今日の長門有希SS

 前回の続きです。


「みくるちゃん、生麦生米生卵って三回言える?」
 放課後、例によって団長席で偉そうにふんぞり返っていたハルヒは、お茶を置いた朝比奈さんの手を掴んで引き留めるとそんなことを言った。ちなみにまだ古泉は来ておらず、手持ちぶさたな俺はそんなやりとりをぼーっと眺めている。
 また早口言葉か。今日、授業の合間にやっていたことなんてすっかり忘れていたが、ハルヒはまだ覚えていたってのか。
「ふぇ、なまむぎ……なんですかぁ?」
「早口言葉よ、知らないの?」
「すいませぇん」
 早口言葉の文句を知らなかったからと言って朝比奈さんが謝る必要などどこにもない。生麦生米生卵ってのはアイスのバニラと同じくらい定番の物ではあるが、朝比奈さんが生まれ育った時代にそれが残っているかは俺の知ったことではない。そもそも早口言葉という文化すら知っているかどうか。
「生麦生米生卵、言える?」
「ええと……なまむぎ、なまごめ……えっと」
「生卵」
「なまたまご。三回言うんですか?」
「そう。今度はもっと早く、休まないで繋げて言うのよ」
「は、はい。えっと、なま……ごめ?」
「違うわ。生麦生米生卵」
 ハルヒはがたんと椅子を鳴らして立ち上がるとホワイトボードのところに行き、マーカーで『生麦生米生卵』と大きく書いた。わざわざそんなことをしてまで早口言葉がやりたいのかお前は。
「えっと……なまむぎなまごめなまたまご、なまむぎなまごめなまたまご、なまむぎなまごめなまたまご……言えてますかぁ?」
「ちょっと遅かったけど合格ね。じゃあ、次はこれよ」
 と言うとハルヒは『東京特許ときゃ局』と書く。
 許可だっつーの。
「えっとぉ……とうきょうとっきょきょきゃきょく」
「言えてないわ。惜しいけどまだまだね」
 仮にそれを正確に読み上げたとしても失敗だと思うのだが。
「じゃあ有希は言える?」
 それまで我関せずとばかり鈍器のような分厚いハードカバーを淡々とめくっていた長門ハルヒが声をかける。呼ばれた長門は本を開いたままゆっくりと頭を持ち上げ、首を回してそちらに顔を向ける。
「東京特許ときゃ局」
「そう。三回続けて言ってみて」
「東京特許ときゃ局東京特許ときゃ局東京特許ときゃ局」
 よどみなく繰り返すと長門は頭を下げて再び本に視線を落とす。
「さすがね。みくるちゃんもあれくらいできるようにならないと、レポートとかさせられないわよ」
「ふぇ」
 ハルヒの言葉に朝比奈さんの体がびくりと震える。
 未来から来た戦うメイドさんだけでなく、そんなことまでやらせようってのか。朝比奈さんのレポーター姿は絵になりそうなので反対はしないが。


