これはステマですか? はい、官能小説です


 宮下竜蔵は勤労少年である。
 中学生の身でありながら、毎日早寝早起きし、親戚の経営する新聞店で朝刊を配達している。給料自体は決して多いとはいえないが、二時間ほどで終わり日常生活をそれほど圧迫されず、中学生の得るものとしては十分な金額だ。
 生活に困っているわけではない。両親と共に実家暮らしをしている彼は、自分で稼がなくても最低限の生活は保障されている。なぜアルバイトをしているかというと、金のかかる趣味を持っているからである。
 彼は官能小説が好きだった。
 最初に読んだきっかけは既に彼自身も覚えていないが、中学に入った頃には刊行される官能小説のかなりの部分を購入するようになっていた。官能小説といっても、フランス書院文庫マドンナメイト文庫といった大人向けのものだけでなく、二次元ドリーム文庫美少女文庫のようなジュブナイルポルノと呼ばれる低年齢向けのものまで様々で、竜蔵はそれらに幅広く手を出していた。
 もちろん、それだけ読んでいれば金額もかなりのものになる。ライトノベルなど一般の書籍であれば図書館で借りることも可能だが、官能小説ではそうはいかない。周囲で官能小説を愛読している者もいないので貸し借りする相手もおらず、読みたい本は自分で買うしかない。当初はお年玉貯金などを使っていたが、いつしか残高がなくなっていき、彼は両親と親戚に頼み込んで新聞配達を始めることになった。
 幸いにも、彼の両親は彼が読んでいるものが官能小説であるとは知らない。本棚に並ぶ背表紙を眺めて漫画よりも小説が多いようだと思う程度で、それらが団鬼六著「女学生辱す」や、遠野渚著「ウチの妹がここまでMなわけがない」葉原鉄著「ツンマゾ!―ツンなお嬢様は、実はM」といった性描写のある作品であることまでは気がついていなかった。
 そういった事情により、竜蔵は誰にも見咎められることもなく己の趣味を満喫していたのだが、そのうち読んでいるだけでは気がすまなくなった。彼にとって本と言えば官能小説であり、雑誌といえばS&Mスナイパーであるが、その認識は世間とかなりズレていた。ツイッターフェイスブックでそれらの感想を見かけることはまずないし、読書メーターで他の読者の感想を見ようとしても、彼が読んでいるような小説を登録しているのは一部の例外はあるが五人から十人程度のものばかりで、中には彼しか感想を投稿していないような作品もあった。
 竜蔵は、その現状をふまえて「官能小説は誰にも読まれていないのではないか」と考えた。もちろん実際にはそれなりに読まれており、そういう小説の読者層が読書メーターという存在を知らないだけなのだろうが、ネットで話題になっていないものは世間でまったく知られていないと彼は勘違いをしてしまった。
 普通ならば、そう考えたところで残念だと思うだけだが、彼には行動力がある。何しろ、官能小説を買うためだけに毎日早起きをして新聞配達をするほどだ。現状を変えるために努力は惜しまない。
 その結果として、彼は官能小説レビューサイトを立ち上げることになった。HTMLの知識はなかったので、無料で提供されているブログサービスを使用した。読書メーターの文字数では感想を表現しきれなかったこともあり、遅かれ早かれ同じ結論に達していただろう。
 彼の作ったレビューサイトは官能小説に的を絞ったマニアックなものなので、読者が多いとは言えなかった。しかし、アクセス数などを気にせずコツコツと真面目にレビューを書き続けるうち、競合相手がいなかったこともあり、彼のブログ「Mゾウの官能部屋」は官能小説という狭い世界ながらもよく知られたレビューサイトとなった。


 竜蔵はブログを立ち上げた時に本名をもじり「Mゾウ」というハンドルネームを設定した。官能小説でM男側に感情移入することが多く、実際の経験はないがMだと自覚しているというのもある。
 更新の告知などのために、その名前でツイッターを活用するようになり、それなりにインターネット上での付き合いも生まれた。
 しばしばツイッターでリプライを送りあう相手に「熊倉」という人物がいる。
 熊倉は「夢枕緊縛」という名で官能小説を執筆している商業作家で、サイトが開設された頃から竜蔵のブログのコメント欄に書き込みをしていた常連の読者でもある。デビュー作は「獅子の菊門」というタイトルで大人向けのフランス書院文庫から発売され、その後もフランス書院文庫を中心に「餓えた狼と白き牝豚」「淫獣狩り」といったハードなSM小説を執筆していた。
 最近はSMよりも催眠術を活用した調教作品が増え、ジュブナイルポルノでの執筆も始めたせいか読者の幅が拡がっており、官能小説業界という狭い世界ながら知名度も上がってきたようだ。
 作品の内容としては、男女問わず催眠快楽堕ちしていく描写が濃厚に描かれる小説が多い。こういった作品はM寄りの竜蔵の性癖にマッチしており、そのせいか「Mゾウの官能部屋」での点数も自然と高くなる。好意的な関係を築いているのは、それも一つの要因ではあるだろう。
 ある日のこと、竜蔵が用事で繁華街に出かけている最中に携帯でツイッターを見ていると、熊倉からDMが来た。
”小生と茶話会をしませんか”
 熊倉が同じタイミングで近くにいることはツイッターでの発言を見て竜蔵も気付いていた。小説家と読者、レビューサイト管理人とレビューされる小説家という、ネットでの交流はともかく通常なら実際に会うことのないような間柄ではあるが、竜蔵はその機会を逃さず熊倉と会うことにした。
