最強伝説黒沢凛

 ああ、それにしてもお金が欲しい。


 スターライト学園はアイドル学校である。
 難関の試験を突破した者だけがくぐることを許される狭き門。世にアイドル学校は複数あるが、スターライト学園は名門校としてトップの知名度を誇り、現トップアイドルの星宮いちごや数多くのCMに出演する藤堂ユリカを擁するなど、実績も確かなものだ。
 スターライト学園は寮を備えた広い敷地を持ち、初等部から高等部までの生徒が通っているが、中心となるのは中等部だ。初等部は既に子役として活動している者を対象に、通常の小学校では難しい学業と仕事を両立できるようにするための小規模なコースであり、高等部の場合は、そこまで残るほどの生徒となるとアイドル業が忙しくまともに学校に通えなくなるため、授業に参加する生徒は激減する。高卒の資格を得るために在籍するだけの、専門学校のような存在と言えよう。
 このスターライト学園では、全ての生徒が特待生のような扱いであるため、学費や寮の入居費は無料である。文房具や食事など雑費は各自で支払う必要があるが、大きな支出となる部分は支払う必要がない状態だ。トイレとセットになったユニットバスと収納を備えたワンルームの部屋が二人一組に与えられ、優秀な講師陣からレッスンが受けられる。仮にこの環境に金銭を支払うとすれば、かなりの金額になるはずだ。
 その代わりというように、アイドルたちのギャランティーの大半は学園に入り、運営費用に使われる。学園そのものが芸能事務所のようなものだと考えると、それも当然と言えるだろう。
 ただし、働きに応じた報酬が存在しないというわけではない。売れているアイドルに不満が生じないよう、学園に入った金額に応じて、スターライトマネーという独自通貨で給料が支払われれる。
 このスターライトマネーの価値は、学園内でしか使用できないが、おおよそ日本円と同等のレートだ。例えばドーナツは百スター、日替わり定食は五百スター、購買で販売される文房具も、一般的なものと同等の金額だ。
 ただし、これを日本円に換金する場合、その価値は激減する。具体的には十スターが一円となり、千スターであれば百円。千スターは学園内ではきちんとした食事が二回できる価値があるが、外に持ち出せば百円となりカップ麺ひとつ買うのがやっとの有り様だ。
 とはいえ、アイドル業に必要なものの大半は購買で買うことができるし、仕事に必要な交通費については学園から支給されるほか送迎などもあるので、換金が必要になることはそれほど多くはない。スターライトマネーから円への換金はできるが、その逆に円でスターライトマネーを買うことはできないので、必要がない限り大半の生徒はスターライトマネーの状態で持っている。
 こういったちょっと特殊で不便な通貨であるが、生徒からの不満は少ない。一回のテレビ出演で数万スターが支給されるわけだが、これだけで一ヶ月以上の食費が賄える。円に換算したとしても数千円分となり、そもそも中高生の小遣いとしては十分な金額である。
 そういったわけで、ギャランティーの一割程度しか手元に残らないアイドルたちであるが、あまり金のことは気にせず、今日も今日とてアイドル活動にいそしんでいるのであった。


