今日の長門有希SS

「おや、今日はお疲れですか?」
 古泉はいつものニヤけた笑みを少々崩すが、それでも十分にニヤけていると表現できる顔で問いかけてくる。
 その原因は、例によって暇つぶしにチェスなんぞをやっていて、コマを移動中に落としてしまった事による。一度ならず二度までも。そりゃ、疲れてると思われても仕方がないか。
「今日は鉄棒があったんだ」
 別に言われるほど疲れているわけではない。ただ、握力や指の力が弱くなっているのは事実である。
 しかも今日は技術的な事よりも基礎的な練習が重視であり、ひたすら鉄棒にぶら下がっていたり、何度か懸垂したりという地味な授業だった。正直、つまらない事この上ない。
「それはそれは、お気の毒です」
 古泉の口調からは気の毒だという気持ちは全く伝わってこない。まあこいつは元からこういう奴だとわかっているさ、別に今さら気にはしない。
「鉄棒ですかぁ」
 朝比奈さんは減っていた俺のお茶を補充。
「あたし、鉄棒はちょっと苦手なんですよ」
 朝比奈さんの場合、鉄棒だけでなく他の競技もあまり得意とは思えないが……まあ、それは言わぬが華というものだ。
「逆上がりが出来なくて」
 ぺろりと舌を出してウィンク。それはちょっと苦手という範疇に入るのですかね。
「あら、みくるちゃん逆上がりができないの?」
 と、唐突にハルヒがその話題に食いついてきた。何やら腕を組み、思案している。
 ハルヒが好む話題というのは予測不能であり、意外なものに引っかかるから全くもって油断できない。
「そうだわ」
 笑みを浮かべて立ち上がる。どうやら、俺達はやはり地雷を踏んでしまったらしい。あとはその被害が小さくなる事を祈るだけだ。
「今日はみくるちゃんに逆上がりの特訓よ。みんな今から体操着に着替えて、グラウンドの鉄棒の所に集合!」
 なんとなく言っている事がおかしい気がしないでもないが、今から俺達は鉄棒をする事になったらしい。
 まあ、目的が朝比奈さんに逆上がりを修得させる事なのが救いではある。これがもし、体操の大会に出るとかそのような目的なら、俺達にかかる負担が相当なものになると容易に想像できるからだ。
 ともかく、着替えてからまた集まる事になったので、俺達はそれぞれ教室に向かう。
キョン
 俺とハルヒは同じクラスなので、当然の如く体操着の在処も同じ教室内である。教室を出て行ってどこかで着替えようと思っていたのだが、そんな俺をハルヒが見ている。
「一体どうした?」
「別にあんたなら気にしないわよ。ここで着替えましょ」
 ハルヒの言葉に俺は一瞬言葉を失うが、考えてみると入学当時は男子生徒がいる中で着替えを始めたのだから、今さら大した事ではないってわけか。
「いいって言うまでこっち見るんじゃないわよ」
 ハルヒが制服に手をかけたので俺は慌てて背を向ける。まあ、普段から俺とハルヒはこのような位置関係であるので、いつも通りと言えばいつも通りではある。
 ゴソゴソと背後から衣擦れの音が聞こえる。普段長門の制服を脱がす時の音を知っているわけであり、音からハルヒがどの部分を脱いでいるか想像できてしまう。そのようなわけで、今、ハルヒがどのような恰好をしているかも、まあ、わからなくもないが、なるべく想像しない方が良いだろう。
 しばらくして俺は体操服に着替え終わる。ハルヒは――そういや、しばらく物音が聞こえていないな。もう着替え終わったのだろうか。
「いいのか?」
「いい」
 いつの間にか終わっていたらしい、俺はハルヒの方に振り返――
「……」
「……」
 しばし絶句。
「ばっ、馬鹿! なんでこっち見んのよ!」
 慌てて再び背を向けるが、ハルヒはそんな俺の背中やら肩やらをボコボコと殴ってくる。痛っ、かなり痛いぞ、それ。アザにでもなって無ければいいんだが……
「もう……信じらんないわ……」
 何やらブツブツと文句を言いながら、体操服に袖を通しているようだ。俺が悪いのか?
「どうしても何も、お前がいいって言うからだろうが」
「反射よ! あんたが誘導尋問するから、反射的に答えちゃったのよ!」
 なんだ誘導尋問って。
 ともかく、これ以上言い争うと良い事がないのはわかっている。これ以上不機嫌にさせると、また古泉の仕事を増やすだけだからな。
「もういいわよ」
 今度は問題ないだろうとは思ったが、数秒待ってから恐る恐る振り返る。さすがに先ほどと違って下着姿などではなく、きちんと体操服を身につけている。
「じゃあ、行きましょ」
 バタバタと足音を鳴らしてハルヒが走り出すので、ため息をついてからそれに続く。ハルヒの足は速く、瞬く間に遠ざかってしまった。てか、廊下をそんな全力疾走するもんじゃないぞ。
 ハルヒは既に遠くに行ってしまったので、歩いて向かう事にする。俺の横にあるのは長門の教室の扉であるが、さてさて、長門は――いた。しかも着替えている途中で、ブルマは既に身につけているが、これから体操服の上を着ようとしているところだった。
「……」
 そんな長門と目が合った。長門上着を着る姿勢で動きを止め、こちらをじっと見ている。
「何か?」
 いや、そんなに無防備じゃいけないぞ。しかも、それは見方によっては全裸にブルマオンリーに見えるんだ、そんな倒錯的で刺激的なお前の姿を他の人間に見せてなるものか。
「大丈夫。他の男には見られる事はない」
 長門がそう言うのなら大丈夫という事だろう。俺はほっと安心。
「見ていいのはあなただけ」
 嬉しいことを言ってくれるじゃないか。よし、今夜はそれで、な。


