけど、いちいちシャクに触るキャラなのよ」
「そういうのって、後からやられてすっきりするって展開じゃないのか?」
「味方側のポジションなのよ。あたし的にはあっさり死んでくれてもいいキャラなんだけど、そんな重い話じゃなさそうだし」
 はあ、と溜息を吐く。
「そんなにイライラしてんなら読まないで長門に返せばいいじゃないか」
「途中まで読んじゃったし、読むわよ」
 それで例の閉鎖空間でも発生させていたら問題があるが、そうなったら古泉がそれとなくハルヒの読書を止めるか、もしくはなんとかするだろう。俺は「そうかい」と答えて椅子に座った。


 それから数日後、本を返したハルヒと、返された本を読み終えた長門がそのムカつくキャラクターについてどうでもいい話題を繰り広げることになるのだが、それは本当にどうでもいいことだった。