今日の長門有希SS

 授業中、教師が他愛のない雑談をするってのはよくある事だ。そんな時は、それまでうたた寝していた奴もなぜかシャキッと姿勢を正してその話に耳を傾けたりする。
 今日の話は、タイムパラドックスについて。仮にタイムマシンが発明されたとして、それを使って過去に行って自分が生まれる前の親を殺した場合、自分が誕生しない事になる。しかし、その場合は親が死ぬ事もなくなるので、やはり自分は誕生する事になるわけで、また親を殺す事が可能になる。
 このように「卵が先かニワトリが先か」のような堂々巡りを繰り返す事になるので、やはりタイムマシンで過去に戻る事は出来ないだろう、というのがその結論だった。
「夢がないわね」
 真後ろから、不機嫌そうな声が聞こえる。
「未来人はいるわ、きっと。そして、いつかあたしの前に現れて未来から来たって自己紹介してくれるのよ」
 確かに未来人は存在するぞ、それもお前のごく身近にな。未来から来たとはお前にゃ言ってくれないが、その代わりに毎日うまいお茶を淹れてくれている。
「外国の偉い学者がニワトリより卵が先だって結論を付けたって言うじゃない。タイムパラドックスくらい、まあ、なんとかなるのよ」
 お前がそう信じたから、SOS団が誇る未来人もそのあたりの複雑そうな問題をなんとかしてこっちに来ることが出来たんだろうな。その意味じゃお前に感謝しなきゃならない。
 雑談はいつの間にか終わっており、教師は再び真面目に授業を始めていたので、やはり俺は睡魔に勝てずうたた寝を始めてしまった。


 部室の前に立ってノック。
「どうぞ」
 ドアを開けると、既にメイド服に着替えている朝比奈さんがニコリと笑った。トレイを持った朝比奈さんはどこからどう見ても立派なメイドであり、ふと考えるとここのところ制服姿をほとんど見ていないような気がする。
キョンくんのお茶も淹れますね」
 朝比奈さんはぱたぱたと足音を立て、せわしなくお茶の用意をする。部室には俺と朝比奈さんしかいない。
 ふと、授業の時の教師の雑談が思い出された。タイムパラドックス。古泉や長門もそのような話が得意かも知れないが、SOS団の中で最も詳しいはずなのは、目の前にいる朝比奈さんであるのは言うまでもない。
「朝比奈さん、聞きたい事があるんですけど」
「はぁ」
 湯飲みを俺の目の前に置きながら、朝比奈さんは首を捻る。
「何ですか?」
 しかし、俺は口を開いた。
タイムパラドックス、ってありますよね」
 その単語を口にした瞬間、朝比奈さんの表情が強ばる。
「改めて説明する必要が無いと思いますが、過去に戻って自分の親や先祖を殺したり、または結婚の邪魔をした場合、どうなるのか……というあれです」
「……」
 朝比奈さんは、困ったような顔で俺を見つめている。いつも気にしている禁則事項に触れてしまう可能性が高いので、答えてもらう事はあまり期待していない。
「授業中に教師がそんな話をしたんですよ。だからタイムマシンが発明される事は無いと」
 何となく喉が渇き、俺は朝比奈さんが淹れてくれたお茶で口を湿らせた。
「でも、ハルヒは、タイムパラドックスくらいなんとかなるだろうと言ってました」
「涼宮さんらしいですね」
 朝比奈さんはどことなく楽しそうに微笑む。
「実際、どうなんでしょう?」
キョン君が言ってるのは、こういう事ですよね」
 トコトコとホワイトボードの前に立ち、ホワイトボードの上と下に丸をそれぞれ一箇所ずつ書く。
「上から下に時間が流れているとして、この下の穴に入ると、上の穴に戻る事にします。便宜的に、ですが」
 実際はちょっと違うんですが、と朝比奈さんは苦笑する。
「ある人がこのように時間を遡って、こう出てくるわけですよね」
 朝比奈さんは、右上から下の穴に向かって斜めの矢印を書き、上の穴から右下に向かって矢印を書く。
「ところが、この交わった場所で邪魔されてしまって、この人は下の穴に入る事が出来ない。そうなると、そもそも邪魔が入るわけがなくなるから、穴に入る事が出来るはずだ……と、こういう話ですよね」
 何だかややこしくなってきたが、そう言う事であっているだろう。
「このことについて、ビリヤードのモデルを用いて説明した人が昔――キョンくんたちよりも、以前の時代にいました」
 朝比奈さんは矢印の交わるところに二つの丸を描く。
「矛盾無く説明する場合、ここでボールがぶつかっても、少し針路がずれるだけで下の穴に入る事が出来る……なぜなら、穴に入る針路がずれた事でボールに対するぶつかり方も弱まって、はじき返すほどのエネルギーが失われてしまった、という考え方があります」
 なんとなく納得がいかない。俺が首を捻っていると、
「昔の人の考えた事ですから」
 と微笑む。その口振りから、朝比奈さんは本当の事を知っている……ような気がする。
「実際はどうなんですか?」
「それはですね、めそ――」
 朝比奈さんが口を開いたところで、
「おっ待たせー!」
 これ以上ないというタイミングで、ドカンと部室のドアが開かれた。もちろんその音を立てた正体は、見なくてもわかっている。
「何やってんの?」
 入ってきたハルヒは、俺達と、ホワイトボードに描かれた図形を見て怪訝な顔。
「まさか、あんた……」
 何かに気付いたような表情。それを見た朝比奈さんがビクリと肩を竦める。
 ハルヒは勘の良い奴である。この図からタイムパラドックスの件を話し合っていたと想像しても、おかしくはない。そうなると、朝比奈さんの正体に考えが及び――
キョン、あんたみくるちゃんに女教師プレイを強要したんでしょ!」
 ハルヒは俺の襟首を掴み、ガクガクと揺さぶる。
「ンなわけないだろ」
「じゃあ何をしてたってのよ!」
 かといって、答えられるはずもない。しばらくハルヒとにらみ合ってから、再びガクガクと体を揺さぶられる。
「なに?」
 入ってきた長門が首を捻っている。
「有希、聞いてよ! キョンの奴、みくるちゃんに女教師プレイをさせてたのよ!」
 だから言いがかりだってーの。
「……」
 長門はトコトコと近付いてくると、じっと俺の顔を見上げる。
 いや、まさかお前、ハルヒの戯言を信じたわけじゃない……よな?
「……」
 しかし長門は、無言で俺のスネをつま先で軽く蹴飛ばしてから、定位置について読書を開始した。


 結局、ハルヒの誤解はそれからしばらくして解けた。
 長門の方はと言うと、
「今夜は女教師プレイ」
 と、なんで持っていたのか知らないが、夕飯後にスーツに着替えた。