中華飯店

 近所の路地に小さな中華飯店がある。日本人にはありふれた名字をそのままつけたらしき店名は、中華飯店という言葉と妙にミスマッチだ。
 看板の横に自転車を停めてのれんをくぐった。小さい店内にはテーブル席と、カウンター席が10個ほど。先にいた客はテーブル席を占める二人だけ。
 壁にはお札のように大量のメニューが貼られている。元々は白かったであろうそれは、すっかり黄ばんでしまっていた。
「ラーメン」
 カウンター席に座りながら注文する。
「はい」
 声が返ってくる。そこで俺が「あれ」と思ってカウンターの中に視線を向けると、中年の女性が中華鍋を振るっていた。
 以前、この店に訪れた時は確か、中年の男が料理を作っていたはずだ。今日は休んでいるのだろうか。
 前回は焼き魚定食を注文した。味は悪くなかったが、店主と常連客がブラウン管で流れるスポーツニュースを見ながら雑談している状況に、なんとなく居心地が悪かった。
 それが一年ほど前だ。
 特に安くはない料金にそこそこの味、そして店の雰囲気……決して悪いわけではないが、自分がそこの常連になることはなかった。
 再びここを訪れようと思ったきっかけはちょっとしたものだ。近所の飲食店をネットで調べている時、なんとなく思い出してこの店の名前を入力した。
 あまりネットで話題になるような店ではない。商業サイトが適当に電話帳からピックアップしたようなどうでもいい記事の中に埋もれるように、一件だけこの店をきちんと紹介しているブログがあった。
 ラーメンや焼きそばなど麺類の安くて量が多い、とのことだった。その書き込みが気になってやってくると、確かにラーメンは400円と破格だった。
「はい、ラーメンね」
 カウンターの上にトンとラーメンが置かれる。俺はそれを手元に引き寄せながら、割り箸を割った。
 中年女性はカウンターを出て、店をぐるりと回ってから俺の手元に水の入ったコップを置いた。入り口のところにセルフサービス式の給水機があったのを、この時初めて気が付いた。
「ん」
 給水機の上にあった写真立てが目に入って、思わず声が出る。中年女性は俺が漏らした声を水に対する返事と思ったらしく、何事もなかったようにカウンターに戻っていく。
 写真立てには、中年男性の写真が入っていた。一年前のことなので顔など覚えていないが、あの時の店主のものだろう。
 そうか、亡くなっていたのか。
 正直なところ大した感慨はない。美味くも不味くもない昔ながらのラーメンを食べながら、あの時に食べていたら違う味だったかな、とちょっと思う程度だ。
「ごちそうさま」
 代金を払って店を出る。
 一度だけ夕飯を食べにきた飯屋の、名前も知らぬ店主の死――
「違うな」
 看板の名前を見て俺は認識を改める。そうだ、名字だけは知っている。
 だが、それだけだ。
 自転車の鍵を外して、俺はペダルを踏んだ。
 また食べにくるかどうかは、わからない。