今日の長門有希SS

 今さら改めて説明するまでもないことであるが、俺たちが通う高校までは長い坂道を登って行かねばならない。通常の自転車では乗って進むのも困難なほどの坂が長く続き、道こそ舗装されているがちょっとした登山コースのようなものだ。あまり広くない車道の脇の、これまたあまり広くない歩道をぞろぞろと同じ服を着た人間が歩いている光景は、まるで砂で作った山の上にあるあめ玉に向かう蟻の行列のようである。
 駅から高校までは、計測したわけではないが二キロほどある。徒歩で二十分前後かかるが、友人と話しながらのんびり歩いていれば少し長くなるし、急げば短縮できる。
 さて、今日は駅前に辿り着いた時点で携帯のディスプレイで時間を見て、急がねばならないことを確認した。まあこうなることは家を出るのが普段より遅かった時に、もっと言えば二度寝をした時にはわかっていたことだ。
 歩いていれば遅刻確定で、この時間になると人影もまばらだ。たまに見かけるのは、俺と同じように小走りで登っているか、諦めてダラダラ歩いている奴だ。
 先に述べたように、高校までは距離が長い。この坂を走り続けることは陸上部の長距離選手でもない俺には不可能である。しかし歩いていると予鈴までに間に合わないことが確定しているので、軽く走ってから疲れたら歩いて少々休み、回復するとまた走るというサイクルを繰り返す。たまに携帯で確認すると、ただ歩いているよりは時間を短縮できているようだ。
 高校までの距離が短くなってくると、同じようにタイムリミットも迫ってくる。俺は長い坂道を見上げて溜息を吐きながら、黙々と足を動かした。


 なんとか間に合って、息を整えながら廊下を歩いていると、教室の前で長門に遭遇した。
「……」
 長門はちらりと俺の足に目を走らせ「どうかした」と首を傾げる。
「遅れそうだったから少し走ってきたんだよ」
「そう」
「何かおかしなところがあったか?」
「歩き方が少し違った」
「なるほどな」
 自分ではわからないが、疲れがそういったところにも出ているらしい。長門なら乳酸が溜まっているというような情報を読みとって普段との違いを判別できる可能性もあるが。
「そろそろホームルーム始まるわよ」
 長門と話しているのが教室から見えたのか、ハルヒが俺たちの間に首を突っ込んでくる。
「来るのが遅いと思ったら有希としゃべってたから?」
「いや、着いたのは今だ。ちょっと寝坊ってか、二度寝したんだ」
「……あんたは本当にどうしようもないわね」
 呆れたようにはあと息を吐く。
「なに、それで疲れてんの? 駅から走ってきたくらいでだらしないわよ」
「俺はお前と違って常人並みの体力だからな」
 ハルヒなら駅からここまで全力疾走をしても平気な顔をしているに違いない。
「お前なら筋肉痛にもならないんだろうな。羨ましい」
「体がなまってるくせに準備運動もしないでいきなり走ったりするから筋肉痛になるのよ。あんたなら、走る前にストレッチくらいした方がいいんじゃないの?」
「そもそも、時間がないから走ってきたんだ。ストレッチできるような余裕があれば歩いてる」
「それもそうね。でも、運動の後にやっても効果あるし、今からでもアキレス腱とかふくらはぎの筋肉伸ばしたりしてみたら? こう、壁に両手をついて膝を落とす感じでやるといいわよ」
 ハルヒが廊下の壁で実演し始めたので、俺もそれに倣う。なんとなく拒否できそうにない空気だし、足の疲れが緩和されるのは悪いことではない。
「……」
 長門が横で見つめる中、予鈴が鳴るまで俺はハルヒに言われるままストレッチをして、気分的な問題かも知れないがなんとなく疲れが取れたような気がした。


 と、この件についてはそれで終わりではなかった。
 朝のことなど退屈な学校生活に埋もれてすっかり忘れ、いつものように活動が終わってから長門の部屋に来て過ごしていたのだが、そろそろ寝ようかというところで長門が壁を使ってストレッチを始めた。
 そう言えば、俺がハルヒに言われるままストレッチをしていた時、長門は横で何か言いたげに見ていた。ひょっとすると一緒にやりたかったのかも知れない。
 しかし、帰ってきた直後ならともかく、部屋で過ごしていた俺たちは特に体を動かしていたわけではない。多少の家事はしていたものの、筋肉に負担がかかるようなものではなかった。
 あれからハルヒに話を聞かされ、運動の前後だけでなく寝る前や起きた時にも最適なストレッチがあるとは聞いたが、長門がやっているのはそれとは少し違う気がする。座った状態で両足の裏をつけて膝を上下させるなど、体育の授業でもやらないくらい、かなり本格的なものだ。
長門、寝る前にそこまでがっちりやらなくていいんじゃないか?」
「寝る前のストレッチではない」
 長門はじっと俺の顔を見る。
「どうせ運動をすることになる。あなたもやった方がいい」
「そうきたか」
 長門に言われるまま、俺も床に座って運動前のストレッチを行うのであった。