 食堂の入り口で、黒沢凛は財布の中身を確認する。入っている残高は千スターと小銭がわずか、日替わり定食を二回食べれば素寒貧だ。
 次に仕事があるのは五日後。一日ドーナツ二個で乗りきればどうにか生きてはいけるが、それではレッスンや本番がまともにこなせない。
 先輩の氷上スミレに誘われてユニットを結成し、二人揃っての初めてのステージ。万全の体調で挑まないと先輩にも観客にも失礼だ。
 凛が視線を下に向けると、包帯が巻かれた自分の足が目に入る。
 全てはこの怪我が原因だ。先輩と一緒のダンスレッスンで、いいところを見せようと張り切りすぎて、このザマだ。本来は二人でお披露目をする予定が、先輩一人にその重責を押し付ける形になってしまった。
 ジョニー先生の指示にも従い、きちんと足を休ませたおかげで、もうほとんどよくなっている。明日にはレッスンも思う存分できるようになる。
 凛がこんな貧困に追い込まれる羽目になったのは、この怪我のせいで、本来出演するはずだったステージに立てなかったことだ。
 怪我さえしていなければ、この時点で凛は出演料としてスターを手にしていたはずだ。その後もしばらくは仕事が続くはずで、数ヵ月は食いっぱぐれる心配などいらなかったのだ。
 もっとも、凛が特別困窮しているわけではない。特に入学当初はまだ経験が浅く、レッスン中心の生活になり、なかなかオーディションに勝ち残れない者が多い。そうなると最初に支給されたスターはあっさりと底をつく。
 こういう時、大抵の生徒はトレーナーの先輩を頼ることになる。先輩も入学当初は同じような経験をしているか、周囲でスターが尽きた者を見ているので、事情はわかっていて快く貸してくれる。一年も経てばそれなりに仕事をしていて、二人分の食費を出すくらいの余裕はできているものだ。そういったマネーの貸し借りや、一食おごってくれるなどの交流を通して、新入生とトレーナーの仲が深まることもある。
 そういう風土があるので、困窮している黒沢凛は無理をせずトレーナーである大空あかりに頼るのが普通であるが、なかなかそうできないのは理由があった。
「凛、こんなところで何をしているんですか」
 聞き慣れた声に振り返ると、そこにいたのはルームメイトの天羽まどかだ。不思議そうに首を傾げる様子は、アイドルだらけのこのスターライト学園の中で見ても、特に可愛らしいと凛には感じられた。
「まどか……えっと、何食べるかなーって」
「ほんとに? 凛、お金なくて困ってるんじゃないですか?」
 その言葉にどきりとする。まどかの指摘は、まさに図星だった。
「だと思いました。だから言ったじゃないですか、余裕ができてからの方がいいって」
「ううっ」
 まどかの言葉に、凛は全く反論できない。
 数日前のこと、凛はそれまで稼いできたスターライトマネーの大半を日本円に換金した。
 凛は入学前にはダンス動画の配信で知名度を上げ、その実績もあってスターライト学園に入ることができたが、学校に入ってからは新しい動画を投稿できずにいた。
 実家にいた頃は家族共有のビデオカメラで撮影してネットにアップしていたのだが、今は手元にカメラがない。一応、スターライトマネーを使ってレンタルすることも可能だが、どうせ今後も使うことになるのだし、一台欲しいと思っていた。
 そう思い始めたのは、高等部の『地下の太陽』こと、三ノ輪ヒカリ先輩の事を知ったからだ。
 入学前、素人にしてはかなりの閲覧数を稼いでいた凛だが、三ノ輪ヒカリはそれとは別格の存在だった。表のライブにはほとんど顔を出さず、動画の配信やネットラジオを中心とした、スターライト学園でも異質なアイドルだ。
 彼女の使用する地下スタジオは賃貸で、毎月かなりのスターライトマネーを支払っているらしい。だが、彼女のレベルになると、それを上回って定期的に機材を買い足せるほどの広告収入が得られて、結果的に設備投資した以上のプラスとなっている。
 そんな折、アマゾンのタイムセールで気になっていたビデオカメラがかなり安く売られていた。お年玉の貯金と、持っているスターライトマネーを換金して合わせれば、ギリギリ手が届く範囲だった。
 三ノ輪ヒカリに触発されてまた動画を投稿したくなっていた凛は、一も二もなく飛びつき「もっとお金が貯まってからの方がいいんじゃないですか」とまどかを呆れさせることになった。
 黒沢凛は、売れていない他の新入生と違い、それなりに稼いでいたのに、散財して失ってしまったのだ。
 天羽まどかと組んでオーディションに優勝し、新入生名鑑の表紙になった。そのおかげでまどかとセットでいくつか仕事のオファーがあり、新入生代表のような形でいくつかの番組にも出演させてもらった。更には、ダンスフュージョンのトップデザイナーからプレミアムレアドレスを受け取り、ソロライブも成功させた。
 これらの実績は、トレーナーである大空あかりも知っているし、彼女と同室で、凛のユニットパートナーである氷上スミレも、もちろん知っている。
 そんな彼女たちに向かって「十分なスターライトマネーを持っていたけど、買い物で散財してしまった。怪我をしたので予定していたライブに出られず、お金が底を突いた」なんて言えるはずがなかった。呆れられるどころの話ではない。
 あの二人は善良な性格をしており、頼めばきっとスターライトマネーを貸してくれるだろう。だからこそ、頼みづらくあった。嫌みを言われるとか、説教をされるとか、そういった相手の方がまだ罪悪感がなかっただろう。
「しょうがないですね」
 煩悶する凛にため息をついて、まどかはポケットから財布を取り出すと、五千スター冊を差し出してきた。
「え?」
「これだけあれば、次のライブまでには足りますよね?」
「そう、だけど……でも」
 先輩から借りるのならともかく、同じく新入生であり親友でありルームメイトであるまどかに借りるというのは、気が咎める。
「私から借りないのなら、先輩たちに事情を説明しますか? それともカメラを売りますか? どうします、凛?」
「うう……」
 それはどちらも凛にとってはつらい選択だ。特に、まだ一度テストで動作確認をしただけのカメラを売ってしまうのは、できれば避けたい。
 選択肢はもう残されていない。
「ごめん、まどか……貸してもらってもいい、かな」
「もちろんですよ」
「ところでその、利子とか……」
「凛、私が親友相手から利子なんて取ろうとすると思いますか?」
「あ、ごめん」
 そうだ、この天使のような親友が、そんなことを言うはずがない。
「助かったよ。それじゃあ、早速……」
「待ってください、凛。そのまま買いにいくつもりですか?」
 食券を買いに行こうとした凛は、まどかに手を掴まれて足を止める。
「え? うん、そうだけど……」
「下手ですねえ、凛は。へたっぴですよ」
「へたっぴって、どういうこと?」
「五千スターなら、十二枚綴りの食券があるじゃないですか。こっちの方がお得……というか、普通に買ってライブまで足りるんですか?」
 まどかの言うとおりだった。五千スターを借りられたことで気が大きくなっていたが、残りの日数を考えると、ギリギリ足りなくなる。食べられるメニューは限定されてしまうが、食券をまとめて買っておけば、なんとかライブまでは足りる。
「そっか……ありがとう、まどか」
「いえいえ」


「お腹いっぱい!」
 あれから食券を買い、凛は日替わり定食を食べ終えた。向かいに座るまどかも同じ物を食べて、にこにこと笑みを浮かべている。
「いやー、まどか、本当にごめんね。助かったよ」
「こういう時は、謝るよりお礼を言われた方がいい気分ですね」
「そっか。ありがとう、まどか」
「いえいえ、当然じゃないですか。困ったときは、お互い様ですからね」
「そうだね。もし助けが必要になったら言って、あたしがすぐに駆けつけるから」
「期待していますよ」
 まどかはそう言うと、優雅にティーカップに口を付ける。
「次のギャラが入ったらすぐに返すよ、五千スター。それでいいかな?」
「え?」
「え?」
「人からスターライトマネーを借りて、後から借りた分だけを返す。それでいいと思ってるんですか、凛」
 カップを持ち上げたまま、まどかは首を傾げてにこりと笑う。
「そんな……」
 凛の視界がぐにゃりと歪む。
 迂闊だった。まどかは「親友から利子を取ると思うのか?」とは言ったが「利子を取らない」とは一言も言っていない。借りてしまったスターライトマネーは既に全て食券に変わっており、返すことも出来ない状況だ。
 例えば、まどかが「利子はエンジェルガネです」と言えば、凛はエンジェルガネ――夕方に天使がラッパを吹けば借金が倍になる――で支払わなければいけない。つまり五日後には五千スターが十六万スターにふくれあがる。次のギャラがそれより少なければ、また利息はどんどんと増えていく。
「まどか、あたしは一体どうしたら……」
「そうですね……一日に五回、ですね」
「五回?」
 利子の話をしていたはずなのに、何か得体の知れない話になっている。
 凛には、まどかのにこやかな笑みが、恐ろしいものに見えてきた。
「仕事で会えない日には、凛の方から一日に最低五回はメールを下さい。あと、仕事で寮に戻ってこられない日は、夜に電話を下さい。十分でいいです」
「へ……?」
 予想していなかった言葉に、凛は拍子抜けする。わざわざ陥れるような真似をしたのに、そんな簡単なことでいいのか、と。
「そんな顔してますけど、これから凛はユニットでデビューして、忙しくなるんですよ。氷上先輩とのユニット、きっと話題になって、忙しくならないわけがありません。私はそうなるって確信しています。ですから、一日五回もメールするの、ちょっと多かったかなって思ってるくらいですからね」
「まどか……」
「ですから、ちゃんと食べてレッスンして、次のライブは成功させてくださいね」
「うん! 頑張るよ!」


