今日の長門有希SS

 買い物袋を持って長門の部屋に入り、電気をつけてカーテンでも閉めようかと窓の外にチラリと目をやると、小さい何かが宙に浮いているのが見えた。
 窓に近付いて見ると、それは一匹の蜘蛛だった。親指の先くらいのサイズの大きな蜘蛛が巣にくっついている。虫を捕るためには当然だが、蜘蛛の巣は遠くからでは見えない。
「どうかした?」
 電気をつけた長門がこちらにトコトコとやってくる。
 窓の外をぼーっと眺めている俺の事を疑問に思ったらしい。
「蜘蛛がいるんだな」
「一週間前から」
 もしかしたら、巣自体は前から視界に入っていたのかも知れない。目に入っていたとしても、気が付かなかったのだろう。
「放っておいてもいいのか?」
「益虫だから」
 まあ、害はないしな。ベランダに出る事もあまり無いし、特に目障りってわけじゃないならいてもいなくても問題はないか。
「それより、食事を」
「ああ」
 気が付くと、買い物袋を抱えたままだった。俺は片手でカーテンを閉めて台所に向かう事にした。


 二人で食事を作って二人で食べる。少し前まで考えられなかったような生活だが、今となっては当たり前の事となっている。
 中学時代の俺に今の俺の事を話してやったらどんな反応をするだろうな。ハルヒのトンデモ能力とそれを取り巻く状況よりも、長門の部屋でこうして過ごしている事の方を驚くかも知れない。俺がこれほど愛に生きる男だったなんて、昔の俺には考えられない事だ。
「何か?」
 長門が首を捻った。
 何の気なしに顔を見つめてしまっていたから、不思議に思ったのだろう。
「いや、見てただけだ」
「そう」
 お返しとばかりに、長門が俺の顔をじーっと見てくる。
「どうかしたか?」
「見てるだけ」
「そうか」
 そんな感じで無言で見つめ合うことしばし、
「お風呂を沸かしてくる」
 不意に長門が立ち上がると、トコトコと風呂場に向かった。浴槽自体はお湯を抜く時に洗っているので、シャワーでざっと流してからお湯を入れるだけだ。それほど準備に時間がかかるものではない。
 一人残されてぼーっと過ごしていると、ふと先ほど見かけた蜘蛛の事が気になった。
 窓に近付いてカーテンを開けると、蜘蛛は先ほどと同じように巣にくっついている。俺達が飯を作って飯を食ってのんびり過ごしていた間、こいつはただじっとしていたのだろう。
 こんな高いところまで登ってきて巣を作るとは、なかなか根性のある奴だ。高いから餌が捕れるかどうかってのは不明だがな。
 長門が言うには一週間ほど前からここにいるらしい。近くにあって、見えてるようで見えてないようなもんってのはよくあるもんだ。まさに灯台もと暗し。
 しかし、改めて考えてみると、俺は相当恵まれた環境だよな。好きな女の家に転がり込んで一緒に同棲まがいの生活。大多数の高校生には考えられないような事だ。今の俺にはこれが当たり前で、そんな事すら忘れていた。放っておいてくれている理解の良すぎる家族には感謝せねばならない。
「用意してきた」
 長門がいつの間にか戻ってきていた。湯がたまるまでには三十分ほど時間があるだろう。
「蜘蛛が目障り?」
 もし俺がイエスと答えたら、次の瞬間には巣の糸の一ミリも残さず消滅するだろう。
「いや、放っておいてやれ」
「そう」
 普段は忘れていた事を思い出させてくれたんだ、そっとしておいてやろう。
「沸いたら一緒に入るか」
 風呂に入るのは別々の事も多いが、今日は何となくそんな気分だった。せっかく幸せなのだから、それをもっと満喫してもいいだろ? 時間は有限だからな。
「……」
 しばらく俺の顔を見てから、
「いい」
 なぜか目を伏せて答えた。