”わかりました。僕は目印として待ち合わせ場所で葉原鉄著『土下座でお願いされたのでみ〜んな×ませた』を持って立っていましょうか”
”そういうのいいです”
 ともかく、容姿の簡単な特徴だけを伝えあって待ち合わせ場所に向かい、竜蔵はそこで人生最大の衝撃を受けることになる。
 熊倉は、女性だった。
 年の頃は二十代半ばといったところ。スーツ姿に赤いセルフレームの眼鏡をかけた彼女は、仕事のできるOLや女教師のような風貌で、まるで彼の理想とするS役の女性が官能小説から抜け出してきたかのようだった。
 竜蔵は驚きのあまり言葉を失って立ちつくすが、戸惑っているのは彼ばかりではなかった。熊倉もまた、目を丸くしている。官能小説を大量に購入してレビューを書いている人間が、こんなに若いとは思っていなかったのだろう。
 初対面なので服装などはDMで伝えあっていたが、お互い、性別や年齢といった肝心な情報が抜けていたわけである。


 気がつくと竜蔵はファミリーレストランにいた。
 大きな衝撃を受けた際に、いつの間にか家に帰っているという話があるが、今回の竜蔵の状態がまさにそれだった。熊倉に出会ってからここに来るまでの経緯をおぼろげにしか覚えていない。正気を取り戻した頃には、ファミレスのチープなテーブルを挟んで向かい合っていたわけである。
「でも、本当に驚きましたよ。まさかMゾウさんが中学生だったなんて。失礼ですがもう少し年配だと思っていました」
 熊倉は水の入ったグラスを両手で抱えながら微笑を浮かべる。ここに来るまでの間に、竜蔵は自分の年齢や家庭環境などを説明した記憶がうっすらと戻ってくる。
「僕も驚きました。熊倉さんが女性だったなんて、考えたこともなかったです」
「官能小説は男性文化ですからね。編集部と相談した結果、性別のことは極力明らかにしないことにしているんですよ。例えば週刊少年ジャンプのような雑誌に連載されている漫画家でも、ペンネームを男性の名前にしている女性は何人かいるそうですよ」
「そうなんですか……」
 メジャーな雑誌であるジャンプを例に出されても、竜蔵はピンとこなかった。彼にとっての雑誌とは、一般の中高生がイメージするジャンプやマガジンといった漫画雑誌や、メンズナックルのようなファッション誌ではなく、やはりS&Mスナイパーだった。
「ところで注文は決まりましたか?」
「あ、ちょっと待ってください」
 竜蔵はあわてて、テーブルに開きっぱなしになっていたメニューに視線を落とす。
 まだ食事をするには時間が早い。ページをめくり、デザートの項目からケーキを選び、ドリンクバーをつけることにする。
「決まりました」
 竜蔵の言葉に反応し、熊倉がボタンに手を伸ばす。
 ピンポン――
 客がそれほど入っておらず閑散とした店内に間の抜けたチャイムが鳴り響き、すぐにウェイトレスがテーブルまで来た。
「私は栗のジェラートとドリンクバーを」
「あ、僕はキャラメルりんごのシブーストとドリンクバーでお願いします」
 端末に入力したウェイトレスが戻っていくと、熊倉は「もっと高いものでもよかったんですよ」と苦笑を浮かべる。
 竜蔵は最初、言葉の意図が理解できずに首を捻ることになったが、どうやら彼女が代金を払うつもりだと言っているのだと思い至る。
「そんな、自分で出しますよ」
「Mゾウさんはまだ中学生じゃないですか。こういう時は大人に遠慮しなくていいんですよ」
「大丈夫です。一応、アルバイトをしていますから」
 一般的に中学生は働くことが出来ない。疑問を口にする熊倉に、竜蔵は親戚の新聞販売店に頼み込んでアルバイトを始めた顛末を説明する。
 その話を聞き、彼女は小さく吹き出す。
「官能小説を買うためにアルバイトなんて、初めて聞きましたよ」
 最初はクスクスと笑っていただけだが、なかなか収まらず、彼女は口に手をあてて笑い声をおさえようとする。
 竜蔵にとっては十歳ほど年上であると思われる大人の女性が、声を殺して必死に笑いをこらえている。その様子が妙に可愛らしく見えて、竜蔵の胸が高鳴った。
「ふふ……では、私が代金を払うのがお嫌なら、こういうのはどうでしょうか」
 息を整えてから、熊倉はハンドバッグから黒い皮のカバーに包まれた文庫本を取り出し、そのカバーを丁寧に外す。
 それは一冊の官能小説だった。どちらかといえば低年齢層に向けて書かれたもので、アニメタッチのイラストが表紙になっている、いわゆるジュブナイルポルノというものだ。
「俺がドSのクラス委員長に催眠術で完堕ちさせられて竿奴隷になったことが幼馴染にバレて修羅場になった件」というタイトルで、著者名のところには『夢枕緊縛』とある。
 竜蔵は目を丸くする。
「印刷見本の献本です。と言っても、今からミスを見つけても初版はもう刷られていてそのまま発売されてしまうので、あまりチェックをする意味はないんですが」
 それは発売直前の新作で、竜蔵も以前から刊行予定で名前を見て気になっていた作品のひとつだ。
「先ほど注文していたものと、この本一冊の値段が大体同じなので、代金を支払う代わりにこれを差し上げるということでどうでしょうか。まだカバーをつけただけで読んでいないので、新品同様だと思いますが……Mゾウさん、新刊も買ってくれる予定でしたよね?」
「当然です。真っ先に買ってレビューしようと思っていました」
 微笑を浮かべる彼女に、竜蔵は即答する。
 リップサービスでも何でもなく、本心からの言葉だった。タイトルを見た時点で性癖を満たしてくれるものであることがわかっているので、読む前から楽しみにしていた作品である。買わないという選択肢があるはずがない。