 それから後、凛は氷上スミレとのライブを成功させて、まどかの言った通りユニットとして売れっ子になっていくのだが、この時の約束の通りメールや電話をして、確かな友情を育んでいくのであった。

アイカツ! いろいろな手

「おまおまおまたせー」
 ドリームアカデミーの食堂。テーブルに着いていた音城セイラの元に、冴草きいがぴこぴこと髪の毛を上下に揺らしながら駆け寄ってくる。
「ごめんねー、待ったー?」
「いや、今来たところ」
 正面に座ったきいにセイラが答える。
 セイラは午前に仕事があった。昼にはドリームアカデミーに戻って来られたので、きいと昼食を一緒に食べる約束をして、ここで待ち合わせをしていた。
 セイラがきいの姿を見るのは今日が初めてだが、どこか違和感があった。
「あれ、その指」
「えへへー、気付いた?」
 きいが両手を開き、セイラに向かって腕を伸ばす。
 両手の爪にはネイルアートが施されていた。黄色をベースにカラフルな模様がちりばめられているが、パステルカラーでまとめられているので派手な印象はない。どちらかというとポップな印象だ。
「どうかな?」
「きいによく似合ってるぞ。ラララーって感じだ」
「えへへー」
 セイラの言葉に、きいは可愛らしくニコニコと笑う。
「マリアちゃんにやってもらったんだー」
「ああ、だと思った」
 姫里マリアはセイラときいの共通の親友で、メイクやネイルが得意で、色々なアイドルにアドバイスしたり、実際にやってあげていることがある。きいの交友関係も考えると、誰にやってもらったのかは聞くまでもない。
「これ、何のイメージかわかる?」
 きいは悪戯っ子のような愛らしい笑みを向けてくる。セイラはその顔をしばらく見つめてから、テーブルに投げ出されたきいの手に視線を落とす。
「難しいな」
 セイラはきいの手を取り、まじまじと見つめる。
 最初に受ける印象はベースになっている黄色だ。次に多いのはピンクで、緑や水色の星や水玉が入っている。
 セイラもこの配色にはどこか見覚えがある。それも、きいに関係する何かだ。似合っていると言った言葉はお世辞ではない。
「うーん、どこかで見たことあるんだよな」
「わっかるかなー?」
 例えばきいのお気に入りのもの、今まできいがイメージキャラクターになった商品。色々と考えてみるが、なかなか思い浮かばない。あとはファッションとか――
「あぁっ! マジカルトイ!」
「ぴんぴんぴんぽーん! 大当たり!」
 セイラはほっとため息をつく。きいのことは一番理解していると自負しているセイラにとっては、この問題を外すわけにはいかなかった。言葉には出さなくても、がっかりさせてしまうかも知れない。
「これは本当にすごいな」
 マジカルトイはきいのトレードマークで、こういう配色はマジカルトイのグッズでよく使われるカラーだ。このおもちゃ箱をひっくり返したようなイメージも、一度気が付いてしまうともうマジカルトイにしか見えない。
「セイラもやってもらったら?」
「私は遠慮しておくかな。私はギターの練習もあるし、すぐ取れちゃったらマリアにも悪いよ」
「そっかー。スイングロックのネイルも気になるんだけどねー」
 きいの指先を見つめながら、セイラはスイングロックのネイルをイメージする。
 黒系をベースに、青や紫などの配色になるだろうか。きいのように細かく模様がちりばめられる感じではなく、大きく塗り分けられる感じのほうが、ブランドのイメージには合う。
「手を握り合って、何してるの?」
 と、横から声がかかって顔を向ける。
「そら」
 テーブルの横にいたのは風沢そらで、マリアと同じく二人の親友だ。
「別に握り合っていたわけじゃないよ」
 指摘されて初めて、セイラはきいの手をずっと持っていたことに気付き、慌てて離す。
「そのネイル、マジカルトイかな」
「あ、そらちゃんもわかった?」
「うん、イメージがよく表現できてる。さすがマリアだね」
 セイラがなかなか出せなかった答えをそらがあっさり出してしまう。
「でしょでしょでしょー。きい、このネイルすっかり気に入っちゃった」
 そらがすぐにネイルとブランドのイメージを結びつけられたのは、アイドルとデザイナーを両立しているからもあるだろう。ファッションのこととなると、セイラはマリアやそらには勝てる自信がない。
 セイラの場合、そのあたりをカバーしてくれるのがプロデューサーであるきいの存在で、公私ともに欠かせない存在となっている。
「あ、そうだ。さっき気付いたんだけど」
 きいがぽんと手を叩いた。
「マリアちゃんの手、すっごくやわらかいんだよ。ネイルしてもらってる時、ぷにぷにしてて気持ちいいなーって思ったんだ」
「へー」
 マリアはふわふわとした雰囲気のアイドルで「手が柔らかい」と聞いて、セイラもなんとなく納得する。先ほどきいにも話した通り、ネイルをしてもらうつもりはしばらくないが、ちょっと手を触らせてもらってもいいかも知れない。何かと会う機会はある。
「私にもちょっとネイルを見せてもらってもいいかな」
「いいよー」
 そらはきいの手を取り、ネイルを見つめてくすっと笑う。
「きいちゃん、たぶんそれちょっとだけ違ってると思う」
「違ってる?」
「私の手はどうかな」
「そらちゃんの?」
 きいはそらの手を握り返し、口をへの字にする。
「えっと、大きい……っていうより、指が長くて……あ、そらちゃんも柔らかいね」
「私はちょっと手が大きいけど、柔らかさは私もマリアも普通だと思うよ」
「そうなの?」
「誰の手と比べて柔らかく感じたのかな?」
 そう言ってくすりと笑う。
「え……? あっ!」
 一瞬目を泳がせてから、セイラと目が合った途端、みるみるうちにきいの顔が赤く染まる。
 セイラはロックバンドをやっていてギターを弾いているので、指先がちょっと固くなっていると自覚がある。きいとはよく手をつないで歩くし、きいにとって一番触れる手が自分だというのは、間違いない。
「セイラも真っ赤だね」
 やけに顔が熱いとセイラは感じていた。きいも真っ赤で、うつむいて指先をもじもじと動かしている。
「みんな、どうしたの」
 会話が止まっていたところで、マリアがひょっこりと顔を出した。
「きいちゃんのネイルを見せてもらっていたの。マジカルトイらしくていいと思うよ、マリア」
「ふふ、そらに褒めてもらえると嬉しい」
 ころころと笑ってから、マリアはきいの手元に視線を移す。
「あ、そうだ。さっき気付いたんだけど」
 マリアがぽんと手を叩いた。
「きいちゃんの手、小さくてすっごく可愛いんだよ。さっきネイルしてる時、ずっと思ってたんだ」
「え、それって」
 きいが呟いてそらの手に視線を向ける。セイラもそちらを見ると、そらは視線を泳がせていた。
「誰と比べて小さく感じたんだろうな?」
 セイラがそう言ってやると、そらの顔が一瞬で真っ赤になった。
「なんのお話?」
 マリアだけがセイラの言葉を理解できず、にこにこと首を傾げていた。

