今日の長門有希SS

 前回の続きです。


 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
「……」
「……」
 長門と俺は、布団をコタツ――ではなく、布団を外して単なるコタツ机となったものを挟んで向かい合い、押し黙っている。
 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
 部屋の片隅から金属のこすれ合うような、いや、金属のこすれ合う音が聞こえてくる。もっさりとした長い黒髪をすだれのように顔の前にたらし、焦点の合わない目で一心不乱に包丁を研いでいる。事情を知らぬ者がここに現れれば、果たしてどう思うのか。
 ぴん、ぽーん。
「お邪魔しました。あら?」
 チャイムの音が鳴ったのと同時にリビングに現れたその人は、俺たちの一学年上の先輩であり、長門と同じような存在である喜緑先輩に他ならない。彼女は現れるや否や、部屋の片隅に視線を向けて首を傾げる。
「あれは、お二人に見えない存在ですか?」
「見えてる」
「俺もです」
「そうですか、てっきり住人の寝静まった頃に刃物を研ぐ妖怪の類かと思いました」
「似たようなもんですけどね」
 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
 元々、ここの包丁類がいつも一定の切れ味を保っているのは、いつの間にやら朝倉が手入れしていたからだ。さすがに寝ている時に忍び込むのは希だが、三人で飯を食った後に食器を洗う時にはいつも朝倉のチェックが入り、大抵は切れ味が落ちているので研がれることになる。その結果、長門家の包丁は刃先に止まったトンボが二つになるのではないかと言われるほどの切れ味を誇る。
 と、そういうわけで朝倉が長門家の刃物の面倒を見ること自体はそれほど珍しくもないのだが、あんな風に俺たちの存在など忘れたかのように包丁を研いでいるのはもちろん理由がある。
「ところでお茶を頂けませんか? 喉が渇きました」
「わかった」
 朝倉のためにと用意していた湯飲みにお茶を注ぎ、長門はそれを喜緑さんの前に置く。
「最近は温かい日が増えてきましたね。そろそろ麦茶を作る季節でしょうか」
「わたしの部屋では冬でも作っている」
「……朝倉があんな風になっている理由は気にならないんですか?」
「いえ、それほど。問題があると刃物で解決するような方ですから、よくあることではないでしょうか」
「……」
「個人的には、話したそうにしている事柄より、いかにも話したくないようなお話を聞くほうが好みです。そうですね、お二人の好みの体位とか」
「言いたくありません」
「統計的には正常――」
「答えるな」
「……」
 なぜ不満そうな顔をする。
「なるほど、長門さんはそれが『話したい事柄』なんですね。おのろけがお好きなようで」
 猥談ものろけ話のうちに入るのだろうか。
 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
「まあ、一度はノリで拒否しましたけど、彼女があんな風になった顛末というのは気にならなくもないので、理由を教えて頂けますか?」
「やっぱり元に戻したいと思いますか?」
「いえ、別にそういうわけではないのですが、理由を知った方がより楽しめます」
 まあそういうお方だとは知っていたが。
 ともかく、朝倉がああなったきっかけは、数日前の教室での出来事が原因だった。