 竜蔵が注文したケーキとドリンクバーをあわせた金額は五百円で収まる。どちらかと言えば官能小説のほうがもう少し値段が高いので、奢ってもらうよりは本をもらったほうが得になる。
「で、でも、本当に頂いていいんですか?」
「献本は出版社のほうから何冊か送られてくるので、むしろ余って困るくらいなんですよ。小説を書いていることは、周囲にもあまり知られていないもので」
 アダルト関係の仕事をしていることを親族に秘密にしている作家もいるというのは、竜蔵も知らないわけではない。男性作家でさえそうなのだから、女性作家である熊倉はなおさらだろう。
 だったら、献本を持て余しているというのは信憑性がある。彼女の言い分を信じるならば、この本を竜蔵が受け取ることは、双方にとってメリットしかない。
 しかしながら、一読者でしかない自分が作家個人から本を受け取っていいものか。しかもこれは発売前の小説で、早売りをしている店舗でもまだ売られていないものだ。それを一足早く手に入れてしまうのは卑怯なのではないか……と、竜蔵は思う。
 熊倉はちらりと視線を横にずらすと、テーブルの上から本を持ち上げて葛藤している竜蔵の目の前にそれを置く。
「頼んだ物が来るようです。隠してください」
 竜蔵が振り返ると、先ほどのウェイトレスがカートを押して歩いていくるのが見えた。
 もしこのまま本を出したままにしていればどうなるか。ジュブナイルポルノの表紙は、一見すると一般的なライトノベルと区別が付かないものもあるが、それに比べて露出度の高いものが多い。今テーブルの上にある「俺がドSのクラス委員長に催眠術で完堕ちさせられて竿奴隷になったことが幼馴染にバレて修羅場になった件」の場合、胸の露出したレザースーツを身に着けた眼鏡委員長が全裸の男に取り付けられた首輪に取り付けられた鎖を持って足蹴にしているイラストが表紙に描かれており、誰がどう見てもアダルトだ。
 そんなものがウェイトレスの目に触れるのはまずい。官能小説を常日頃から読んでいる竜蔵ではあるが、人前でそれを大っぴらにするのがおかしいことくらいは知っている。ウェイトレスがすぐ近くまで迫ると、もはや迷っている暇はなく、彼はテーブルに置かれていた本をすばやく自分のカバンの中に滑り込ませた。
「ご注文の品をお持ちしました」
ジェラートは私です。ケーキはあちらに」
 まだ動悸が収まらない竜蔵とは対照的に、熊倉は涼しい顔でウェイトレスに対応する。
「ご注文の品は以上でよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
 伝票を置いて去っていくウェイトレスは、挙動不審になっている竜蔵はともかく、涼しい顔の彼女を見て今までここに官能小説があったとは思わないだろう。完全にウェイトレスが去ってから、熊倉は「もうあげちゃいましたから、返されても困りますよ」と、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。


 ケーキを食べ終えてしばらくしてから、竜蔵はこのような質問をした。
「催眠術って、実際にはどのくらい効果があるんですか?」
 官能小説を愛読している竜蔵であるが、小説に書かれていることがすべて真実ではないとは理解している。例えば電車での痴漢をテーマにした小説などがあるが、登場人物がどれほど激しく行為に及んでも――挿入にまで至る場合が多いのだが――周囲の客がそれに気が付かないことがある。
 他のジャンルでも多かれ少なかれ誇張があるが、そのことについてリアルではないと否定するのではなく、フィクションの中ではそういうものだと自分の中で理解している。
 ホットコーヒーを飲んでいた熊倉は、竜蔵の言葉を聞くとカップを置き、こう答えた。
「実際に試してみましょうか」
 その結果、熊倉は竜蔵の正面から真横の席に移動し、そこから囁きかけてくることになった。
「まずは目を閉じて、心を落ち着けましょう。緊張しないで、リラックスしてください。リラックス……リラックス……」
 吐息交じりの声に、胸がドキリとする。竜蔵に比べて彼女は年上ではあるが、まだ二十台半ばといったところで、十分に魅力的な存在である。そもそも官能小説を読んでいる竜蔵にとっては、同年代よりも性を意識させられる年齢だ。
 そんな女性が、まるで恋人同士のような距離で囁きかけてくる。店内なのであまり大きな声が出せないからこうしているだけで、彼女には決して他意がないのは理解している。しかし、目を閉じて心を落ち着けようとしても、しっとりとした吐息を耳に感じると雑念が込みあがるのを抑えられない。
「はい、大きく息を吸って、大きく息を吐き出します……。吸って……吐いて……」
 熊倉の言葉に従って呼吸をする。
 催眠術の深呼吸には、もちろん気分をリラックスさせる効果があるのだが、それと同時に脳の酸素を減らすという目的もある。吸い込んだ以上の息を吐き出せば、その分だけ体の中から酸素が失われ、脳が酸欠状態になって機能が鈍る。催眠術をかける者は、そのことを意識して、吸う時間よりも吐く時間のほうを長めにしているそうだ。
 人体がそれほど単純な作りをしているわけではないが、仕組みとしてはそういうことになっている。少なくとも、夢枕緊縛の小説の中では。
「他の事を考えずに、呼吸だけに意識を集中しましょう。吸って……吐いて……」
 見透かされているかのような言葉にドキリとしながらも、竜蔵は声に従って呼吸を続ける。
「吸う時はきれいな空気を吸い込んで、吐く時は体の中にある汚れた空気を吐き出します。吸って……吐いて……」
