今日の長門有希SS

「いやあ、寒いですね」
 食事をしていると、そんな言葉が耳に入ってきた。カウンターの中にいる店員が、俺たちから少し離れた位置に座る客に話しかけている。
「そうですねえ、今日は特に寒い」
「風邪とか引いてないです?」
「軽く引いちゃいました」
「温かくして寝た方がいいですよ」
 黙々と箸を動かしながら、会話に耳を傾ける。客と店員のどうでもいい会話を。
 横目で見る。まあ、声でわかっていたことだが、店員の方はそれほど若くない女性だ。客と話している様子を見ると看板娘という言葉が浮かぶが、そう呼ぶにはちょっと年を召している。
 ああいった感じの店員は、こういう店には珍しい。会話は風邪を引いた時の食事をどうするかといった内容になっていて、何を食べればいいとか、この薬がいいとか、聞くつもりがなくても耳に入ってくる。話の信憑性はわからないし、あまり風邪を引かないので、その知識は活用される前に忘れ去られてしまいそうだ。
ごちそうさん。また来るよ」
 やがてその客が帰ると、自然に会話はうち切られる。話し声はなくなり、店内には有線放送の音楽が流れる。
 そもそも、あまり会話をするタイプの店ではない。食べて帰る。それだけの店だ。
 だから、ああして客に話しかけるような店員は珍しい。俺がつい目をやってしまったのも、そういう理由からだ。
「……」
 横を見ると、長門も黙々と手を動かしている。箸を使って口にかきこみ、湯飲みに手を付ける。寒くなってきて、飲食店では水よりお茶が出ることが増えたような気がする。
「お客さんたち、アベック?」
 店員がにこやかな笑みを浮かべて、俺たちに話しかけてきた。
 アベック。一瞬わかりかねたが、それが今はあまり使われなくなった死語で「カップル」と同じ意味の言葉であることに思い至る。
「ええ、まあ」
「やっぱりねえ。お客さんたち、仲がよさそうだから」
「はは」
 曖昧に笑う。
 まあ、こうして二人で飲食店にやってきて、並んで食事をしているのだ。仲が悪いはずはない。
 知らない者と会話するのが苦手というわけではないが、なんとなく距離感を測りかねていた。会話しているのは俺たちだけで、他の客は無言で食べている。話に乗って長々と話してしまうと、なんとなく場の空気を壊してしまうように思えた。
 いや、空気がどうのというほどの店でもないのだが。
「お兄ちゃん、かっこいいわねえ。何かサービスしたくなっちゃう」
「いらない」
 答えたのは俺ではなく、長門だった。既に食事を終えた長門は、揃えた箸を器の上に置き、テーブルの下で俺の服の裾を引っ張る。
「待ってくれ、まだ残ってるんだ」
「早く」
 別に機嫌を損ねるようなことではなかったと思うのだが、長門は俺の服を引くことで無言の主張をする。丼を傾けて箸で残っていたものを口に入れ、お茶を飲んで流し込んだ。
ごちそうさんです」
 そう言って席を立つ。店を出ていく俺たちを、店員は柔和な笑みを浮かべて見送った。
「ああいう店員は珍しいよな」
「あなたを誘惑するような?」
「違う」
 母親と同年代の女性など守備範囲外だし、そもそも俺には長門がいるので、若い女性店員に誘惑されてもどうでもいいことだ。
「そう」
「しかし……本当に珍しかったな」
 客と店員が雑談をする店、か。個人経営の飲食店ではよくあることで、それが常連客を生んでいる場合もある。その場合、客は店の料理だけでなく、店長や店員と話すこともまた楽しみとなっている。顔を覚えてもらったり、注文しなくても料理が出てくるようになるのが喜びであるということもありうる。
 店長が面白い、若い看板娘と話したい、そう言う同機が常連客を生み出すこともある。
 しかし、先ほどの店はどうだろう。俺は振り返り、店を確認する。
 ガラス張りで、カウンター式の店。出てくる料理は牛丼が中心……要するにチェーンの牛丼屋である。店員を目当てにするような類の店ではない。どちらかといえば、味より値段で選択されるような店だ。
「ああいう店員がいると、他よりは常連客が増えるのかね」
「わたしはわざわざ狙って行きたいとは思わない」
 まあ、店員が話しているのを聞いていると、なんとなく変な感じがしたしな。牛丼屋と、ああした会話はマッチしていないのだろう。
 牛丼屋ってのは、もっと殺伐としてるべきだ。
「殺伐とする必要はない」
「そうか」