今日の長門有希SS

 シャワーを止め、体に付いた水をさっと落としてから浴室を出る。脱衣カゴからバスタオルを取って頭にのせ、がしがしと水気を取る。
 たまにバスタオルを用意し忘れ、裸のまま脱衣所を出て取りに行くこともあるが、今回はちゃんと用意してある。下着やシャツの類も忘れていない。
 体を拭き終えたバスタオルを首にひっかけ、パンツでも履こうとカゴにのばしかけた手を思わず止めてしまう。
 耳の奥に水が溜まっているのを感じる。指では届かない場所がむずがゆい。
 こういうことは頻繁に起こりうるが、左右両方に水が溜まるのはそれほど多くはない。綿棒を使って吸い取れば解決するのだが、そうしてしまうのは何となくもったいない。耳から水がじわりと出てくる瞬間の感覚はむずがゆいがどことなく気持ちのいい物なのだ。
 だから俺は、綿棒やタオルを使わずにその水を出すことにする。
 まず俺は、首を軽く左右に振ってみた。振るだけでは体と同じ速度で水が動き続けるだけなので、手の平で押さえることによって首の動きを急停止させてしまうことにする。こうすれば、慣性を与えられた水は急停止することなく耳から飛び出るはずだからだ。
 だが、水は出てこなかった。何度もそれを繰り返すが、耳の中の水はなかなか頑固な様子だ。
 この程度の衝撃では出てきてくれないのだろう。そう確信した俺は、更なる運動エネルギーを与えるため、激しく動くことにする。
 俺は膝を軽く曲げ伸ばしし、体を上下に揺すりながら首を左右に振る。体が持ち上がった時に首を左に傾け、膝を曲げて体を落としながら右にぶんと振る。
 だが、水は出てこなかった。しかし耳のかゆみは以前より増したので、多少は動いているはずだ。方向性は間違っちゃいない。
 膝の曲げ伸ばし程度ではまだ衝撃が足りないのだろうか。そう考えた俺は、首を右側に曲げて固定し、左足を膝から曲げ右足だけで立ち、その状態で軽く飛ぶことにする。いわゆるケンケンと呼ばれる動きだ。
 今度は小刻みな振動が耳に与えられるが、これでも水は出てこない。惜しいところまで行っているような気はするんだけどな。
 細かく連続する動きでもダメなら、やはり大きく動くしかない。首を戻すと今度は先ほどより少し高く飛び上がり、落ちていく動きに合わせて首を大きく振る。
 どん、と足音が鳴る。足拭きマットの上だというのにかかとに衝撃があった。じわりとした痛みが足に残る。
 だが、水は出てこなかった。かゆさも増し、確実にゴールは近づいてきているはずだ。
 しかしこの出そうで出ない感覚というのはもどかしいものだ。
 性的な行為を行っている時もそんなことがあるが、それと似たような気分ではある。長門は俺の体のことを知り尽くしており、どこをどれくらいどうすれば限界が来るかわかっている。だから、もう寸前といった状態で手を止めてしまうなんてお手の物なのだ。そこで俺が懇願するのを、長門はまるで人間が昆虫に接する時のような目で見つめてくるわけだ。その目を思い出すだけで股間に血が集まる。
 と、そんなことはどうでもいい。今はこの耳の中の水だ。かゆみは確実に増しており、このままでは頭がおかしくなりそうだ。綿棒やタオルで吸い出すだけでは満たせない。可能であれば耳を体から取り外してかゆい部分をかきむしりたいような気持ちだ。
 もう決めてやろう。
 俺は両足を肩幅と同じくらいに広げて立つ。両手はだらりと垂らし、膝と足首を使って軽く上下に体を揺する。時折、つま先が床から離れるが音のするほどではない。
 細かく息を吐き、その動きに呼吸を合わせる。これはより高く飛ぶための助走のようなものだ。
 しばらくそれを続けると、徐々に体が温まってきた。よし、そろそろ行ける。
 まず、上下に体を動かしたまま、左耳を肩に密着させるべく首を曲げた。一度だけ肩で自分の頭を打ってしまったが、それほど強くなかったし、今はそんなことに気にしている場合ではないのでそのまま密着させる。
 そして、体の上下幅を徐々に大きくし、下がる時に合わせて膝を曲げる。体がぐっと深く沈み込み、正面にあった鏡から俺の姿が消える。
「ふぅっ」
 押しつぶされた肺から漏れた息が喉を通り、口が音を漏らす。
 そして俺は、押しつぶされたバネのようになっていた膝を伸ばし、大きく跳躍する。
「イヤッハァァァァッ!」
 思わず声が出てしまう。だが声を出す時には筋肉の緊張が適度にほぐれるので、合理的ではある。オリンピック選手などのアスリートが競技中に声を出すのを聞いたことがある者は多いだろう。あれだってそう言う効果を狙っているはずだ。
 一瞬、体が空中でぴたりと静止する。全ての運動エネルギーが位置エネルギーに置き換わった瞬間だ。時間にしてみればほんのわずかだが、俺には妙にそれが長く感じられた。目の前の鏡には股間の先端が映り込んでいる。
 そして、位置エネルギーが今度は下向きの運動に変換される。体の落下に合わせて、俺は左側に曲げていた首を一気に右側に曲げる。勢いよく曲げすぎて左側の筋がおかしくなりかけているのだが、落下するまでのわずかな時間ではそんなことは意識できなかった。
 足の先端が床に触れた時、俺は膝にかかっていた力を抜く。体はそこで止まらず、その勢いのまま下に落ちていく。膝を脱力してしまえば、俺の頭は最初の位置より下に落ちることになり、飛び上がる瞬間に与えた以上の速度を得るはずだ。
 そして俺は衝撃をやわらげるため両手の平を下に向ける。このままでは尻餅を付いて体が止まるわけだが、床に触れる部分を増やし衝撃を分散するわけだ。
 最初に床に触れたのは両手の平。肘の力を適度に脱力し衝撃を受け流しつつ、最終的には尻で――