 きらきらとした空気を吸い込み、うっすらと黒くにごった空気を吐き出す。
 言われるままに呼吸をしながら、彼は今まで読んできた夢枕緊縛著の催眠小説を思い出す。催眠術には様々なかけ方があるが、深呼吸というのはその中でもメジャーな方法の一つだ。気分が落ち着いていくのと同時に、酸欠により思考力が落ちていく。そこでうまく暗示を滑り込ませれば、人の精神は掌握できる。
「息を吐くたびに、足の力が抜けていきます。はい、吸って……吐いて……」
 官能小説で興味を持って、催眠音声というものを聞いたことがある。これは音声を聞きながら指示に従うことにより自分自身に催眠術をかけるというもので、インターネットで配布されている。有料で販売されているものもあるが、無料でも手に入るものが多い。
「力が抜けると、足の感覚がなくなって、動かなくなります。吸って……吐いて……」
 催眠音声ではうまく催眠術にかかれなかったが、実際に試してから熊倉の小説を読み、作中のキャラクターと同じように深呼吸をしていると、より作品を集中して読むことはできた。母親に食事の時間を告げられても気づかず、危うく官能小説を読んでいる状況で部屋に踏み込まれそうになったこともある。
「これで、あなたの体から足と腕がなくなってしまいました。次はおなかから力が抜けていきます。吸って……吐いて……」
 思えばあの時も、催眠状態にあったのだろう。催眠術というのはテレビ番組などでショーとして行われているようなものだけでなく、集中力が上がるとか、そういう地味なものもある。であるならば、小説を読みながら、すでに催眠術にかかっていたことがあったのだ。
「イメージしてください。あなたは今、真っ暗な世界にいます。上も下も前も後ろも全て真っ黒で何もありません。あなたはただ、その空間に浮かんでいます」
 広くて暗い空間にふわふわと浮かんでいた。自分自身の存在もおぼろげで、意識だけが宙に浮かんだような状態だ。
「もっと深く降りていくため、階段を作りましょう。あなたの周りに、きらきらした星が生まれます。そして、その星はあなたの足下に移動して、光の板になります。一枚だけではありません。あなたの目の前から、下へ下へと続く、螺旋階段ができました」
 真っ暗な空間に光の螺旋階段がある。くるくると下に続く階段を見下ろすと、どこかに吸い込まれていきそうだ。
「では、その階段を私と一緒に降りていきます。一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりと降りていきましょう。あせらないで、私の指示した通りに足を踏み出してください。それでは一……二……三……四……五……」
 光の階段を、声と共に下っていく。足を進めるたびに、意識が徐々に深いところに潜っていく。
「あなたが一歩踏み出すたびに、階段はぼんやりと光ります。六……七……八……九……十……」
 ネオン管のように柔らかく照らす階段を、一歩ずつ降りていく。
「十一……十二……十三……十四……十五……」
 意識が声と足下だけに集中する。一歩踏み出すたびに、どんどん視界が狭まっていく。
「もう少し、私について来てくださいね。十六……十七……十八……十九……」
 とうとう階段の終わりが見えた。残る段は一つ。
「あと一段まで降りて来ました。あと一歩踏み出せば最後の段ですが、よく見てください。他の段とは違って、それは空間に固定されていません。ふわふわと宙に浮かんでいてます」
 最後の段は、空中に浮かんでおり、どことなく頼りない。
「この段はあなたの体を支えることはできません。一歩踏み出せば、あなたはそのまま落ちて行きます」
 階段の下にはさらに深い闇がある。底は見えず、ただずっと真っ暗な空間が続いている。
「ですが、怖がらなくていいですよ。どれだけあなたが落ちても、私がずっと着いていきます。どこまで落ちても、あなたは一人にはなりません」
 声の存在を意識すると、不思議と恐怖は消える。
「さあ、それでは最後の一歩を踏み出しましょう。用意はいいですか? …………………………二十」
 声に従い、最後の段に両足を乗せる。
「ぐらぐらと段が揺れ始める。空間から外れるのはその段だけではありません、階段そのものがバラバラに崩れ、あなたと一緒に落ちます」
 きらきらと砕け散った光の中、ただ落ちていく。真っ暗な世界、そこに飲み込まれていく。
「落ちれば落ちるほど、頭が重くなる。頭が重い。体が重い。全身が重い」
 がっくりと首が曲がる。体の中身が、体からずれて沈んでいくような感覚。
「真っ暗な世界に飲まれて、もう何も考えられなくなる。眠い。何も考えられない。意識を保っているのがつらい」
 徐々に自分自身の存在が薄くなっていくような感覚。体が霧になって、そのまま説けていくような感覚に包み込まれる。
「闇の底が見えます。その場所に行けば、もうあなたはなくなってしまいます。でも怖がらないで大丈夫。あなたと一緒に、どこまでも落ちていきますから」
 不意に心が温かくなる。こたつの中でうたた寝をするような、妙な安心感に包まれる。もう何がなんだかわからない。
「それじゃあ――おやすみなさい」
 スイッチを切るように、竜蔵の意識が切れた。

 熊倉はぎっしりと詰まった中からティーバッグを取り出し、マグカップに入れると、ドリンクバーに設置されているマシンにセットしてボタンを押す。そういう機械はボタンを押してからお湯が出るまで時間があるので、熊倉は近くに用意されているスティックシュガーやスプーンを取り、マシンの前で少し時間をつぶしてからカップを持ってテーブルに戻ってくる。
