今日の長門有希SS
朝倉が訪れるようになってから数日、いつしか腕を上げた朝倉は俺を凌駕し、長門やハルヒに対してもそれなりに渡り合えるようになっていた。攻撃的なスタイルの朝倉は負ける時は大敗するのだが、流れを掴んだ時は手をつけられないほどの実力を発揮する。
対する俺はある程度で頭打ちになり、そろそろ自分の限界に達したかと思っていた。
「なに弱音吐いてんのよ。あんたは先鋒なんだからね!」
朝倉が加わったがSOS団の五人で挑むという基本姿勢は変わっておらず、俺が先鋒のままだ。これだけ入り浸っていても朝倉はやはり団員にはなり得ないらしい。
しかし、順番はこのままでいいのかね。俺が最初で、朝比奈さん、古泉、長門、ハルヒと続く。ハルヒが大将で長門が副将ってのは異論が無いが、この五人の中ならば俺は真ん中くらいの実力を身につけていると思うんだけどな。先鋒が朝比奈さんでもいいだろ。
「涼宮さんにとって、あなた以外の順番はどうでもいいと言う事ではないでしょうか」
ニヤけてないでお前も少しは上達してくれよ。三番手って自覚はあるのか?
「いやあ、副部長なので副将になるかと思ったんですけど」
長門と対局した後がお前だったら、相手はその落差にさぞ驚くだろうな。大将のハルヒの前に油断させる効果くらいはあるかも知れないな。
「既に対局しているので、間に僕を挟んでも油断する事はないでしょうね。あれから更に実力が増したと思いますが、あの時点で涼宮さんはかなり実力を持っていたはずですよ」
そう言えばハルヒは一回そいつと対局してたんだよな。あの時はルールも知らなくて何となく白と黒のどっちが多いかしかわからなかったが、今なら相手の実力もわかるかも知れない。
「なあハルヒ、パソコンでお前の対局した記録って見る事が出来るのか?」
「出来るけど……なに、あたしの打ち方を学ぼうっての? ムリムリ、見たってあんたには真似できっこないから」
とか言いながら、長門との対局を中断してパソコンの電源を入れる。別に真似しようってつもりはないさ。行き当たりばったりみたいに見えてそれなりに先を見通してるハルヒの打ち筋ってのは雷や嵐みたいに予測出来るものじゃなく、まさしくそれはハルヒにしか出来ない独特のものだからな。
「えっと、棋譜を見るには確か――」
マウスを握って画面を見ていたハルヒの動きがピタリと止まる。
「うそ」
「どうした?」
「いる、あいつがいる!」
あいつってのは、もちろんハルヒを負かせた例の相手か。また前みたいに観戦するのか?
「今、あいつフリーなのよ! 対局相手を募集してるわ!」
となると、こっちから申し込んだらどうなるんだ?
「対局出来る……かも。キョン、どうしよう?」
思ってもいなかった事態にハルヒは珍しく弱気だ。予想外なのは俺も同じだが、いつもにはない弱気なこいつを見ていると対照的に冷静になってくる。
「今やらなきゃ次はいつになるかわからないんだろ? いいぜ、押しちまえ」
するとハルヒはニヤリと笑い、
「覚悟出来てんじゃない。それでこそSOS団員よ!」
マウスをクリック。しばらくその画面で待たされてから、画面が切り替わると、モニタには碁盤が表示されていた。
本当に申し込みが通ってしまったらしい。いつの間にかモニタを囲むようにしていたら朝比奈さんや古泉はいかにも勝ってくれないと困るといった表情を浮かべており、朝倉は一体何を盛り上がっているのかと不思議そうだ。
そして、ハルヒが「任せたわよ」と椅子を降り、
「……」
長門が無言でその椅子に正座をした。
えーと……これは一体、どういう事だ?
「ちょっと有希! 先鋒はキョンだってば!」
ハルヒが思わず大声を上げる。近所迷惑極まりないが、ありがたい事にこの部室のご近所さんはこの程度の事じゃビクともしない。
「……」
長門はハルヒの顔をしばらく見つめ、それからゆっくりと俺に顔を向ける。表情は無いが、長門が何か言いたいのだろうと理解できる。
「あー、すまんハルヒ。実に言いにくいんだが、さっきから小便を我慢していてだな……悪いが相手に待っててもらってくれないか?」
「こんな時に緊張感が無いわね……わかったからさっさと行って来なさい!」
追い出されるように部室から外に出て、多少は便所のある方向に向かって歩いたがそれは単なるカムフラージュでしかなく、俺は少し遅れて出てきた長門と合流する。
「部室の中はどんな感じだ」
いきなり本題に入ると長門に悪いような気がして、俺は少しだけ別の話をしてみる事にした。
「古泉一樹がチャットで場を繋いでいる。相手は反応はしていないが待ってくれている」
「そうか」
そりゃ良かった。
「で、さっきはどうしたんだ?」
俺が先鋒ってのはハルヒが部室で何度も発言していた事であり、長門だってわかっていたはずだ。
「……」
長門は困った様子で俺の顔を見つめる。
「つい」
そこで俺は、数日前にあいつの対局を見てからしばらく長門の様子がおかしくなっていたのを思いだした。
「もしかして、お前はあいつと対局してみたいのか?」
長門は自分の欲を見せる事が少ない。付き合い始めてから多少は変わったが、それでも俺の意志を尊重したり、俺の欲求を先読みして来る事が多く、純粋に長門の欲求で何かをしたがるという事は少ないのだが。
「対局したい」
この時ばかりは、はっきりと首を縦に振った。
「そうか」
しかし、ハルヒを説得するってのは大仕事だな。お前がそう言うなら変わってやりたいが、あくまでもハルヒは俺が最初だと言い張ってるからな。一体どうしたもんかね。
「その点なら大丈夫。少し屈んで」
「こうか?」
俺が腰を曲げると、長門はつま先立ちをして内緒話でもするかのように俺の顔に口元を寄せ、
ちゅ――
こめかみのあたりに触れた。
「な、なが――と!」
慌てて周囲を見回すが誰もいない。セーフ!