 それから長門と一緒にグラウンドに行き、鉄棒前で合流。
「い、痛いですぅ」
 ハルヒがスパルタ式に特訓しているのだろう。鉄棒に押しつけられた朝比奈さんが弱々しい声を上げている。もっと手加減をしろと言いたい。
 しかし、これは、やはり大きいな。こんなに大きいと、やはり体の重心が一般のサイズの女性とは違うわけであり、鉄棒のような種目は難しいのかも知れない。
「涼宮さん……あのぅ、もっと弱くぅ」
「ほらハルヒ、やめてやれ」
「特訓ってのは甘いもんじゃないのよ。みくるちゃん、あなたはやれば出来る子なんだから!」
 熱血教師のような事を言いだしてやがる。
 ハルヒはスポーツでも勉強でもなんでも人並み以上に出来るから、出来ない人間の苦労をよくわからないのだろう。やれやれ、困ったもんだ。
「ちょっと交代しろ。俺が補助をする」
「あんたにセクハラさせるわけにはいかないでしょ」
「じゃあ長門でも古泉でもいいから交代だ。お前はちょっとやりすぎだぞ」
「……」
 ハルヒはしばらく仏頂面で俺を見てから、ふうとため息。
「わかったわよ……それじゃあ、補助は古泉くんお願い。あたしと有希で逆上がりの実演をするから、みくるちゃんはそれを参考にしてちょうだい」
 まあ、無難なところだよな。
 ……俺は何をすればいいんだ?
「あんたはあたしの手本を見てなさい」
 へいへい。
 ハルヒは鉄棒を握ると、勢いを付けてぐるりと回転。さすがに指導すると言うだけあって、惚れ惚れするような動きだ。
「どうよ、キョン
 ああ、言いたくはないがこれ以上ない逆上がりだ。手本としては完璧だろ。
「それじゃあ、有希もやってみて」
 ハルヒに言われた長門は、鉄棒を握り、チラリとこちらを見てから地面から足を離す。
 くるん。
 何やら、体をピンとのばしたまま、重力とか物理法則を無視したような逆上がりをした。
「どう?」
「随分……個性的な逆上がりね」
 ハルヒが驚くのも無理はない。地面を蹴ったわけでもなく、何やら逆上がりを繰り返す外国のオモチャでも見たような感覚だ。
 悪いが、これは手本にはちょっとならないな。
「そう」
 長門は、なんとなくしょんぼりしているように見えた。あとでフォローしてやろう。


 結局、それからの特訓で、なんとか朝比奈さんは逆上がりをマスターする事が出来た。別にこれからの人生に役立つかどうかはわからないが、出来ないよりはましだろう。
 ちなみに長門へのフォローは、体操服と鉄みたいに固いが鉄ではない棒の二種類が関係したらしい。