今日の長門有希SS

 通常、給食は義務教育が終了すると共に食べる機会がなくなり、大抵の高校では給食制度が取り入れられていない。しかしテスト期間など特別な場合を除き、授業は午前と午後をまたいで行われる。よって俺たちは飯を食う必要に迫られる。
 学校での食事は基本的には三つのパターンに分類される。
 一つ目は弁当。近頃は弁当男子などという珍妙な言葉が作られたりしているが、大抵の場合は保護者によって作られる。母親が主流で、我が家でもそうだ。
 二つ目は学食。食堂が設置されている学校では食事を購入して食べることができる。食券や現金決済などの方式があるが、それはどうでもいい。午前の授業が終わる時間は全てのクラスで同じであり、座席数も十分とは言えないので混み合うのも特徴だ。ハルヒはこれが多いように思う。
 三つ目は購買。金を払って飯を食うのは学食と同じだが、購買には飯を食べるための場所はない。そのため、買った物は教室やベンチなど、それぞれ自由な場所で食べることができる。この点は弁当も同じだな。
 それの他に、学校に来る前にコンビニなどに寄って飯を買ってくる場合もある。家から弁当を持参するのと、校内に設置された施設で購入するのと、その間に位置するようなポジションだが、あまり主流ではない。更には出前によって外部から注文する場合もあるが、そんなのは滅多に見かけない。恐らく、出前で飯を食うのは、生徒より教師に多いだろう。
 ともかく、今日の飯は弁当で、食べた場所は部室。一人ではなく長門もそこにいて、文字通り、同じ釜の飯を食っていた。
 そして食い終わった俺が見かけたのが――
「……」
 仏頂面のハルヒである。
 少なくとも午前の授業が終わるまでは上機嫌だった。何が楽しいのか、夏休み前の小学生のようにへらへらとしていた。
 そして昼休みの終わり際に教室に戻ってきたらこれだ。ハルヒの気分はサイコロが転がるようにすぐ変わるが、ここまでの急展開は珍しい。頬を膨らませて口の中をもごもごとしている。目は細く、眉間にシワもよっている。
 ああ、心底関わりたくねえ。
 だがしかし、そうは言っても俺の座席はハルヒの目の前である。このまま午後の授業をさぼってしまいたい気分だが、一時的に逃げたとしても意味がないことは俺もよくわかっている。どうせ放課後に部室で顔を合わせることになるからな。それまでに機嫌がよくなる可能性もなくはないが、午前の授業に参加していながら午後の授業だけ抜けて放課後に部室にいるというのはどう考えてもおかしい。少なくともハルヒに文句を言われることは確実だ。
「どうしたんだ、ハルヒ
 結局、俺はそう声をかけるしかなかった。ハルヒは片側の頬だけ膨らませた妙な顔を、声をかけた俺に向ける。
「痛いのよ」
「詩的だな」
 悲しみや切なさを痛みとして表現するのは決して珍しいことではない。心が痛いとか、胸が痛いとか、そういった表現だ。
「違うわよ。口の中が痛いの」
「そりゃどういう意味だ」
 どういう心境ならば口が痛いといった比喩表現になるのだろうか。何かしゃべることができない秘密を抱えているとかか。
「口の中をラーメンで火傷したのよ」
「そうかい」
 ひどく単純だった。ま、口を使うたびに舌が痛むようなら、静かになってくれてありがたいんだけどな。
「舌じゃなくて歯茎の内側。見る?」
 と言ってハルヒは俺に向けて口を開ける。歯並びのいい歯だな。
「別に見たいとは言ってないぞ」
「見せたいのよ。それくらい空気読みなさい」
「はいはい」
 怪我をしたや体調を崩した時などなぜか自慢をしてくる奴がいるが、今回のハルヒもそうなんだろう。俺に患部を見せたくて仕方がないらしい。
「で、どこだ」
「ほほ」
「頬か」
「違うわ、ここだってば」
 ハルヒの口の中でうねうねと舌が動いている。どうやら上の歯の裏側あたりが先端をなぞっているらしい。
「そんな場所、こちらから見えるわけがないだろう。どうしても見せたければ歯医者のあの小さな鏡でも持ってこい」
「古泉くんに頼んだら手に入りそうね」
「やめろ」
 あいつなら放課後までに仕入れてくるだろうな。
「やっぱ簡単には見せられる場所じゃないか。ぺろって皮が剥けてるぽいし、見せたかったのに」
「そんなもん見たくない」
 他人の怪我も、口の中も見たいものじゃない。そんな合わせ技を決めてお前はどうしたいんだ。
「風邪を引いたら他の人にうつせばいいって言うし」
「怪我を移植する気かお前は」
「それくらい引き受けてやるぜって感じの気概を見せて欲しいところだわ。それでもあんた、SOS団の団員なの?」
「お前は団員に何を求めているんだ」
 そう答えてみたものの、古泉なら実際にそのような言葉を口にしてもおかしくない。やむにやまれぬ事情があれば朝比奈さんにも時間を移動することによって怪我をなかったことに……いや、恐らく小さなことでも規定ならば仕方がないのだろうが、本当に必要ならばなんとかしてくれるだろう。長門は言うまでもない。
 ちなみに、団員以外にもハルヒが怪我を負った時になんとかしそうな心当たりはある。鶴屋さんなら多少高額でも医学的な方面のアプローチでなんとかしてくれるだろう。朝倉も長門同様に言うまでもない。
 そう考えてみると、ハルヒの周辺にはハルヒの問題をどうにかして解決できる人材が溢れている。俺は自他共に認める平凡な人間であるので、ハルヒが怪我をしてもできることはほとんどない。
「せめて舐めるくらいか」
「はっ、あんたなに言ってんのよ!?」
 声を荒げるな。教師は来ていないが予鈴は既に鳴っていて、クラスメイトたちは既に座席についている。私語もあまり多くないし、そうでなくてもハルヒの声はよく通る。
 しかし、思ったほどこちらに視線は集まっていなかった。今のハルヒの叫びは廊下の端まで届いているんじゃないかってほどのもので、教室にいれば例外なく耳に入るだろう。ちらりと見たのは多いが、それらは「またか」と言いたげにすぐ前に向き直る。あからさまに振り向いているのは朝倉くらいだ。
「怪我を舐めると治るとよく言うが、実際のところは雑菌もあるし、逆効果だろうな」
「知らないわよ!」


 さて、それで話が終わったかというと、そうはいかなかったようだ。
「火傷をしたら舐めて治す」
 放課後に部室に行くと、先に来ていた長門がそんな言葉を口にした。どうやら昼休みのハルヒとのやりとりが聞かれていたらしい。
 長門の手には湯飲みがある。その中身はお茶だが、ぼこぼことまるでヤカンの中のように気泡が目立つ。
「お前がそれを飲んで火傷をしようってのか?」
「しない」
 首を左右に振る。長門は常人に比べて耐久力があり、この程度のお茶なら涼しい顔で飲みきることができるだろう。溶解させた鉄を飲んで鉄分を補給することだって不可能ではなさそうだ。
「でも、あなたは火傷する」
 そう言って、長門はじっと顔を俺に向ける。
「そんなのを飲んだら胃まで火傷しそうだな」
「大丈夫」
 長門はぺろりと舌を出す。
「その部分まで舐めればいい」


 結局、口を付けた瞬間に朝比奈さんがやってきたので、俺はただ唇を火傷した上に放置されることになった。