今日の長門有希SS

「なんだこりゃ」
 部室に行くとテーブルが部室の隅に寄せられていた。それだけなら別に大したことじゃないんだが、ハルヒが何やら床にビニールテープを貼り付けている。
キョン、早かったわね」
 ハルヒは何やら妙に楽しそうにその作業を続けている。また何か妙な事を思いついてしまったらしい。
「ちょっと待ってなさい。もう少しで終わるから」
「こいつは一体なんだ?」
「陣地よ陣地。外側は通路として残すけど、一歩でも他の人の陣地に入ったら死刑よ!」
 どうやら、思った以上にロクでもない事を思いついたらしい。
 俺が呆れながら見ていると、ハルヒはどかしてあった机のところに行き、
「見てないで手伝いなさいよ」
「他の奴の陣地に入ったら駄目なんじゃないのか?」
「まだ始めてないからいいのよ」
 まあ、団長様がそう言うならそうなんだろうな。
 俺はため息をつき、部室の真ん中に机を戻す。
 それからハルヒが机の上を床と同じようにチョークで区切ってから、いつもの席に座ったところで古泉が入ってくる。
「おやおや、これは何ですか?」
 説明するのもめんどくさいが、今日は他人の陣地に踏み込んだら死刑らしい。
「誰も今日だけなんて言ってないじゃない。いつまでやるかは未定よ」
 だそうだ。とりあえず場所はいつも座ってる通りだが、外側の狭い通路を通って自分の陣地に入れ。
「それはそれは」
 古泉は苦笑混じりのニヤケ面で通路を通ってゲームを入れた箱の前に屈み、首を捻っている。
「空中も駄目なんですか?」
「そうね、領空侵犯も罪になるわ。線の上に壁があると思って過ごすのよ」
「了解しました」
 ハルヒはいいよな、パソコンが乗ってる机を含めて部室の奥全部を通ることが出来るんだから。一人だけ楽しすぎじゃないのか?
「……」
 続いて長門が入ってくる。
「なに?」
 外側通って自分の定位置に座ればいい。空中でも線から他の奴の陣地にはみ出たら死刑だそうだ。
「そう」
 本棚も通路に含まれているのは長門にとっては幸福だったな。普段からあまり動かない長門にとっては、別にあまり影響はないだろう。
「いやあ、選ぶのに迷いましたよ」
 と言って、古泉は家庭用の小さなエアホッケー台を机に置いた。まあ、確かにこれなら相手の陣地に入らなくていいから出来ないこともない。
「これはなんなんですかぁ?」
 しばらく古泉とパックをはじき返しあっていると、最後に入ってきた朝比奈さんはドアを開けたまま硬直した。
 俺が手短にルールを説明すると、朝比奈さんは困った顔で神妙に頷く。まあ、朝比奈さんは手前だからそれほど問題はないと思いますよ。
「あのぅ、着替えるからぁ……」
 こんな状況でも朝比奈さんはメイドとして努めようとの心がけらしい。さすが朝比奈さん、体の芯までメイドが染みついてますね。
 俺と古泉は通路を通って部室の外へ。壁を背にして、のんびり朝比奈さんの着替えが終わるのを待っていると、
「ちょっと困った事になりましたね」
 古泉が真顔で俺を見ている。
「何がだ?」
「涼宮さんが制定したルールですよ。あなたは他人の陣地に踏み込んだら死刑、と言ってましたね。それは涼宮さんが言っていたんですよね?」
 ああ――って、まさか。
「まさか本当に命を取る事はないと思いますが、警戒はした方がいいでしょう」
 その事、朝比奈さんは――
「恐らく気付いていないでしょう。でも、伝えない方が良いですね」
 一瞬、何を馬鹿な事をと思ったが、確かにその事を知ったら余計に緊張してミスをする可能性がある。いや、可能性があるというか、ほぼ間違いなく転んだりするだろう。
「どうすりゃいいんだ?」
「一刻も早く飽きて頂ければいいのですか……長引きそうなら、冷戦構造の虚しさを伝えるしか無いでしょうか」
 それで大人しくやめると言い出すような奴じゃないけどな。まあ、説得は任せたぜ。
「もういいですよ」
 ドア越しに声が聞こえたので、俺達はドアを開け、
「朝比奈さん、線!」
 俺は思わず叫んでいた。ドアの前に立つ朝比奈さんは、もう少しで長門の陣地に入りそうになっていたからだ。
「え? あ、そうでしたね」
 朝比奈さんが半歩左にずれた事で俺はほっとため息をついた。慎重に通路からはみ出ないように朝比奈さんの陣地を迂回し、自分の席に戻る。
「では、お茶を用意しますね」
「俺は要りませんから!」
 思わず声を荒げてしまい、朝比奈さんは首を捻る。
「はぁ」
「あ、それでは僕も遠慮しておきます。長門さんはどうしますか?」
 本から顔を上げると、長門は古泉を見てから俺の方に視線を移動させる。
「……」
 頼む長門、お前も断ってくれ。お茶なら後で部屋に行ってから何杯でも用意してやるから。
「わたしも要らない」
「そ、そうですか……」
 朝比奈さんがちょっとだけしょんぼりとしてしまった。すいません、今回はあなたには極力その場から動かないで頂いた方がありがたいんです。俺や古泉の心臓に悪いので。
「なによ、みんなして。あたしはみくるちゃんのお茶を飲むわ、他の団員の分も飲んであげるから、急須ごと持ってきてちょうだい」
「はい!」
 朝比奈さんはちょっと嬉しそうに答えると、パタパタとお茶の用意を――
「ですから陣地からはみ出ますってば!」


 その日はそれから朝比奈さんの一挙手一投足に注目し、俺は正直気が気では無かった。ハルヒのところにお茶を届ける時も、コースターを転がした時も、心臓が止まるかと思ったくらいだ。
 緊張の連続だった活動が終わって集団下校し、ハルヒ達と別れて長門と二人になったところで俺はがっくりと肩を落とした。
「疲れてる」
 すまん長門、今日は朝比奈さんが気になっていたからな。
「そう」
 長門はスタスタと歩く速度を速める。
 いきなり、一体どうしたんだ?
「別に」
 長門は素っ気なく答えると、心労で疲れ切っている俺を置いて先に行こうとする。
「ちょっと待ってくれ。何かあったのか?」
「気にならないなら、別に一緒に帰らなくても良い」
 ちょっと待て、まさかお前勘違いしてないか?
 俺が朝比奈さんを気にしていたのはだな、今にも陣地をはみ出しそうだったからだぞ。それ以上でもそれ以下でもない。
「わかった」
 長門の歩く速度が落ちる。わかってくれたらしい。
「そういや、お前の部屋に着いたらお茶をいれないとな。さっきの埋め合わせだ」
「……」
 長門は俺の方に顔を向けて、
「埋め合わせにいれるのはお茶だけ?」
 と、少し楽しそうに言った。