「あら、お目覚めですか」
 正面の席に座った熊倉は、スティックシュガーの一片をちぎってマグカップに砂糖を入れると、スプーンを使ってゆっくりとした動きでかき混ぜる。
 どうやら眠ってしまったらしい。二人で食事をしていて寝入ってしまうとはさすがに失礼だ。何か謝罪の言葉を述べようとするが、うまく言葉が出てこない。
「ふふっ、いい具合のようですね」
 熊倉は目を細め、うっすらと口角を上げる。
 その表情と、状況に、底知れぬものを感じる。
「気が付きましたか? 初対面の相手といる時に眠ってしまうなんて、本当に不用心ですよ」
 腕が動かない。いや、腕だけではない。体が全く動かない。
 紐のようなもので椅子に縛り付けられているようだ。手も足も、いくら動かそうとしてもびくともしない。助けを呼ぼうとするが何かで口を塞がれているのか声も出せない。
「安心してください。何か盗ったりするつもりはありませんよ」
 その言葉には嘘がなさそうだと、理由もなくはっきりと信じられる。そもそも盗っていくつもりなら起きるまで待つ必要などない。
「さて、それでは私はもう少し何か注文しますね」
 というと、熊倉はウェイトレスを呼ぶためのスイッチを手元に寄せる。
 途端、ぞくり、とする。
「思い出したようですね」


 ――今からローターを取り付けます――


「では押しますよ」
 ピンポン――
 間の抜けた音が店内に鳴り響いた瞬間、肛門のあたりがぶるぶると振動する。
 そう、そこに取り付けられたローターは、このチャイムの音に反応してスイッチが入るようになっている。今まで肛門を刺激した経験はない。未知の快楽が全身を駆け抜ける。
「お待たせしました」
「プリンとティラミスのセットをお願いします。以上で」
「かしこまりました」
 最低限の言葉で追加の注文を終えた熊倉に、ウェイトレスは端末の操作を終えるとすぐに立ち去ってしまう。
 このテーブルで起きている異変には、全く気が付かない。
 それから程なくして振動は止まる。音に反応してスイッチが入ったからといって振動し続けるのではなく、数秒で止まるようになっているのだ。
 大きく安堵の息を吐く。もしこんな公共の場で、肛門にローターを当てるようなプレイをしているなどと知られたら、二度とこの店に入ることができない。いや、それで済めばまだいい方だ。さすがに警察に突き出されることはないだろうが、もし学校に伝わるようなことがあって、それが他の生徒に知られたら……
 呼吸が荒くなる。動悸が速くなる。
「興奮しているんですか?」
 これは、興奮なのか。社会的に抹殺され、まともに生きていけなくなる状況を想像し、興奮しているというのか。
 そんなの、とんでもない――変態ではないか。
「そんな顔されたら、また押したくなりますよ」
 妖艶な笑みを浮かべ、熊倉はスイッチを両手の中にすっぽりと包んでもてあそぶ。指がスイッチに添えられるのを見るたびに、鼓動が早くなる。
 まるで、スイッチを押し込むことなく、ただ触るだけでも効果があるかのように。
「でも、私はしばらく押しませんよ。今注文したばかりなのに、さすがにまた押したら怪しまれてしまうでしょう?」
 というと、熊倉はスイッチから手を離し、テーブルの隅に置く。これでローターが振動することはない。ほっと息を吐き出す。
 ちょうどそのタイミングでウェイトレスが来て、熊倉の前にデザートの入った皿を置き、立ち去る。やはりこのテーブルで行われていることには気が付かない様子だ。
「ここ、値段が安いわりに美味しいんですよね」
 無邪気な表情でデザートを食べる熊倉の顔は、先ほどまでの淫靡なものとは違い、どこか幼く見える。甘い物が好きなのだろうか。
「ところで、気付いていますか?」
 熊倉は手に持ったフォークを空中でクルクルと回す。
 フォークはまずテーブルの端に置かれたスイッチに向けられ、それから周囲のテーブルを示す。
 いつの間にか満席になっている、店内を。
「私はスイッチを押しませんが、他のお客さんはどうでしょうね」
 次に熊倉が示したのは、メニューに目を落とし、楽しそうに雑談をしているカップルのいるテーブル。そのテーブルには水の入ったグラスしかない。ということは――
「そろそろ夕飯を食べるような時間です。これから注文しそうなテーブルは、他にいくつもありますよ」
 ピンポン――
 言い終わるや否や、店内に音が鳴り響き、全身に電流が駆け抜ける。
 またスイッチが入って振動を始めてしまった。脂汗が出る。しゃべることはできないが、小さなうめき声だけは漏れる。
 ピンポン――
 止まる前に再び音が聞こえた。振動は強さを増す。
 今まで肛門を開発したことはないが、素質があったのだろうか。今までの人生で味わったことのないほどの快楽が全身を包み込む。
 このままではどうにかなってしまう。
「お尻で感じるなんて、変態ですね」
 スプーンを口に運びながら、熊倉は楽しそうに笑う。
「でも、それだけでイキたくないでしょう?」
 というと、熊倉はバッグの中に手を入れて、何かを取り出してテーブルに置いた。
 な――
 それは、よく見慣れたものだった。長さは十から二十センチほどで、棒状の――怒張した男性器だ。ディルドやバイブレーターではない、男性器そのものだ。
 うっとりとしたような笑みを浮かべ、熊倉がそれを撫でる。
「――っ!」
 股間に電撃が走る。それだけで射精してしまいそうな快感だ。
 ガクガクと体が震える。汗が頬を伝って顎からテーブルに落ちる。