「こ、これは、その」
 自分の机の横、床に散らばった鞄の中身をかき集めながら、朝倉は狼狽を見せる。
 元々は俺が谷口や国木田と話していたところにハルヒが乱入したせいだが、ハルヒの発言に動揺した朝倉が自分の鞄をひっくり返して中からコンバットナイフを飛び出させてしまったわけだ。
「ほら最近物騒じゃない?」
 生身で軍隊と対抗できそうな戦力を持っているくせに、朝倉はナイフを鞄に入れながらしなを作る。そのポーズだけ見ると自衛のためにか弱い女の子がナイフを持ってきただけとも見えなくはないが、拾ったナイフをくるくると回転させてから鞄に収めるという一連の動作は余計だったように思う。
「なに、ストーカーでもいるの? それならあたしたちSOS団に言ってくれれば、捕まえてぎったんばっこんにしてあげるわ!」
 ストーカーを加工してシーソーにでもする気かお前は。
「だから涼子がナイフなんて危ないものを持ってるとよくないわ。だいたい、使い慣れないのに刃物なんて使ったら自分を傷つけちゃうわよ」
 それはあり得ない。俺が知る中で朝倉以上に刃物を使いこなしている者はいない。朝倉は敵が自分に向けるナイフを使ってその敵を討ち果たすことすら容易いだろう。
「危ないからあたしが預かるわよ」
 そういうと、ハルヒは朝倉の鞄に手を突っ込み、ナイフを取り出す。
「あれ?」
 ハルヒが首を傾げるのも無理はない。ハルヒが取り出したのは確かにナイフだったが、それは先ほど床に転がっていたコンバットナイフではなく、小さく刃が平たい別物だった。
「これは?」
「そ、それは鍵を開ける時に便利なの」
 便利ってどういうことだ。
「ええと……これは?」
 ハルヒが鞄から取り出したのは、またしてもコンバットナイフではなく、矢尻のような形をした刃物だ。
「それは投擲用の、手裏剣とかくないって言った方がわかりやすいかな」
「これは?」
「そっちはソードブレイカーって言って、相手が攻撃してきた剣をそのギザギザに引っかけて折るためのナイフね。どっちかというと攻撃より防御のためのものなの」
 お前は何に備えているんだ。
「一体いくつ刃物を持ってるのよ!」
 四次元にでも繋がっているかのごとく次から次へと見たこともない刃物を吐き出す鞄にハルヒの堪忍袋の緒が切れたらしい。朝倉の鞄をひっくり返してざらざらと出てきた刃物をビニール袋に詰めて没収したところでチャイムが鳴り、授業が始まるのだった。


「で、部屋に乗り込んだハルヒに台所にあった包丁すら没収されて、今に至っているわけです」
「教室でもあの調子なんですか?」
「いえ、真面目な委員長らしく普段通りの態度なんですが、学校から帰るとああなります」
 部屋の片隅に視線を向けると、朝倉はしゃりしゃりと包丁を研いでは確認するようにうっとりと眺めている。
「まるで中毒ですね」
 それに近いものはある。もっとも、金属アレルギーはあっても、刃物中毒なんて言葉は聞いたことがない。
「なんとかなりませんかね」
 長門の部屋にいる時に朝倉が居座ること自体は珍しいことでもないので慣れてはいるが、妖怪じみた状態でいられると少々薄気味悪い。
「原因を整理しましょう」
 そういうと、喜緑さんはどこからかメモ用紙とボールペンを取り出し、一本の横棒を引いた。
「彼女がああなっている理由はもちろんナイフを取り上げられているからですが、なぜそうなるのかという部分を分析したいと思います」
 言いながら喜緑さんは棒を楕円で囲む。
「結論から言いますと、あれは一種のパニック状態です。例えば映画館で映画を見ている時、普段よりトイレに行きたいと思ったことはありませんか? あれは『なかなかトイレに行けない』と思うことにより、より尿意を感じてしまうというパニック障害の一種なのです。彼女にとっては『ナイフがない』ことがそれに近いストレスを感じさせるのです。ニコチン中毒の人が長時間タバコを吸えなかった状態に近いですね」
 楕円の上に二つの丸が描かれ、それぞれの中心に点が打たれる。
「解決のための方法は二つあります」
 二つの円を包み込むように、楕円の上に更に大きな半円が描かれる。
「一つ目は、刃物に対する依存症をなくすことです」
 楕円の下に二本の線が引かれ、それを挟むように数字の六のような図形が左右に絵が描かれる。
「もっとも、依存症を無くすのは容易ではありません。ニコチン中毒の場合は長期間タバコを吸わなければ体質が変わってニコチンを不快なものとして認識するようになるそうですが、彼女のナイフ中毒はどちらかといえば体より精神に根ざしたものです。治すためには長期間のカウンセリングか、短期間でも強力な洗脳が必要です」
 左右の六を頂点とした逆三角形が描かれ、その中心に縦線が一本引かれる。
「二つ目は、ばれないように刃物を持つことです」
 最初の方に描いた半円の左右に一つずつ丸が、そして逆三角形の上底の上にある二本の線の間に小さな丸が三つ描かれる。
「正直なところ、こちらの方が簡単ですね。涼宮ハルヒにばれないように、体のどこかしらに刃物を仕込めばいいだけですから」
 逆三角形の下の頂点の左右に楕円が描かれる。
「今回の場合、未来人も超能力者もフォローに回ってくれるでしょう。彼らは朝倉涼子が不安定な状態であることをよしとしないはずです」
 半円の上に雲のような形の図形が描かれた。
「あーっと言う間に可愛いコックーさんっ」
「それは解説のための絵じゃなかったんですか」
「単なる手慰みです」
 こほん、と喜緑さんは咳払いをする。
「言い換えると自慰です」
「言い換えないでください」
「とにかく、他のお二人には事情を説明してしまっていいでしょう。その上で涼宮ハルヒさえ誤魔化せれば解決です」
「そのハルヒを誤魔化すってところが難しい気がしますけどね。あいつ、妙なところで勘がいいんですよ」
「大丈夫ですよ。女には隠すところがいっぱいあるから、どうとでもできます」
 そう言って、にこりと笑う。


