今日の長門有希SS

 菓子職人の朝は早い。
 まずはチェックから始まる。手元のメモを見ながら、戸棚から材料を取り出す。
 小麦粉、ベーキングパウダー、砂糖……このあたりは常温で保管している。続いて冷蔵庫を開け、卵と牛乳を取り出す。
 最初に粉を計量する必要がある。俺は計りにボールをのせ、その中にふるいを置いた。粉を入れるたびにデジタルの数字が上昇していき、俺は予定していた数字でぴたりと止めることに成功した。横に傾けていた袋を戻した時点で、一グラムの狂いもない。
 計量してからふるいに移す方法もあるが、こうすれば洗い物が増えない。余計な家事を増やすことは褒められたことではない。
 粉類の計量は終わった。ふるいをボールから持ち上げ、軽く振動を与える。サラサラと粉雪のようにボールに降り注ぐ。最後に固まっていた砂糖が残ったが、指で押しつぶして崩す。
 ちなみにこれはホットケーキミックスで代用することができるが、決まった分量で小分けにされたホットケーキミックスよりも自分で粉を混ぜ合わせる方が自由な量で作ることができる。もちろんホットケーキミックスも小麦粉などのように一回で使い切る必要はないのだが、あれはなんとなく使い切るもののように思えてしまう。
 ともかく、粉の準備はできた。
 新たなボールに卵を割り入れ、菜箸を使って黄身を潰し混ぜる。白身はよく混ぜなければ残ってしまうので、ここは時間をかける。ちなみに、卵を混ぜる際はボールを少し傾けるとやりやすい。
 小さな白身がなくなったところで牛乳と混ぜ、粉類が入っていたボールに入れて更に混ぜる。小麦粉は液体とあわせるとだまになってしまいがちなので、ここも念入りに混ぜる必要がある。
 大体混ざったところであらかじめ溶かしておいたバターを入れ、生地が完成だ。
 ちょっとした達成感はあるが、もちろん材料を作っただけで終わったわけではない。
 続いて卵焼き器をコンロにのせ火をつける。もちろんフライパンやホットプレートでも焼けるが今回は四角い方がいい。
 そう、忘れてはならないのはこれだ。俺は銀色の棒を取り出した。


 話は数日前にさかのぼる。
 ある休日の午後、俺たちは長門の部屋で何をすることもなく過ごしていた。長門は本を読んでいて、俺は床に転がっている。よくあることだ。
 お茶の用意だったかトイレに行くためだったかは忘れたが、立ち上がった表紙に長門の読んでいる本の中身が目に入った。
 その時、長門が読んでいたのはいつものような分厚いハードカバーではなく、フリーペーパーのようだった。
 フリーペーパーと言えば有名なのはクーポン券が大量に入った分厚いやつだが、それ以外にも様々な物がある。飲食店や服を特集したものがあったり、レシピなど生活に役立つ情報を掲載しているもの、俺たちにはあまり関係ないが住宅情報や就職情報などもある。
 長門が読んでいたのはレシピをまとめたものだ。一ページの中にいくつかレシピがあるが、目を引いたのはその中で唯一料理ではなくお菓子だったそれだ。
「へえ、バームクーヘンなんて作れるのか」
「……」
 長門が何か言いたげにじっと俺の顔を見上げてくる。
「食いたいのか」
「少し」
「そうか。それじゃあ今度作ってみるか」
「楽しみ」


 とまあ、それだけだ。簡単な理由だろ。
 卵焼き器に生地を薄く伸ばすとすぐに焼ける。俺はラップの芯に銀紙を巻いたものを転がし、その生地を巻き付けていく。
 もちろんこれで終わりではない。バームクーヘンとはドイツ語で木とかいう意味があり、つまり年輪のように何層にも生地を巻き付けねばならない。
 本来のバームクーヘンは棒に生地を付けて焼くものなので厳密にはバームクーヘンと言っていいのかわからないが、もちろん一般家庭にそのような機材があるはずがないのでこれでいいだろう。
 生地を焼いては巻き、焼いては巻き……その行為を延々と繰り返しているとがたがたと物音が聞こえてきた。
「よう」
「……」
 寝起きで少しだけぼーっとした顔の長門が立っていた。
「なに?」
「朝飯だ」
「……」
 とことこと歩いてきて、俺の手元を覗き込む。
「なに?」
 確かに、この状態では何を作っているのかわかりづらいので、長門が首を傾げるのも仕方はない。
「待ってろ」
 ちょうど全ての生地を巻き付け終わったところだ。俺はそれを皿にのせ、中から芯を引っ張る。
 すぽん。
 そんな音を立てて芯が抜けた。中にアルミホイルが残っているが、引っ張り出すとはがれてきた。
「バームクーヘンだ。前に食いたいって言ってたろ?」
「……」
 表情は変わっていないのだが、なんとなく俺には長門が困惑しているように見えた。
「どうした?」
「食べたいのは事実」
 だったら、長門はなぜそんな目をしているんだ?
「どちらかと言うと、作ってみたかった」
「……そうか」
 そりゃまずかった。こっそり作って驚かせてやろうと思ったんだが、失敗してしまったな。
「それじゃ、またそのうちな。途中からけっこう疲れてくるからな」
「わかった」


 一週間も経たないうちに、長門が一人で作っていたバームクーヘンが朝食になるのだが、それはまた別の話だ。