「触れただけなのに、そんな風になってしまうんですね」
 熊倉は目を丸くしたまま、指先で男性器をなぞる。ビリビリとした痺れが股間に走る。
「くっ――うっ――!」
 自慰をしたことはあるが、他人からの刺激を受けたことはなかった。触れられているだけだというのに、信じられないほどの快楽に襲われる。気持ちいい。もう他の事が何も考えられなくなる。
「声が出てしまっているようですね……気付かれないように、早く終わらせてあげましょうか」
 というと、熊倉は男性器の軸の部分を握って持ち上げると、先端の方を顔に近づける。
「口でして欲しいですか?」
 その言葉と表情にゾクリとする。熊倉はチロリと舌を出し、上唇を舐めて見せる。
 それだけで腰が砕けてしまいそうになる。
「残念ですが、手だけでイクところを見せてくださいね」
 言いながら熊倉は逆の手で亀頭のほうを包み込むと、手のひらを押しつけ、まるでペットボトルの蓋でも開けるような動きで手首をぐいぐいと回す。
 自慰の経験はあっても、そういうタイプの動きで刺激したことはなかった。未知の感覚だ。
「……」
 熊倉はじっと顔を見つめながら、亀頭を覆っていた手を軸の方に持ち変えると、素早く上下にこすり始める。
「ぅ――くぅ――」
 なじみのある刺激が股間に押し寄せる。だが、自分で触った時に比べると、その快楽は比較できないほど強い。
「ふぅ――ぅ――」
 声が漏れるたび、熊倉は目を細めつつ、手の動きを早める。それと共に快楽が加速していく。全身の感覚が腰のあたりに集中し、徐々に一点に集まっていく。
「出しちゃえ」
 弾けた。
「あ――」
 怒張しきっていた股間が爆発する。腰のあたりから生じたスパークが膨らみ、全身を真っ白な光が覆い尽くす。
 ガクガクと体が震える。何も考えられない。股間は壊れた水道のように精液を発射し続ける。
「……」
 熊倉は熱っぽい目を向けている。眼鏡の奥から、じっとりとした目を向け、うっすらと開いた口から荒い呼吸をしている。
 手を、動かしたまま。
 快楽は続いている。体の中の液体が全て精液になって股間から出て行くような感覚。頭がぼうっとする。体が溶けて流れていく。
 やがて視界が真っ白になり――再び意識を失った。

「戻りました」
「あ……はい」
 トイレから戻った竜蔵に、熊倉は少し気まずそうに応える。
「……」
「……」
 席に座って向かい合うが、言葉がない。何を話せばいいのかわからなくなってしまった。
「ええと……どうでしたか?」
 やがて、熊倉が控えめな声で質問を口にする。竜蔵は心情を読もうと視線を向けるが熊倉はわずかに目をそらしていて、何を考えているかわからない。
 しばらく躊躇してから、竜蔵は口を開く。
「気持ちよかったです……すごく」
 先ほどまでの体験は、熊倉がかけた催眠術によるものだ。
 肛門にローターなど当てられていないし、男性器だって股間についたままだ。熊倉の前には、食事に使用されていない割り箸が置かれていて、それが先ほどまで竜蔵には「自分自身の性器」として見えていたものの正体だ。
 椅子に縛り付けられてもいなかった。竜蔵はただ催眠術により「そういう状態になっている」と思いこまされていただけで、強すぎる快楽に襲われて声が漏れてしまったのも、本当は口が何にも塞がれていなかったからだ。
 暗示により竜蔵は、射精にまで導かれたのだ。指一本触れられることなく。声の力だけで。
 結果、トランクスの中で大量の精液を発射してしまい、しばらくトイレに籠もって後始末をする羽目になった。熊倉もそのことを知っているわけで、気まずさはそれが理由だ。
「それでは、そろそろ出ましょうか」
 微妙な空気のまま、席を立つ熊倉と共に竜蔵も荷物をまとめ立ち上がる。会計は予定した通り別々に済ませ、外に出る。
「……」
 駅に向かって歩く間、熊倉は無言だった。話しかけづらい空気に竜蔵も口を開くことはできない。
 ファミレスの客席で着衣のまま射精した人間と、長く一緒にいたい者がいるとは思いづらい。いくらそうしたのが熊倉本人であったとしても、だ。
 そう考えると、竜蔵は何とも言えない気分になる。ファンである作家に会えて楽しかったのに、どん底まで落ちてしまう。
 熊倉とは電車が逆方向らしい。竜蔵のほうが先に到着するので、一緒に待っているが、その間も最低限の会話しかできない。
 しばらくして電車が到着し、竜蔵は乗り込む。
「あの……」
 掠れたような声を出して、熊倉がそれまで伏せていた顔を上げる。
 熊倉の顔は、真っ赤に染まっていて、目が泳いでいた。
「来月もあるんですよ、献本」
 ドアが閉まる。
「え?」
 どういう意味だったのか、聞き返す前に電車が動き出し、熊倉の姿はすぐに見えなくなってしまう。
 それから数分、電車のドアの前でぼうっとしてから、竜蔵は空いていた椅子に座ると何気なしに携帯を開く。
 ツイッターを見ると、熊倉からのDMがあった。
”口数が少なくなってごめんなさい。冷静になったらなんだか恥ずかしくなってしまいました。パンツを汚させてしまってすいません”
 熊倉が黙り込んでいた理由がわかって安堵する。気持ち悪いとか、そういう風には思われていたわけではないようだ。
 それからもう一件、DMが来ていた。
”次回の献本は一ヶ月後です。その時には、パンツを汚さないようにコンドームを用意してきてくださいね。あなたには催眠術にかかりやすくなるキーワードをセットしておきましたから、次回はさらにかかりやすいはずですよ”
