今日の長門有希SS

 入浴中、もし誰かが入ってきたらと考えたことはないだろうか。風呂場では大抵の者が服を身につけておらず、武器になるような道具も少ない。しかも出入り口が一つしかないので逃げ場もない。
 そして、特に無防備になるのは頭を洗っている最中だ。背の低い椅子に腰掛け、やや前傾姿勢になってシャンプーを泡立てている時、人間は完全に抵抗する力を無くしていると言っても過言ではないはずだ。
 シャワーの音の中、がちゃりと背後でドアの開く音が微かに聞こえた。誰かの気配が近づいてくるが俺はそのまま頭を流していた。
 ここに入ってこられるような相手はどうせ決まっている。ナイフを持った奴が入ってきたとしても玄関から風呂場まで到達できるはずがない。
 シャワーの当たる位置が頭から背中にゆっくりと移動する。自分は体を動かしていないので、シャワーヘッドが動いたことになる。もちろん動かしているのは先ほど入ってきた人物だろう。そいつはシャワーを頭に近づけ、湯の当たっている部分の髪の毛を手で梳く。残っているシャンプーの泡を洗い流すように。
 きゅっと音を立ててシャワーの音が止まり、粘りのかかる液体がかけられた。頭を撫でる手は恐らくリンスやコンディショナーと呼ばれるであろうそれを全体にのばしていく。
 その液体は洗い流されることなく、続いて手が触れたのは俺の背中だ。ゆっくりと触れる手が俺の背中に、首に、腰に泡をまとわせていく。体の表面を滑る手は全身の垢を落とすには少々弱く感じられるが、そもそも過剰にこすって垢を出すのは推奨されることではないらしい。
 大まかに泡が全身を覆ったところで再びお湯がかけられる。まず最初は頭に残っていた分が流され、続いて全身。シャワーヘッドを近づけ、じっくりと洗い流していく。
 泡が全てなくなったのだろう、お湯は止まり引っかけられたシャワーヘッドがカランと音を立てる。
 次は俺が洗ってやろう。そう思って目を開けると、
長門?」
 そこには誰もいなかった。


「な、長門!」
 バスタオルを腰に引っかけ、全身を水浸しにしたまま風呂場を飛び出してきた俺を長門は不思議そうに眺めている。
「今、お前、風呂場に来たか?」
「行っていない」
 あの手は長門のものではなかった。その事実は俺の背筋を冷たい塊となって駆け抜ける。長門だと思っていたから油断しきっていたのに、もしあれが悪意を持った何者かだったら、俺は無事ではなかっただろう。
 いや、無事だったからと単純に安心できるわけではない。あれは一体何者だったのか。
「じゃあ、俺が風呂にいる間に誰かこの部屋に入ってきたか?」
「……」
 首を傾げるその反応を見るだけで答えを聞く必要はなかった。長門が人の出入りを感知できないはずがない。あの時、俺は確かに頭に触れる手を感じた。シャワーの位置だって移動したはずだ。間違いなく誰かがいたはずだ。
「どうかした?」
 状況が掴めていないのだろう、長門は探るように問いかけてくる。
 さて、俺はどう答えるべきなのだろうか。得体の知れない何者かが風呂場にいて、俺の体を洗っていたなんて、伝えるべきではないように思われる。色々な意味で常人より強い長門だが、それでもやはり女の子なのだから気味の悪い思いをさせたくはない。
「なんでも……ない」
 いや、しかしそれでいいのだろうか。確実に異変が起きている。長門すら気づけないと言うのは普通ではないのは確実であり、それを知らないことで何らかのトラブルを生み出す可能性は否定できない。
「……」
 長門はじっと俺の顔を見つめる。俺の態度が長門を不安にさせているのだろうか。
 気味が悪いと思うかも知れないが、それでもやはり言うべきだろう。
長門――」
 口を開きかけたところで、長門の後ろをすっと青白いものが通り過ぎた。
「な――」
 青くて白いそれは俺から言葉を奪う。透き通った白い色とふわりと揺れる青い色。しみ一つない綺麗な肌を白いバスタオルで覆い、青みがかった長い髪をなびかせたそいつは腰に手を当てて牛乳瓶をくいっと傾けて空にして、こちらを不思議そうに見ている――
「朝倉?」
 朝倉涼子だった。


「いつもお世話になってるから背中でも流してあげようと思って」
 だったら一言くらい声をかけて欲しかったもんだが、俺が何も言葉を発しないので承知しているものと思ったらしい。俺が入浴の直前にトイレに入っていた時に部屋を訪れたという朝倉は、いつものように冗談で風呂に入ってきたわけだが、抵抗しないのをいいことにそのまま本当に俺の体を洗ってしまったわけだ。
 そこにはいくつかの問題と、一つの疑問がある。
「どうして洗い終わってすぐに消えたんだ?」
「言わなきゃ……いけないの?」
 うっすらと頬を染める朝倉の様子を見てこれ以上語らせるべきではないと思ったが、俺が止める前に長門が「言って」と促す。
「なんかすごく大きくなっていたから、冗談じゃすまなくなると思って……」
 期待していなかったと言えば嘘になる。しかしそれは相手が長門だと思っていたからで、最初から正体が朝倉だと知っていれば自制していただろう。長門ならば、それで体の内と外を綺麗にして……なんて考えていたことを否定はできない。
「そう」
 長門はじっと俺の顔を見つめてくる。別の女の手で全身を泡だらけにされ、なおかつそれで元気になってしまった男の顔を。
 そもそも俺は被害者のようなものであり怒られる筋合いなどないはずなのだが、そんなことを言えるはずもない。
 それから俺は、タオルを巻いただけの状態で長門の機嫌が直るまで攻められ続けるのであった。