今日の長門有希SS

「なんでもラー油を入れればいいと思っているんじゃないでしょうね」
 涼宮ハルヒの発言はいつも唐突である。今は放課後で、いつものように文芸部の部室で適当に時間を潰していた最中であり、朝比奈さんが淹れてくれた紅茶を口にしてはいるが食事中ではない。
 そもそもハルヒの言葉は俺たちの誰かに離れたわけではない。頬杖をついて気だるそうにカチカチとマウスをクリックしながら呟かれたものだ。
「一体なんだってんだ」
「スーパーに行ったら食べるラー油ってのが売ってたのよ。聞いたことのない知らないメーカーの。で、ちょっとそれを思い出して調べてみたら、具の入ったラー油だけじゃなくてラー油の入った食べ物が色々と売られてるみたいなのよ」
「確かにそういうのあるな」
 流行りだしてからけっこう経っていて、本家のラー油は今だに品薄のようだが類似商品はかなり多く見かけるようになっている。それだけでなく、ハルヒの言うようにラー油が入っていることを売りにした食べ物をよく見かける。レストランのメニューなんかにもあるし、ラー油の入ったマヨネーズなどというよくわからない商品もあった。
 ちなみに実家暮らしの男子高校生たる俺がなぜスーパーで陳列されている商品を知っているかと言うと、交際相手である長門の部屋に入り浸って一緒に買い物に行く機会が多いからである。
「まあ、それがどうした」
「だから、何にでも入れればいいってものじゃないと思うのよね。みんなブームに踊らされすぎなのよ」
 ハルヒは紅茶の入ったカップをあおり、ふうと息を吐き出す。
「そもそも、食べるラー油って言い方自体もどうかと思うわけよ。食べる、って何よ。そもそもラー油って調味料でしょ? 口に入れるものじゃない? なのにわざわざ『食べる』なんて付けて、本来のラー油が食べるためのものじゃなかったみたいな言い方はおかしくない?」
「お前の言いたいことはわからなくもないが、固形物が入ってるから食べてる感じがするってことじゃないか?」
「だったら、食べてるのはラー油じゃなくて具じゃない」
 そればかりは作ったメーカーとか宣伝してる奴らに言ってもらわないとな。
「とにかく、食べるラー油が流行ってるんだから、食べないラー油がないとおかしいと思うわけよ。わかった!?」
 ハルヒの世迷いごとはいつものことなので、はいはいと適当に聞き流してこの話題はそこで終わった。


 と言うのが数日前のことで、俺はそんな話をしたことをすっかり忘れていた。恐らくあの場で話を聞いていた長門や朝比奈さんや古泉もそうだろう。
 しかし、それを執念深く覚えていたのがいて、言うまでもなくそれはハルヒだ。
「作ってきたわよ」
 最初、妙に上機嫌で現れてテーブルに何やら小瓶を置いたハルヒが何を作ったというのか俺には予想もできなかった。その時点でわかるとしたら長門くらいだが、手元の本に視線を落としていて気に留めていないようだった。
「何をだ?」
 蛇がいる藪の中、はたまた蜂の巣をつつくような心境だったが、その小瓶を無視することはできず俺はそう問いかける。
「ほら、先週くらいにラー油の話をしたじゃない」
「あったな、そんなことも」
 どうしてあそこまで憤っていたのか今となっても謎だが、ハルヒは『食べるラー油』という名前に違和感を持っているようだった。
「で、それがどうした」
「だから作ったって言ってんでしょ」
 ハルヒはにんまりと笑い、くるりと瓶を回転させてラベルを俺たちの方に向ける。
 そこには『食べないラー油』と書かれていた。