 その翌朝、通学路の途中で合流した朝倉や長門と三人で登校し、教室の前で長門と別れて朝倉と二人で教室に入ると、ハルヒがじっとこちらを見つめてきた。
「あっ」
 朝倉はびくりと体を震わせる。詰問するような表情は、まるで全てを見透かしているのではないかと不安になる。
 視線が集まっているせいか朝倉はほんのりと頬を上気させている。ここで俺まで取り乱しては気付かれてしまうだろう。
キョン、なんで涼子と一緒なの?」
「途中で会ったんだよ。そこまで長門と一緒だった」
「ふうん」
 それから、ハルヒは視線を横にスライドさせる。
「涼子」
「な、なにかしら?」
「普段とちょっと感じが違うけど、そういう髪型もいいわね。髪飾りもいい感じだし」
「そう、よかった。変に思われないか心配だったの」
「涼子は元がいいんだからそんな心配しなくてもいいわよ」
 自分の席に戻っていくハルヒについていくように、朝倉のお団子頭が揺れて遠ざかっていくのを俺はドアのところで眺めていた。
 そう、今日の朝倉は普段と髪型が違う。長い髪を頭の後ろで団子状にして、それをかんざしのような髪飾りで留めている。
 そして、そのかんざしはナイフのようなものだとも言える。どちらかと言えば大きな針や釘に近いかも知れないが、朝倉の腕前なら分厚い鉄板でも貫けるだろう。もし外したものをハルヒに見られたとしても、ぎりぎりで武器ではないと言い訳できる範囲だ。
「これで解決」
 気が付くと、横に長門が立っていた。教室に入っていったと思ったが、心配してみていたのだろうか。
「ま、しばらくあのかんざしで我慢して普通のナイフを持っていなければ、ハルヒも鞄を調べたりしなくなるだろう。そうなれば元通りだ」
 あいつは飽きっぽいしな。
「しかし、中毒ってのは大変なもんだな。俺はよくわからないが」
 依存症になることで有名な酒もタバコも高校生の俺にとっては縁の薄いものだ。全く触れたことがないわけではないが。
「わたしはわかる」
長門もなんかの中毒なのか?」
「あなた。ここ何日か朝倉涼子が滞在していたから、そろそろ禁断症状が出てもおかしくはない」
「そうだな……どうやら俺もそんな感じだし、今日は帰ったら二人でのんびりするか」
「する」
 長門は俺の顔を見上げ、嬉しそうに首を縦に振った。