「あのう、これってどういう意味の言葉なんですか?」
 ハルヒが席を立って部室から姿を消したところで朝比奈さんが不思議そうにたずねてきた。
「早口言葉の定番ですよ」
「はぁ」
 朝比奈さんはホワイトボードに書かれた文字を交互に見ている。
「もっとも、二つ目は間違っていますけどね。正しくは『東京特許許可局』です」
「とうきょうとっきょきょきゃきゃきゃですか」
 違います。
「今日ちょっと教室でやったんですが、ハルヒは言えなかったからムキになっているんですよ」
「そうなんですかぁ」
 そこで俺は教室での出来事を説明する。
 実際にある言葉をねじ曲げて自分の言えるようにお題を変えるとは本当にハルヒらしい。
長門、別にホワイトボードに書いてある通りに言わなくてもよかったんだぞ。お前ならちゃんと言えただろ」
東京特許許可局?」
「そうだ」
「それはどういう意味?」
「どういう意味も何も、東京にあって特許を許可する局だろ」
「……」
 長門は読んでいた本を閉じて机に置いて立ち上がり、本棚からこれまた分厚い本を取りだしてぱらぱらとめくる。
 先ほどまで読んでいた本も分厚いがこれまた分厚い。まるで辞典のようだ。
「これは国語辞典」
 そうかい。
「見て」
 戻ってきた長門は、俺の前に辞典を開いて置く。
「このあたり」
 それは「と」の項目だ。東京とか言葉が並んでいるが……ん?
「ちょっと待て、ここにあるはずだろ」
 何度見返しても、そこには俺の探す言葉は見つからない。
東京特許許可局という言葉は存在しない」
「どういうことですかぁ?」
 状況がわかっていないらしく、朝比奈さんは不思議そうに俺の手元を覗き込んでいる。
 じゃああれか、ハルヒは自分が言えないからその言葉をなかったことにしたってのか? また厄介なことをやりやがったなあいつは。
「お待たせー、そこでばったり古泉くんと合流しちゃったー。ってなにやってんの?」
 ドアを開けたハルヒは、辞典を囲んでいる俺たちを見て怪訝な顔をする。
 まずい。ここでこの辞典を見せてしまえば、ハルヒに「東京特許許可局」なる言葉はないと強く認識させてしまう恐れがある。
「ちょっと調べ物があっただけだ」
「待ちなさい!」
 さりげなく閉じようとしたのだが、ハルヒがすっ飛んできて俺の手を押さえた。
キョン、証拠は押さえたわ」
「な、なんのだ」
「辞典の中のエロい単語を二人に見せてセクハラしていたんでしょ」
「してねえよ」
「じゃあ、あたしに見せなさいよ。このページにエロい言葉が一つでもあったら死刑だから」
 エロい言葉はともかく、ハルヒは辞典をじっくり見ようとしている。そしてこのページを見れば東京特許許可局という言葉がなくなっている事実に気が付いてしまう可能性がある。
「ふうん、とで始まるエロい言葉ね。ははーん、さっきの早口言葉の時に何か思い出したのかしら」
 言うとハルヒは辞典に視線を落とし、じっくりと舐め回すように見ている。押さえつけられた俺の手に息がかかるほど近い。
「あら? おかしいわね、東京特許ときゃ局がないわ」
 当たり前だ……って、ない?
「ちょっと待てよ、ないって?」
 仮に東京特許許可局が改変されたのなら、そっちの言葉は掲載されているはずだ。両方ともないってのはどういうことだ。
「ああ、みなさんで早口言葉をなさっていたんですか」
 部室の入り口でニヤケ面を浮かべていた古泉が口を開く。
「確か、東京特許許可局という行政機関は実在していないんですよね。早口言葉としてはよく使われていますが」
「なんだ、そうだったのか」
 俺は脱力して危うくハルヒに覆い被さりそうになった。長門が間違ったことを言っていたわけじゃないが、誤解してしまった。
「ちょっとキョン、何終わったみたいに溜息ついてんのよ。まだこのページにエロい単語があるかチェックが終わってないんだからね!」


 結局そこに性的な意味を持つ単語はなく、俺はすぐに解放されることになった。終わった後も気疲れでボードゲームなどする気になれず、俺は先ほどの辞典をぱらぱらと眺めながら隣で行われている朝比奈さんと古泉のオセロに時折目をやる。
「――ん?」
 思わず声を漏らしてしまった。慌てて周囲を見回すが、長門が顔を上げているだけで他に気が付いた者はいない。
「これ」
 俺は辞典をひっくり返して長門の見やすい方向にして押してやる。机の上をずるずると移動させ、俺はその部分を指差した。
「……」
 そこに視線を落としてから俺の顔を見上げ、また辞典に視線を落とす。普段あまり感情を表に出さない長門だがさすがにちょっと戸惑っているように見える。
 どうやらまだ終わっていないようだ。俺は肩を落とす。
 長門の見つめている先に掲載されている「ときゃ」という単語を消すにはどうすりゃいいのかね。