今日の長門有希SS

 人間は生活していると少しずつ汚れていく。汗をかけば臭くなるし、どんなに気を付けていても食べかすなどが服や体に付着してしまう。
 汚れる以外にも、男の場合はある程度の年齢になればヒゲが伸びるようになるのでそれを剃らなければならない。ともかく、人間は身だしなみが必要な生き物だと言える。
 しかし、毎日それができるかというと、必ずしもそうはいかない。疲れている時に少し休むつもりで横になって、気が付いたら朝になっていたなんて話はざらにあることだ。そんな時は風呂に入ることはおろか、下手をすれば歯を磨くことすら忘れてしまっているわけで、あまり清潔とはいえない状況である。
 同様に、寝坊をした朝も万全な準備はできない。家を出る前には食事や歯磨きや整髪など様々なことをしなければならないが、出発するまでの時間によって何をするか取捨選択しなければならない。途中でコンビニに寄れば家で食事する時間を省くことはできるが、俺たちの学校までは長い長い坂道を歩かねばならないので、可能ならそういうのは控えたいものである。
 そういったわけで今朝は食事を済ませただけで家を飛び出し、早歩きで坂を上って学校にたどり着いた。
「……」
 と、自分の席についたところでハルヒに睨まれる。
「あんた、寝癖ついてるわよ」
 ハルヒは鞄からブラシを取り出すと、荒い息をついて椅子に座る俺と入れ替わるように立ち上がり、俺の横に立って髪をとかし始める。俺にそうする旨を伝えたわけでもないし、俺だってそうして欲しいと頼んだわけではないが、このように当たり前のようにやられると何か言う気もおきない。
「どうせまた、テレビでも見て夜更かしでもしてたんでしょ。夜中に面白い番組なんてやってないのに、何が楽しいの」
「悪かったな」
 確かに面白い番組は少ないが、深夜になるとテンションがおかしくなり、普段ならほとんどみないような番組が妙に楽しく感じられることがある。なんとなく見始めたテレビショッピングがなかなか見るのをやめられず、買おうかどうか本気で迷うことだってある。
「……」
 ハルヒが俺の頭を凝視して手を動かしているので、なんとなく俺も口を閉じ、ざわつく教室をぼんやりと見回す。
 椅子に座ってへばっている俺の頭をハルヒがいじっている光景は少々奇妙だと思うが、ハルヒが突飛な行動をするのはいつも通りのことなので、誰もなんとも思っていないようだ。こちらを振り返って苦笑いをする朝倉や、ハルヒのせいでこちらに来るのをためらっている谷口が目につく程度である。
「ニキビもできてるじゃない。ちゃんと顔くらい洗いなさいよ、顔がテカってるわよ」
「……」
 誤解のなきように言っておくと、昨夜はちゃんと風呂に入って洗顔もしている。確かに今朝は時間がなくて洗顔をおろそかにしてしまったが、家を出てから学校に到着するまでの短い時間でニキビができてしまったとは考えにくいので、洗顔云々が原因ではないだろう。そもそも、俺たちのような高校生は気を付けていてもニキビができてしまうことが多い年代である。
「ニキビってほら、あれが原因よね。あれよ、あれ」
「あれ? 顔を洗うかどうかってことだろ?」
「そういうんじゃないわよ。あー、もう。ここまで出かかってるんだけど、何て言ったかしら」
 ハルヒは俺の髪にブラシをぶっさしたまま手を止め、うんうんと唸り出す。こんな中途半端な状態で停止されると非常に困るのだが。
「思い出した! アクメだわ!」
「な――」
 言葉を飲む。
「アクメよアクメ! アクメが原因なのよ!」
 ハルヒが大声でそんな言葉を口にしているせいか、先ほどまでざわざわと喧噪に包まれていた教室が、水を打ったように静まりかえっている。しかしハルヒは喉まで出かかってもどかしかった言葉を思い出せたせいか、満足げにアクメアクメと連呼している。
 ちなみにハルヒが本来言いたい言葉は、恐らく『アクネ菌』だろう。にきびの原因となる細菌だということくらいしか俺も知らないが、今までの話の流れと語感が似ていることを考慮すると、他には考えられない。
 そして、ハルヒが口にしている「アクメ」とは性的な絶頂を意味する言葉であり、朝の爽やかな教室で気軽に口にしていいものではない。
「あんた、アクメも知らないの?」
「いや……知ってるけどな。ハルヒ、まずちょっと声を落とせ」
「は? 何? もっと大きな声を出しなさいよアクメキョン
 ハルヒはその単語が気に入ったらしく、俺をちょっとあり得ない言葉で罵倒してニヤニヤと笑う。発音が菌とちょっと似ているだけに腹立たしくもあり、うまいこと言いやがってと感心してしまうこともあり、ともかく複雑な気分だ。
 シンと静まりかえった教室で、アクメアクメと連呼するハルヒだけが口を開いている。いや、俺の前方で頬をわずかに赤らめてぽかんと口を開けている朝倉が目に入るので他にも口を開いている者はいるのだが、声を発しているのはハルヒだけだった。
 と、その拷問のような時間は朝のホームルームまで続き、担任の岡部は教室に漂う奇妙な空気にずっと首を捻っていた。


 そんな、何とも言えない雰囲気を引きずったままの一時間目が終了した後、いたたまれず教室を出た俺は長門に手を引かれて廊下を歩かされる。辿り着いたのは、人気のない屋上に続く階段。
「あなたが教室で涼宮ハルヒに両手でピースサインを作らせながらアクメアクメと連呼させていたと聞いた」
「誤解だ」
 ハルヒがアクメアクメと連呼していたのは事実だが、ピースサインを作っていたという事実はない。少なくとも片手はブラシを持っていたはずだし、もう片方の手は俺の頭をいじくり回していた。
 もしかしたら、ハルヒは俺の頭をピースサインで触っていたのかも知れないが、その可能性は限りなく低いだろうし、仮にそうだったとしても長門が考えているようなものではない。
「そもそも、ハルヒがアクメって言ってたのは、ニキビの原因の『アクネ菌』を言い間違えただけだ」
「……」
 長門はわずかに頭を下に傾ける。
「そうだったとしても、涼宮ハルヒがアクメを連呼するのをあなたが止めなかったのは事実。原因があなたのニキビにあるのなら、あなたが己の性欲を満足させるために、あえてニキビを作って言わせるようにしむけたと推測することもできる」
「それはものすごく遠回りなプレイだな」
「とにかくあなたには涼宮ハルヒと同じように、わたしにもピースサインをしながらアクメアクメと連呼させる義務がある」
「無理だと思うが」
 長門と性的な行為をしたことは数え切れないほどあるが、今まで長門がそのように面白素敵な反応をしたという記憶は俺にはない。
「それなら、あなたが連呼する立場でもいい」


