今日の朝倉涼子SS

 俺たちの学校はその周囲よりもわずかばかり標高が高い場所に位置しており、そのおかげで生徒たちは毎朝恒例の山登りを義務付けられている。まあ、山登りってほどの高さにあるわけではないのだが、起き抜けだということを考慮すると、感覚的には山登りに匹敵する体力が必要である。
 よっぽどトレーニングが好きな体育会系野郎なら別として、朝っぱらからこんな坂を登りたいやつなんていないだろう。俺たち一般人にとっては苦痛でしかない。
 特に、寝坊をして急いでいる時などは最悪である。起きるのが遅かったとなると朝食を食えなかったことを意味しており、そんな状態でこの坂を登るのは苦行にも近い行為だろう。
 現在の俺がまさにその苦行の真っ最中だった。寝坊をした原因は大したことではない。深夜に放送されていたバラエティ番組を見ていたらなんとなく眠るタイミングを逸してしまい、普段より一時間ほど遅くベッドに入ったからである。
 もう一つの要因としては、毎朝俺を起こしにくる妹がテレビに夢中になってその日課を忘れていたからであり、つまり今回の寝坊の原因はテレビにあると言っても過言ではないだろう。
 とまあ、原因の分析ができたところでどうなるわけでもない。振り返って確認するとまだ半分も坂を登っておらず、体力も残り少ない。さらには時間的な余裕もそれほど無いので、うまくペース配分をしてこの坂を登り切らねばならない。歩いていては間に合わないのだが、最後まで走って登ることは不可能に近い。
 ここに高校を作ろうと思った奴を恨みながら、俺は気力を振り絞って坂を登ることにした。


 予想以上に時間を余らせて玄関に到着した。遅刻しなかったことについては素直に喜びたいのだが、走りすぎて両足が棒のようになっていた。完全なペース配分のミスで、もう少し抑え気味に走るべきだったのだろう。
 本日の時間割に体育が入っていなかったのが救いである。この時点で明日の筋肉痛が危ぶまれるのだから、これ以上足を酷使すると筋肉痛になるのは免れられない。さすがにそれは回避したいところだ。
 疲れ切った体に鞭打ち教室に向かう。一時間目はそれほど熱心に受ける必要のない授業だし、席にたどり着いてしまえば体を休めることができる。
 早く教室に入って――
「……」
 開け放たれたドアをくぐり、俺は自分の席に先客がいるのを見つけた。我が物顔で占拠しているそいつは、後ろに座るハルヒと楽しそうに会話している。
 入学当初に比べてハルヒはかなり丸くなったのだが、それでも談笑できるような奴は多くない。その数少ない貴重な相手がいま俺の席に座っている朝倉である。委員長ってこともあって入学した頃から孤立していたハルヒを気にかけて何かと声をかけていた朝倉は、どんなに邪険にされてもそれを意に介すことなく接し続け、最終的に今の地位を勝ち取ったわけである。ハルヒを根負けさせるとは大したもんだ。
 その朝倉の席が空いているはずだと見回してみると、そこは谷口が既に確保してへらへら笑いながら隣の国木田と話していた。そうなると谷口本人の席が空いているのだが、その周囲にそれほど仲のいい奴がいるわけでもないし、そこに座るのは不自然だろう。
「あ、おはよう」
 そこで朝倉が俺に気づいて挨拶をしてきた。こうなると無視するわけにもいかず、重い足を引きずって自分の席に向かうことにする。
「よう」
 俺は机の横に鞄を引っかけ、机に手をついて体重をかける。普通に立っているよりはましだが、やはりまだ足が痛い。
「なによキョン、そのやる気のない返事は」
 じとっとした目つきでハルヒが睨み付けてくる。
「あんたもSOS団の団員ならもっとシャキッとしなさい。朝の挨拶は一日の始まりなんだから大事なのよ、たるんでるわ!」
 それから団員としての心構えがどうとかハルヒの講釈が始まり、俺はふうと溜息をついた。見ている朝倉もいつものことに苦笑している。
「もしかして、ちょっと疲れてる?」
 ハルヒの話が一段落したところで朝倉が少しだけ心配そうに俺の顔を見上げていた。顔には出していないつもりだったのだが、普段から俺をよく見ている朝倉にはやはり気づかれてしまうのだろう。
「寝坊して走ってきたからな」
「まったく……これだからキョンは」
 ハルヒは呆れたような困ったような顔をする。寝坊をしたと知られるとまた何か言われると思ったが、予想に反してハルヒは黙り込んでしまう。言葉がなくなってしまうほど呆れさせてしまったのだろうか。
「あ、椅子借りてたの悪かった?」
 まあ座りたかったのは事実だが、会話を中断させてまでよけてもらうのも気が引けたからな。
「ここに座っていいよ」
 朝倉はくすりと笑って自分の太ももをぽんと叩いた。いや、いくらなんでもそれは無理ってもんだ。大体、逆ならともかく男の俺がお前の足の上に座るってのはどうなんだ。
「わたしは大丈夫だけどなあ」
 まあ、確かにお前のその丈夫そうな太ももなら問題ないような気もするけどな。
「……」
 朝倉は一瞬だけ笑みを顔から消してから、再びにこにこと楽しそうな笑みを浮かべた。
 しまった、地雷を踏んでしまった。
 などと思ったのは一瞬のことで、朝倉の手が机にもたれかかっている俺の腕を掴んだかと思うと、バランスを崩してくるくると視界が回転。三六〇度のパノラマを体験したかと思うと、俺はぽすっと何かに着地した。
「ほら、大丈夫」
 声は後ろから聞こえてくる。そして、左を見るとハルヒがぽかんと口を開けて、わなわなと震えていた。
「ちょっとキョン! 何やってんのよこの変態!」
 ハルヒの怒号により、クラス中の視線が集中した。
 朝倉の太ももの上に座っている俺へと。
「いや、座りたくて座ったんじゃないって!」
 両手を机について立ち上がろうとするが、下半身はまるで根が張ったかのようにびくともしない。強力な瞬間接着剤で朝倉と密着してしまったかのように。
「きゃっ、そんなに腰を動かしたらダメ」
 朝倉の息が首筋にかかる。火に油を注ぐような朝倉の声でハルヒの顔は般若のようになり、集中しているクラスメイトの視線もナイフのように俺を刺す。
「離れなさいってば!」
 ハルヒが立ち上がって俺の体を無理矢理引き剥がそうとするが、俺の体は朝倉と一体化したかのように離れそうにもない。
「ちょっと……こすれちゃう……」
 先ほどまで冗談めかしていた朝倉だが、なんだか声が湿っぽくなってきた。はあはあと荒くなる息も、演技ではないように感じられる。
「さっさと離れなさい! この変態! 変態! 変態っ!」


 それからしばらくして教師が到着したあたりでようやく朝倉と体が離れたのだが、その日は一日中ハルヒだけでなくクラス中からの視線が痛かった。