 ガキン!


 頭の中で火花が散り、世界が上下に分裂した瞬間、意識が暗転した。


 意識を取り戻すと寝室だった。
 後で聞いたところによると、妙な叫び声とどすんと言う音が聞こえて脱衣所に駆け付けた長門が見たのは、全裸のまま体育座りのような体勢で目を回している俺だったそうだ。自分の膝で顎を打ち付け脳震盪を起こしていたわけだが、そんな俺を布団に運んでくれたのは長門だった。しっとりと全身が湿り、股間をガチガチに膨らませていた状態の俺をだ。
 目を覚ました直後の俺は「みみみず! みみみず!」と繰り返していたそうだがその間の記憶はない。
「冷たいお茶を持ってくる」
「頼む」
 舌も噛んでいないし脳にも別状はないとのことだが、少し安静にするように言われている。立ち上がった長門を見送り、ふうと息を吐く。
 ようやく真っ当に意識を取り戻した時にはもう耳の中の違和感は消えていた。運ばれたり寝かされたりしていた間に抜けてしまったのだろう、少しだけ残念だ。
「ん?」
 長門が先ほどまで座っていたあたり、俺の目に飛び込んできたのは真っ白の小さな棒状の物体。手にとって見ると、それは綿棒だった。触れてみるとその左右には液体が付着していた。
「戻った」
「なあ長門、これどうしたんだ?」
「溜まっていたようだからそれを使って吸い取っておいた」
 いけなかった? と首を傾げる長門に俺は何も言うことができなかった。長門に悪気がないのをわかっているからだ。それに、長門が綿棒で吸い取らなくても、勝手に抜けていた可能性はある。
 しかし、耳の水にしてはやけに粘りがあるな。こんな状態ならなかなか出てこなくても頷ける。それにやたら量が多い。
「耳の?」
 長門が首を傾げる。
「いや、俺が倒れてる時、耳に溜まっていた水を抜いてくれたんだろ?」
「そっちじゃない」
 と言うと長門は、視線を俺の顔から下の方に移動させた。