 結局、その日は午前の授業をずっとさぼるはめになってしまった。

今日の長門有希SS

 涼宮ハルヒを形容する言葉には様々なバリエーションがある。いい表現をするならば、活発だとかリーダーシップがあるなどと言えばいい。教師が内申書に書くのはこういった聞こえのいい言葉だろう。
 実際には、やかましくて都合も考えずに俺たちを振り回すはた迷惑な奴で、ちょこまかと動き回る様は火の点いたネズミ花火のようだ。長い時間黙っていることができない病を患っているかのように、授業中など静かにしなければいけない状況でなければいつも口を開いている。
「……」
 しかしある休日の昼、例の如く成果のない不思議探索の前半を終えてファミレスで料理を待っている間、ハルヒは腕を組んで押し黙っていた。食っている最中にはさすがに口を会話ではなく食事のために使用するハルヒだが、料理が来る前に静かにしているのは珍しい。
 ハルヒの様子が普段と違う時は大抵何かの前触れではあるが、今回はそうではないことを俺たちは知っている。周囲を見ると、古泉や朝比奈さんもどことなく居心地の悪そうな顔をしている。長門はいつも通りだ。
 やがて、俺たちのテーブルに料理が運ばれてきた。黙々と半分ほど食ったところで、隣の席にいた女性の二人組が伝票を持って席を立った。
「はあ」
 ようやくそこで人心地ついたようにハルヒが溜息を吐く。俺たちが会話もなく料理を待っていたのは先ほどまでいた二人組の話が耳に入っていたからだ。
 別に聞こうとして聞いていたわけではないが、飲食店では周囲の会話が耳に入ってくるのはよくあることで、今回もそうだった。
 その内容だが、何やら既婚の男性と別の女性が不倫をして子供ができてしまい、男性の方が反対しているのに女性の方は産みたがっているとか、俺たち高校生にはまだ早いがもうちょっと上の世代になればたまにある話なんだろうなという話だった。
 ちなみに隣にいた二人組が当事者なのではなく、どうやら二人の共通の友人がその件に関わっているらしい。当事者ではないが黙って見過ごすほどの間柄ではないらしく、どうしたものかと深刻な感じで話をしていたわけだ。
 いや、そこまで俺たちが事情を理解しているのなら聞こうとして聞いていたのだろうと思われそうだが、そうするつもりがなくても耳に入ってきたのだから仕方がない。
「ああいうの、さすがにちょっとどうかと思うわけよ」
 いつも周囲の迷惑など考えないハルヒだが、被害を受ける側になってようやくそれを理解したようだ。食事中に聞くにはちょっと重い話題だった。
「たぶん、産むってことを軽く考えてるんじゃないかしら」
「そっちかよ」
 ハルヒはその話をしていた二人組ではなく、話に出てきた人についてどうかと思ったらしい。
「まあ、好きな人の子供を産んで育てたいって気持ちはわかるけどさ。あたしだって女だし。ただ、ちゃんと育てられないと生まれた子供も不幸になるじゃない? そこまで考えてないんじゃないかしら」
 まあハルヒの言わんとしていることはわからんでもないが、話に出てきた人も見知らぬ女子高生にこんなことを言われているなんて思っちゃいないだろうな。
「例えば、みくるちゃんが古泉くんと結婚しているとするじゃない」
「ふえぇ! け、結婚!?」
「いや、たとえ話よ。……てか、この時点でそこまでびっくりされると先の話を続けづらいじゃない」
「無理に朝比奈さんで例えなくてもいいだろう。と言うか近い人間をあてはめるな」
 先ほどまで聞こえていた話に朝比奈さんと古泉を、古泉が余所で女を作ったとかそういう話になるわけだし。
「それじゃあ……谷口と国木田が結婚してるとするじゃない? で、コンピ研の部長が不倫して妊娠しちゃうわけよ」
「ちょっと待て、異次元過ぎて理解できん」
「みんながそれなりに知ってて、なおかつこういうたとえ話に使っても大丈夫などうでもいい奴を選んだらこうなったのよ」
 まあ、俺たちの共通の知人である女性と言えば、鶴屋さんや朝倉や喜緑さん、学校の外に目を向けると森さんなんかがいるわけだが、そのあたりを登場させるのはさすがのハルヒもちょっとどうかと思うようだ。
「まあ部長氏が女なのはわかったが、他の二人の性別はどうなってんだ」
「みんな男でしょ」
「ナメクジじゃあるまいし」
「え、どういう意味?」
 怪訝そうに首をひねられる。こういうところで不思議そうにされると困る。ボケたわけではないが、例え話を説明させられることほど苦痛なものはない。
「ナメクジは雌雄同体。性別の区別はなく、二体いれば繁殖することができる」
 と、そこで口を開いたのは長門だ。ストローの入っていた紙をくしゃくしゃに縮めたものにストローでぽとぽとと水滴を落として伸ばしながら俺の言ったことを解説する。
「なるほどね。てっきりキョンは、あの三人がナメクジ並の存在価値だって言ってるのかと思ったわ」
「そんな失礼な認識をしているのはお前くらいだ」
「いくらなんでもそこまで思ってないってば。ま、食事中にあんまり気持ちのいい話じゃないし、この辺で終わりにするわよ」
「そうだな」
「ご飯食べてる時に谷口のアホ面とか思い出したくないわ」
「やっぱり失礼だなお前は」


