今日の消失長門有希SS

 人はなぜ勉強をしなければいけないのか。
 この問いにまともに答えられる教師は世の中にどれくらい存在するだろう。受験に必要だからとりあえずやっておけとか、将来的に何かの役に立つとか、聞いてみればそう言った答えが返ってくるとは思うが、実際にそう信じている教師はいるのだろうか。
 俺もそういったことを信じているわけじゃないが、定期テストや受験に必要になるのは確かなので、必死で板書をノートに写しているわけだ。この授業を担当するのは、催眠術師の方が向いているんじゃないかと思わせるほど眠くなる教師だが、そのくせ板書を消すスピードが早い。だから板書を書き写しているとその眠たくなる解説も半分くらいしか聞けず、結局なんのために授業を受けているのかよくわからぬままチャイムが鳴ってしまうのが常だ。
 それで全ての授業が終わり、担任の岡部が来てホームルームが始まっても、俺は黒板に書かれた内容をノートに書き写していた。後ろの席の優等生ならとっくに書き終わっているだろうが、俺の頭はそれほど優秀にできてはいない。
 黒板を写し終えた頃にホームルームが終わり、それと同時に鞄を持って教室を出ることにした。
 学生の本分は勉学であり、本当であればすぐ家に帰って授業の内容を復習すべきなのだろうが、教室を出た俺が向かう先は玄関ではない。渡り廊下を通ってから一階に降り、いったん外に出てから部室棟へ。
 あの日から、俺はここを歩き続けている。
 文化系の部室が集められたこの旧校舎はひっそりと静まりかえっていた。ここに来るような生徒の性質が大人しいというのもあるが、体育会系と違って大声を出して活動するような部室はここにはない。
 文化系の中にも例外的に吹奏楽など楽器を使うやかましい部活があるが、そう言った部は音楽室で活動しているのでここに来ることはない。
 ともかく、静かな部室棟の中でも特に活動内容が大人しい部室に俺は向かっていた。階段を上り、薄暗い廊下を進んだ先にその部室はある。
 その扉には、文芸部と書かれたプレートが貼り付けられている。
 全く本を読まないわけではないが、読書にさほど興味があるわけではない俺には縁遠いはずの部室だ。中学時代の俺は、まさか数年後の自分がこんな部室に通っているだなんて思わないはずだ。ここに至るまでの経過を話してやれば納得はしてくれるかも知れないが、話の半分も理解できるとは思えない。
 そのプレートの下には、いつからか紙切れが画鋲で留められており、ここが文芸部だけのものではないことを示している。これを貼った主が既に来ているかどうかは知らない。
 俺は小さく溜息をつき、扉をノックした。
「どうぞ」
 向こうから微かな声が返ってきた。俺はその光景を想像し、ノブに手をかけて扉を開き、思っていた通りの光景を見る。
 パイプ椅子に腰掛け、長机の片隅で本を開く少女。眼鏡越しの目は、手元の本ではなく俺の方に向けられていた。
 その顔を見返していると、長門は「あ」と小さく声を漏らして顔を伏せた。うっすらと頬を朱に染めた顔は、俺のよく知る長門有希の物とは違う。
 いや、それは少し違うな。今の俺にとって、この長門有希も知らない仲じゃない。どちらの長門も俺のよく知る長門であり、その点で区別するのは間違っている。
 部室に入ったところからじっと様子をうかがってみると、彼女は手元の本に視線を落としているが、なかなかページをめくらない。普段の彼女ならもっと早く読み進めるはずなんだけどな。
「……」
 しばらく観察していると、長門は困ったような顔を俺に向けた。
「……集中できない」
「悪かった」
 俺は視線を外すと、壁際に据え付けられた本棚まで歩き、そこから一冊の文庫本を抜き出す。長門の読んでいるものより格段に対象年齢が下がるが、高校生が読む物としてはそれほど幼稚というわけでもない。そんな本だ。
 ここ一週間で半分くらいは消化したが、まだ読み切ってはいない。俺の読む速度が遅すぎるわけではなく、問題は別にある。
「はあ」
 栞の挟まったページを開こうとしていたが、閉じたまま机に置く。
 どすどすとやかましい足音が近づいて来るのが聞こえたからだ。この部室の前で止まったそいつは、ノックすることもなくどかんと扉を開いた。
「お待たせ! いやー、忍び込むのに手間取っちゃった」
 黒いブレザーに身を包んだ、涼宮ハルヒがそこにいた。