今日の長門有希SS

 人間は生活していると少しずつ汚れていく。汗をかけば臭くなるし、どんなに気を付けていても食べかすなどが服や体に付着してしまう。
 汚れる以外にも、男の場合はある程度の年齢になればヒゲが伸びるようになるのでそれを剃らなければならない。ともかく、人間は身だしなみが必要な生き物だと言える。
 しかし、毎日それができるかというと、必ずしもそうはいかない。疲れている時に少し休むつもりで横になって、気が付いたら朝になっていたなんて話はざらにあることだ。そんな時は風呂に入ることはおろか、下手をすれば歯を磨くことすら忘れてしまっているわけで、あまり清潔とはいえない状況である。
 同様に、寝坊をした朝も万全な準備はできない。家を出る前には食事や歯磨きや整髪など様々なことをしなければならないが、出発するまでの時間によって何をするか取捨選択しなければならない。途中でコンビニに寄れば家で食事する時間を省くことはできるが、俺たちの学校までは長い長い坂道を歩かねばならないので、可能ならそういうのは控えたいものである。
 そういったわけで今朝は食事を済ませただけで家を飛び出し、早歩きで坂を上って学校にたどり着いた。
「……」
 と、自分の席についたところでハルヒに睨まれる。
「あんた、寝癖ついてるわよ」
 ハルヒは鞄からブラシを取り出すと、荒い息をついて椅子に座る俺と入れ替わるように立ち上がり、俺の横に立って髪をとかし始める。俺にそうする旨を伝えたわけでもないし、俺だってそうして欲しいと頼んだわけではないが、このように当たり前のようにやられると何か言う気もおきない。
「どうせまた、テレビでも見て夜更かしでもしてたんでしょ。夜中に面白い番組なんてやってないのに、何が楽しいの」
「悪かったな」
 確かに面白い番組は少ないが、深夜になるとテンションがおかしくなり、普段ならほとんどみないような番組が妙に楽しく感じられることがある。なんとなく見始めたテレビショッピングがなかなか見るのをやめられず、買おうかどうか本気で迷うことだってある。
「……」
 ハルヒが俺の頭を凝視して手を動かしているので、なんとなく俺も口を閉じ、ざわつく教室をぼんやりと見回す。
 椅子に座ってへばっている俺の頭をハルヒがいじっている光景は少々奇妙だと思うが、ハルヒが突飛な行動をするのはいつも通りのことなので、誰もなんとも思っていないようだ。こちらを振り返って苦笑いをする朝倉や、ハルヒのせいでこちらに来るのをためらっている谷口が目につく程度である。
「ニキビもできてるじゃない。ちゃんと顔くらい洗いなさいよ、顔がテカってるわよ」
「……」
 誤解のなきように言っておくと、昨夜はちゃんと風呂に入って洗顔もしている。確かに今朝は時間がなくて洗顔をおろそかにしてしまったが、家を出てから学校に到着するまでの短い時間でニキビができてしまったとは考えにくいので、洗顔云々が原因ではないだろう。そもそも、俺たちのような高校生は気を付けていてもニキビができてしまうことが多い年代である。
「ニキビってほら、あれが原因よね。あれよ、あれ」
「あれ? 顔を洗うかどうかってことだろ?」
「そういうんじゃないわよ。あー、もう。ここまで出かかってるんだけど、何て言ったかしら」
 ハルヒは俺の髪にブラシをぶっさしたまま手を止め、うんうんと唸り出す。こんな中途半端な状態で停止されると非常に困るのだが。
「思い出した! アクメだわ!」
「な――」
 言葉を飲む。
「アクメよアクメ! アクメが原因なのよ!」
 ハルヒが大声でそんな言葉を口にしているせいか、先ほどまでざわざわと喧噪に包まれていた教室が、水を打ったように静まりかえっている。しかしハルヒは喉まで出かかってもどかしかった言葉を思い出せたせいか、満足げにアクメアクメと連呼している。
 ちなみにハルヒが本来言いたい言葉は、恐らく『アクネ菌』だろう。にきびの原因となる細菌だということくらいしか俺も知らないが、今までの話の流れと語感が似ていることを考慮すると、他には考えられない。
 そして、ハルヒが口にしている「アクメ」とは性的な絶頂を意味する言葉であり、朝の爽やかな教室で気軽に口にしていいものではない。
「あんた、アクメも知らないの?」
「いや……知ってるけどな。ハルヒ、まずちょっと声を落とせ」
「は? 何? もっと大きな声を出しなさいよアクメキョン
 ハルヒはその単語が気に入ったらしく、俺をちょっとあり得ない言葉で罵倒してニヤニヤと笑う。発音が菌とちょっと似ているだけに腹立たしくもあり、うまいこと言いやがってと感心してしまうこともあり、ともかく複雑な気分だ。
 シンと静まりかえった教室で、アクメアクメと連呼するハルヒだけが口を開いている。いや、俺の前方で頬をわずかに赤らめてぽかんと口を開けている朝倉が目に入るので他にも口を開いている者はいるのだが、声を発しているのはハルヒだけだった。
 と、その拷問のような時間は朝のホームルームまで続き、担任の岡部は教室に漂う奇妙な空気にずっと首を捻っていた。


 そんな、何とも言えない雰囲気を引きずったままの一時間目が終了した後、いたたまれず教室を出た俺は長門に手を引かれて廊下を歩かされる。辿り着いたのは、人気のない屋上に続く階段。
「あなたが教室で涼宮ハルヒに両手でピースサインを作らせながらアクメアクメと連呼させていたと聞いた」
「誤解だ」
 ハルヒがアクメアクメと連呼していたのは事実だが、ピースサインを作っていたという事実はない。少なくとも片手はブラシを持っていたはずだし、もう片方の手は俺の頭をいじくり回していた。
 もしかしたら、ハルヒは俺の頭をピースサインで触っていたのかも知れないが、その可能性は限りなく低いだろうし、仮にそうだったとしても長門が考えているようなものではない。
「そもそも、ハルヒがアクメって言ってたのは、ニキビの原因の『アクネ菌』を言い間違えただけだ」
「……」
 長門はわずかに頭を下に傾ける。
「そうだったとしても、涼宮ハルヒがアクメを連呼するのをあなたが止めなかったのは事実。原因があなたのニキビにあるのなら、あなたが己の性欲を満足させるために、あえてニキビを作って言わせるようにしむけたと推測することもできる」
「それはものすごく遠回りなプレイだな」
「とにかくあなたには涼宮ハルヒと同じように、わたしにもピースサインをしながらアクメアクメと連呼させる義務がある」
「無理だと思うが」
 長門と性的な行為をしたことは数え切れないほどあるが、今まで長門がそのように面白素敵な反応をしたという記憶は俺にはない。
「それなら、あなたが連呼する立場でもいい」


 結局、その日は午前の授業をずっとさぼるはめになってしまった。