「例えばの話」
 昼食が終わり、午後のパトロール
「わたしとあなたが結婚していたとする」
 図書館に向かって歩いている途中、長門が思いだしたように口を開く。
「そして、あなたが浮気をする」
「お前以外とどうにかなるはずがないだろ」
 俺は長門と交際しており、それで十分に満たされている。まあ長門の目をかいくぐって浮気をするのが物理的にも不可能だとは思うが、そうでなかったとしても魔が差すはずはない。
「……」
 長門は少し考えるように俺から視線を外し、空を見上げる。
「では、浮気の相手がわたし」
「その場合、結婚相手はどうなるんだ」
「それもわたし」
「どういうことだ」
 先ほどのハルヒの話も突拍子もなかったが、これはこれでひどいと言わざるを得ない。長門が増えてしまっている。
「その状況で、わたしが妊娠したとする。あなたはどうする?」
「すまん、長門が二人いると仮定された時点で条件を飲み込めていないんだが」
「困る」
「何がだ」
「例えの中でもあなたを他の女性とくっつけるのがためらわれる」
「……そうか」
 長門がをわずかに伏せて本当に困ったようにしているのを見ると、少しだけ嬉しく感じられる。まあ、そもそもそういった話に俺を出さなければいいと思わなくもないが。
「まあ、結婚とか浮気とかそういうのはおいといて、お前と俺の子供なら歓迎だ」
「……あ」
 長門は俺の手をぎゅっと握りしめ、顔を見上げてくる。
「あなたの言葉を聞いて排卵した」
「そうかい」

今日の長門有希SS

 今さら改めて説明するまでもないことであるが、俺たちが通う高校までは長い坂道を登って行かねばならない。通常の自転車では乗って進むのも困難なほどの坂が長く続き、道こそ舗装されているがちょっとした登山コースのようなものだ。あまり広くない車道の脇の、これまたあまり広くない歩道をぞろぞろと同じ服を着た人間が歩いている光景は、まるで砂で作った山の上にあるあめ玉に向かう蟻の行列のようである。
 駅から高校までは、計測したわけではないが二キロほどある。徒歩で二十分前後かかるが、友人と話しながらのんびり歩いていれば少し長くなるし、急げば短縮できる。
 さて、今日は駅前に辿り着いた時点で携帯のディスプレイで時間を見て、急がねばならないことを確認した。まあこうなることは家を出るのが普段より遅かった時に、もっと言えば二度寝をした時にはわかっていたことだ。
 歩いていれば遅刻確定で、この時間になると人影もまばらだ。たまに見かけるのは、俺と同じように小走りで登っているか、諦めてダラダラ歩いている奴だ。
 先に述べたように、高校までは距離が長い。この坂を走り続けることは陸上部の長距離選手でもない俺には不可能である。しかし歩いていると予鈴までに間に合わないことが確定しているので、軽く走ってから疲れたら歩いて少々休み、回復するとまた走るというサイクルを繰り返す。たまに携帯で確認すると、ただ歩いているよりは時間を短縮できているようだ。
 高校までの距離が短くなってくると、同じようにタイムリミットも迫ってくる。俺は長い坂道を見上げて溜息を吐きながら、黙々と足を動かした。


 なんとか間に合って、息を整えながら廊下を歩いていると、教室の前で長門に遭遇した。
「……」
 長門はちらりと俺の足に目を走らせ「どうかした」と首を傾げる。
「遅れそうだったから少し走ってきたんだよ」
「そう」
「何かおかしなところがあったか?」
「歩き方が少し違った」
「なるほどな」
 自分ではわからないが、疲れがそういったところにも出ているらしい。長門なら乳酸が溜まっているというような情報を読みとって普段との違いを判別できる可能性もあるが。
「そろそろホームルーム始まるわよ」
 長門と話しているのが教室から見えたのか、ハルヒが俺たちの間に首を突っ込んでくる。
「来るのが遅いと思ったら有希としゃべってたから?」
「いや、着いたのは今だ。ちょっと寝坊ってか、二度寝したんだ」
「……あんたは本当にどうしようもないわね」
 呆れたようにはあと息を吐く。
「なに、それで疲れてんの? 駅から走ってきたくらいでだらしないわよ」
「俺はお前と違って常人並みの体力だからな」
 ハルヒなら駅からここまで全力疾走をしても平気な顔をしているに違いない。
「お前なら筋肉痛にもならないんだろうな。羨ましい」
「体がなまってるくせに準備運動もしないでいきなり走ったりするから筋肉痛になるのよ。あんたなら、走る前にストレッチくらいした方がいいんじゃないの?」
「そもそも、時間がないから走ってきたんだ。ストレッチできるような余裕があれば歩いてる」
「それもそうね。でも、運動の後にやっても効果あるし、今からでもアキレス腱とかふくらはぎの筋肉伸ばしたりしてみたら? こう、壁に両手をついて膝を落とす感じでやるといいわよ」
 ハルヒが廊下の壁で実演し始めたので、俺もそれに倣う。なんとなく拒否できそうにない空気だし、足の疲れが緩和されるのは悪いことではない。
「……」
 長門が横で見つめる中、予鈴が鳴るまで俺はハルヒに言われるままストレッチをして、気分的な問題かも知れないがなんとなく疲れが取れたような気がした。


 と、この件についてはそれで終わりではなかった。
 朝のことなど退屈な学校生活に埋もれてすっかり忘れ、いつものように活動が終わってから長門の部屋に来て過ごしていたのだが、そろそろ寝ようかというところで長門が壁を使ってストレッチを始めた。
 そう言えば、俺がハルヒに言われるままストレッチをしていた時、長門は横で何か言いたげに見ていた。ひょっとすると一緒にやりたかったのかも知れない。
 しかし、帰ってきた直後ならともかく、部屋で過ごしていた俺たちは特に体を動かしていたわけではない。多少の家事はしていたものの、筋肉に負担がかかるようなものではなかった。
 あれからハルヒに話を聞かされ、運動の前後だけでなく寝る前や起きた時にも最適なストレッチがあるとは聞いたが、長門がやっているのはそれとは少し違う気がする。座った状態で両足の裏をつけて膝を上下させるなど、体育の授業でもやらないくらい、かなり本格的なものだ。
長門、寝る前にそこまでがっちりやらなくていいんじゃないか?」
「寝る前のストレッチではない」
 長門はじっと俺の顔を見る。
「どうせ運動をすることになる。あなたもやった方がいい」
「そうきたか」
 長門に言われるまま、俺も床に座って運動前のストレッチを行うのであった。