「ナノマシンを注入した。あなたにしか見えない方法で指示を出すから、その場所に石を打って欲しい」
つまり、長門の指示通りに手を動かせば良いって事か。これならば周囲には俺が打っているようにしか見えないが、実質的には長門が対局する事になる。
一気に技量が上がってハルヒに怪しまれるかも知れないが、まあそこは仕方ないだろう。そもそも、負けちゃいけないんだったよな。長門が俺の代わりに打って、困る人間は誰もいないんだ。
「それじゃあ、そろそろ部室に戻るか」
「わたしは少しだけ遅れて戻る」
そりゃそうだ。一緒に戻ったらいかにも密会してましたって感じだもんな。
「じゃあ待ってるぞ」
長門を廊下に残して部室の中に戻った。
「遅いわよ! 何してたのよ!」
「いや、大きい方も……」
「もういいからさっさとしなさい!」
身振り手振りを交えてやると、ハルヒは顔を真っ赤にしてぶっきらぼうに怒鳴る。
「間を持たせてくれた古泉くんに感謝するのよ!」
そういや古泉が相手を引き留めてくれてたんだったな。一体何の話をしていたんだ?
「食べられる雑草とその調理法の話をしていました」
そらまたコメントに困る内容だな。
「では、よろしくお願いします」
古泉が椅子を空け、まるで遅れてきた代打ちのように俺がそこに座る。まあ実際には俺の代打ちが長門であり、俺は長門の指示通りに打つだけなのだが。
しばらくして長門が部室に戻ってきて、俺の斜め後ろに陣取った。肩越しに見ると、長門は向こうにいる相手を見つめるかのように、じっとモニタ見つめていた。
「キョン、緊張してんの?」
ハルヒが俺の肩をぽんと叩く。俺は緊張してないさ。ただ、何となく長門とモニタの向こうにいる相手の板挟みになっているような、妙な感覚はあるけどな。
ともかく、準備は出来ている。長門の指示もはっきりと見えている。
俺はその印に重ねるように、石を置いた。
あれから数日が過ぎた頃には、この文芸部部室は以前の様子を取り戻していた。朝比奈さんはメイド姿で……いやまあ、あの時もメイド服は着ていたのだが、囲碁を打つことなくお茶を注いで回っている。
朝倉が来る事もなくなり、長門もいつもの位置で読書をしている。
ハルヒはニヤニヤと笑いながらパソコンに向かっている。
「また新しい部下が出来たわよ」
ハルヒによると新たな伝説になったらしいあの対局を見た奴らが勝負を挑んでくるようになったそうだ。ハルヒがそんな奴らを蹴散らし、負けた相手にはSOS団のホームページに日参し、更に最低十人の人間に宣伝するようにと言い含めているそうだ。気の毒だが、ハルヒに負けてその程度で済んでいる事を感謝してもらいたいね。
「今日はここで終わり! さてと……古泉くん、なかなか強くなんないわね」
ハルヒが盤上を見て苦笑する。
元々古泉と時間潰しで何かテーブルゲームをやっていたのだが、思いだしたように囲碁をやる事がある。そんな時は以前に比べてハルヒや朝比奈さんも加わってくる事が多いのだが、あの一戦で全てを出し切ったのか、長門はあれから囲碁盤に触れる事はなくなった。
「古泉くん、ちょっといい?」
「どうぞどうぞ」
と言うと、古泉は盤上にあった石を片付け始める。まあこのままやっても勝負は決まっていたし、ここでやめても問題はないだろう。
「手加減なしよ」
あれ以来、俺はハルヒとそれなりに渡り合えるくらいに実力が上がった。ナノマシンの効果は切れているらしいが、なんとなく、どこに打てばいいのかわかるような気がする。
その打ち筋は、ハルヒに言わせると本因坊秀策をかなり弱くした感じらしい。