 またあの快楽を味わうことができる。そう思っただけで、先ほどあれだけ射精したばかりだというのに、股間が堅くなるのを竜蔵は感じていた。

 それから、定期的に竜蔵は熊倉と会うことになった。
 熊倉はいくつかのレーベルで一ヶ月か二ヶ月おきに執筆しており、そのたびに献本が出版社から送られてくる。しかし会うのはそれだけではなく「新作の取材」として竜蔵の体で催眠術の実験をすることになった。
「こんなに深くかかる人は初めてなんですよ」
 ある時、熊倉はそう言った。今までに何人かかけたことがあるそうだが、さすがに手を触れることなく射精までしてしまうというのは特異な例らしい。
 そして「取材」は本当に小説に活かされることになった。竜蔵が夢枕緊縛の小説を読んでいると、実際に自分が射精させられた時の様子がそのまま描かれているシーンを見つけることがあった。そのたびに、催眠術にかけられた時のことを思い出してしまい、冷静には読めなくなってしまう。そもそも夢枕緊縛の名前を見ただけで、股間が反応して、他の小説より興奮してしまうのだ。
 そんな弊害はあったものの、概ねいい関係を築いていたはずなのだが、ある日事件が起きた。
「Mゾウの官能部屋はステマブログ」
 ある日、そんなコメントが竜蔵のブログに書き込まれた。官能小説に興味のないものは見ないような規模の小さいブログで閲覧数も多くなかったせいかそれまで荒らしというものには馴染みがなかったので、竜蔵は「珍しいなあ」と思っただけでそのコメントを消してしまった。
 それが全ての始まりだった。
「Mゾウは出版社から金をもらってレビューしている」
「作家が自分を褒めさせるために作ったブログ」
「そもそも管理人はある作家らしい」
 コメント欄だけでなく、匿名掲示板やツイッターなども含めてありもしない誹謗中傷をされるようになった。妙なアンチに粘着されてしまったなと思いながらも、実害はないので放置をしていた。熊倉も「作家もそういうことあるんですよ」とうんざりした顔で言っていたので、あまり気にしないことにしていた。
 しかしある日のこと、こんなコメントがあった。
「Y枕は女でMはその催眠奴隷」
 それを見た瞬間、竜蔵は心臓を鷲づかみにされたような気分になった。
 催眠奴隷という言葉はともかく、竜蔵が夢枕緊縛――熊倉から催眠術をかけられて快楽を得ていることは本当だった。それに、夢枕緊縛の性別が女だというのは、今までネット上のどこにも書かれたことはない。
 知っているとすれば、熊倉の近しい存在――親族には隠しているそうなので、出版社の人間や同業者など――と、竜蔵だけだ。
 さすがにこれは問題である。すぐに熊倉と連絡を取り合い、いつものファミレスで会うことになった。
「私の性別について、Mゾウさんがバラしたものではないと、私は思っています」
 真っ先に熊倉がそう口にした。
 全く疑っていない、と意思表示をされて竜蔵の気持ちは軽くなる。
「信じてくれるんですか」
「ええ。だって、するはずがないでしょう?」
 当然のことだと言わんばかりに熊倉が微笑を浮かべる。
「私が女だと知っている者はあまり多くありませんが、完全に隠し切れているとは思っていません。どこかから漏れて、私が把握していないところで、知っている人もいるでしょう」
「でも催眠奴隷と言うのは、一体」
「あー……」
 気まずそうに、熊倉は顔を背けた。
 何かあると熊倉は視線を合わせなくなる。恥ずかしいとか、言いにくいことがあるとか、理由は様々だがそういうことがこれまでにもあった。
「ええと、熊倉さん?」
「ごめんなさい。相手がMゾウさんだとは言っていないはずなんですが、催眠術の取材をしてるっていうのは、けっこうしゃべっちゃってます」
「……まじですか」
「すいません」
 本当にすまなそうに頭をさげる。
「いや、まあ、それ自体は別にかまいませんよ」
「みんなに知られると興奮しますか?」
「あ、別にそういうのはないです」
「……ですよね」
 ともかく。
 今回の話で、情報が漏れた可能性が高いのはどちらかというと熊倉の側で、竜蔵のせいではないだろう――という結論になった。
 しかし、現状を確認したからといって、それで事態が解決するわけではない。粘着するアンチはいなくならないし、いつの間にか「ステマゾブログを潰すスレ」などというスレッドが匿名掲示板などに立てられ、まとめのwikiが作られたり、一部の「お祭り好き」なまとめサイトからもバッシングを受けることになった。
 熊倉の性別と「催眠奴隷」の書き込みをきっかけに、誹謗中傷に真実が混じり始めることになった。
 献本をもらっているとか、実は未成年であるとか。犯人は特定できないが、近しい人間であることは明らかだった。デマの中に混じって信じている者がそれほど多くなさそうなのは救いだった。
 本来のアクセス数から数倍、数十倍、数百倍になったが、それがいいことではないのは竜蔵も理解していた。その証拠に、コメント欄にはデマを鵜呑みにした書き込みと擁護をする発言があふれ、それらが喧嘩を始めてしまい、記事の感想などは見えなくなった。
 そんな状況が続き、竜蔵は我慢ができなくなってしまった。
 僕はただ、官能小説の良さを、世間に広めたかっただけなのに。
 竜蔵はその思いを胸に、一つの記事を書き始めた。
 竜蔵は熊倉と出会い、催眠術をかけられ、炎上するまでの顛末を、包み隠さず克明に文章にした。熊倉の性別は既にバレきってしまっていたので、それすらも気にしないで書いた。そして熊倉の許可を取ることもなく、ブログにアップロードした。