今日の長門有希SS

 10/0710/1710/22の続きです。


「あはははっ、ははははははははっ」
 ピピピピとハルヒの携帯から電子音が鳴り響く中、腹を抱えて床をのたうち回っている者がいた。
「ひぃ、ひぃ……そんなっ……ぷ、ははははっ!」
 ハルヒである。
 長門の読み上げた物語がツボに入ったようで、古泉そっちのけで笑い転げている。自分がセットしたアラームも耳に入っていないらしい。
 ちなみに『彦一兄弟』とは、ジェイク彦一を主人公とする物語だ。刑務所を出所したジェイク彦一はかつて自分たちの生まれ育った孤児院が資金難で潰れてしまいそうになっていると知り、弟とのエルウッド彦一と共にかつてのバンド仲間を集めて金を稼ごうとする話だ。
 ギターを担当していたマット吉四六を妻のアレサ・フランクリンの元から連れ出そうとしていた場面で時間切れになってしまった。続きが気にならないこともないが、長門は時間切れと共に音読をやめてしまった。
 ちなみに古泉の方は、未だに朝比奈さんに足首を掴まれたまま筆で足の裏に文字を書かれ続けている。こちらもアラームが耳に入っていないのだろうか。
「朝比奈さん、時間切れですよ」
「うふふふふふふ――はっ! あ、あたし、一体何を……」
 肩をゆさぶるとようやく正気に帰ったらしい。ハイライトが消えかかっていた目に光が戻っている。
「とても楽しかったような気がします」
「そうですか」
 目覚めてはいけないものが目覚めかけていたようだ。
 ともかく、床に突っ伏してぐったりとしているものの、古泉が笑わされることはなかった。結束バンドを外し、ドラえもん状態から解放してやる。
「大丈夫か?」
「神人と戦っているほうがまだ楽です……」
「そりゃ大変だったな」
 痛みなどは訓練によってある程度は慣れるそうだが、くすぐられることに慣れるのは難しいと聞いたことがある。さすがの古泉も、ハルヒや朝比奈さんにくすぐられ、長門の語るシュールな話を聞き続けるのは苦痛だったようだ。
「はあ、笑った笑った……じゃあ、次は誰にする?」
 と、そこで笑い転げていたハルヒが不穏当な言葉を口にした。
「ちょっと待て」
「何よキョン、続けるのが嫌なの?」
「当たり前だ」
 今回のゲームは、ドラえもん役になることがいいのか悪いのかわからないから成立したものである。既にそれが判明してしまった状態では、ドラえもんに選ばれたい者などいないはずだ。
 だが、ハルヒが続けると言うならまだ終わらない。こういった状況で損な役割が回ってくるのは俺や朝比奈さんと決まっているが、さすがに女性である朝比奈さんにドラえもん役をやらせるわけにはいかない。
「わかったよ、俺がやればいいんだろ」
「なんで自分から立候補してんのよ。もしかしてあんた、あたしやみくるちゃんにくすぐられて喜ぶような体質なんじゃないでしょうね?」
 ハルヒはじっとりと蔑むような視線を俺に向けてくる。繰り返しになるが俺にそのような性癖はない。そのようなプレイの経験があるか否かについてはコメントを差し控えさせて頂く。
「……あんたをドラえもん役にするわけにはいかないわ」
「それでは、わたしがやる」
 そこで長門が手を上げた。
「え、有希が?」
「やる」
 こくりと首を縦に振る。
「有希がドラえもん役ねえ……」
 長門はあまり感情を表に出さないので、くすぐったりした程度で笑わせることができないとハルヒは思っているのだろう。結果がわかっていると張り合いもない。
 しかしハルヒは「そうね」と言うと、机の上にあった本を持って不敵に笑う。
「わかったわ、今度はあたしが有希を笑わせてみせる!」
 もぞもぞと脱いだ靴下を自分で手にはめている長門に対し、彦一とんちばなしの本を構えて謎のポーズを取るハルヒ。先ほどハルヒは古泉の流れ弾を食らって勝手に笑っていただけのような気がするが、面倒なので突っ込まないことにする。
 こうして『爆笑! ドラえもんゲーム』の第二回戦の火ぶたが切って落とされたのだった。


 ――が、結果としては特に語るほどのものでもなかった。
 俺と古泉は長門の体に触れることをハルヒから禁じられていたので参加していないで突っ立っていたし、ハルヒは彦一とんちばなしに収録されていた『特攻野郎ヒコイチーム』を音読しながらまたツボに入って自分で笑っていた。
 笑わせる可能性があったのはトランス状態になりながら筆を動かしている朝比奈さんだけだったが、長門は足の裏や指の間を筆で刺激されても特に反応を見せず、あっと言う間に五分が過ぎた。
 そのあたりで日も落ちて、解散の時間となった。集団で下校し、駅前で解散。例によって俺はその直後に長門と合流し、部屋に向かう。
 マンションに着いて、鍵を開けて、靴を脱ぎ――
「って、なんでお前は靴下まで脱いでいるんだ」
「今日のゲームで、わたしは少し笑ってしまった」
「そうか?」
 朝比奈さんに執拗に筆攻撃を受けても無反応だったように見えたが。
「違う。笑ってしまった」
 なぜか長門はゆずらない。普通、笑ってしまったことを誤魔化したりするもんで、意地になる方向が逆ではなかろうか。
「そうなのか」
 言い張るのを反対することもない。
「留めて」
「ああ」
 長門が取り出した結束バンドを受け取り、靴下の上から手首の辺りに巻く。
「罰ゲームなので、今日は寝るまでこれを外すことはできない」
「なるほどな」
 と、このあたりで長門の言いたいことがわかった。
「じゃあ、今日は自分で飯も食えないな」
「そうなる」
 というわけで、この日は寝るまで長門の世話をして過ごすことになるのだった。