 今までは淡々と官能小説の感想だけしか書かなかったブログで、それは始めての、レビュー以外の記事だった。
『これはステマですか?』
 記事のタイトルは、竜蔵の心の叫びだった。
 そして、竜蔵は全てを放り出して、ブログの更新を休止した。

「どうも、お久しぶりです」
 竜蔵が椅子に座りながら声をかけると、熊倉は読んでいた本から顔を上げる。
「久しぶり……って言うほどでしたっけ」
「一ヶ月ですね」
「もうそんなになりますっけ。締め切りが重なっていたせいで、時間の間隔がおかしくなってました」
 そう言う熊倉の目の下には、うっすらとクマができていた。
「お疲れのようですね」
「あれ、隠れてませんか?」
「残念ながら、はい」
「あんまり見ないでください。恥ずかしいんですから」
 熊倉は拗ねたように頬を膨らませる。
「顔を見たら駄目ですか?」
「駄目です。そんな意地悪をするなら、これ、あげませんよ」
 熊倉はふくれっ面のまま、テーブルに置いてあった紙袋を椅子におろす。
「すいません。仰せのままにします」
「わかればいいんですよ」
 熊倉は紙袋を重そうに持ち上げると、テーブルの上に置いて竜蔵の方に押しつけた。
 その中には、十冊ほどの文庫本が入っている。
「助かります」
 それは熊倉が出版社から渡された献本だ。ただし、その宛先は熊倉ではない。
「いえいえ、こちらこそ。Mゾウさんにレビューをしてもらえると、今まで興味を持っていなかった人にも知ってもらえて嬉しい、って言ってます」
 出版社は、熊倉を通して、竜蔵――Mゾウの官能部屋に献本を送ることになった。いくつかの出版社の編集者は、例のステマ騒動を通して事情を知って「じゃあうちの新刊全部あげてよ」などと言い出した。
 とはいえ、無料で献本を渡したのだから褒めろなどとは言われていない。不正をするとまた変なふうに炎上するというのは編集者もわかっていて「思った通りに書いて欲しい」という意向だったし、竜蔵もそうするつもりだった。
 Mゾウの官能部屋は、しばらくの休止期間はあったものの、見事に復活をとげている。
 休止している期間にMゾウの官能部屋にとって変わろうといくつかの官能小説レビューサイトができたものの、基本的にはどれも長続きしなかった。そのうち一つは妙にレビューが偏っていて、とある出版社の編集者が自分の抱えている作家だけを売るため、他の作家を意図的にけなす内容だったということが判明したこともあって――話題がそっちの方に流れていってしまったのもある。というか今でもそっちは延焼を続けている。
 そんなこんなで、公平かつ生真面目に更新をしていた竜蔵に復活して欲しいという意見が集まって、めでたく再開となったわけである。炎上していた頃の異常なアクセス数はなくなったが、炎上前に比べて知名度は増している。
 献本をもらっていることはブログにも明言している。そのことで批判的な意見もあったが、まじめに更新を続けるとそういう批判もなくなった。
 出版社から献本をもらうようになってアルバイトをする必要がなくなり、官能小説を読んだりレビューを書いたりする時間が増え、むしろ休止前より質が上がったと言われるほどだ。
 なお、休止前に書いた記事であるが「うらやましい」「それなんてエロ小説」「夢枕緊縛萌え」「妄想乙」などと言ったコメントが集まった。世間的には、概ね好評な記事になった。
 しかし、不満を持つ者もいる。
「次回の本、女教師と男子生徒モノになりました」
「またですか」
「誰のせいだと思ってるんですか」
 熊倉は口を尖らせている。
 例の記事のせいで、夢枕緊縛には「S女M男」「おねショタ」といった方向性の作品が求められるようになった。他の作品を書かないこともないが、そういう作品は売り上げが倍近くになるらしく、編集者も売れるものを書いてくれた方がありがたいわけだ。
「あれ?」
 紙袋の中の文庫本をチェックしていた竜蔵は声を漏らす。
 夢枕緊縛の本が入っていない。
「それもこれも、全て、あなたのせいなんですよ」
「……何のことですか?」
「その巻からペンネームが変わりました」
「え?」
「新しいペンネームは『睡蓮眠姫』です」
「あー」
 あからさまに女性的だし、もう「催眠モノを書け」と言わんばかりのペンネームだ。
「眠姫はヒプノクイーンと読みます」
「キラキラネームですか」
「そんなことより」
 ため息をつくと、熊倉はスマートフォンを取り出した。
「今日は新しい方法を試しましょう。これを見てもらえますか?」
 そこに映し出されたのは、白と黒の渦巻きがグルグルと回っている映像だ。
「これはヒプノディスクと言って、見ているだけで催眠導入ができるというものです。集中して見てくださいね」
 言いながら熊倉は竜蔵の横の椅子に移動する。
 ふわりといい匂いが鼻をくすぐる。もう何度もこういう位置関係になっているが、慣れるものではない。
 しかしそれもわずかな時間。もう何度も催眠術にかけられた竜蔵は、かなり催眠術にかかりやすい状態になっているらしい。このタイプの催眠導入は初めてだというのに、意識がその映像だけに集中していく。
「そういえば、次からキーワードを変えようかな……」
 熊倉がつぶやく。竜蔵にはあるキーワードがセットされている。見たり聞いたりするだけで、一気に催眠にかかりやすくなる効果がある。
 映像を見ていると意識がぼうっとしてくる。そこで、熊倉は耳元に口を寄せる。キーワードを言うためだろう。このヒプノディスクに集中している状態なら、すぐに意識が落ちるはずだ。
 そして、しっとりとした唇から、キーワードが漏れた。
「夢枕緊縛」
 と。