今日の長門有希SS

 前回の続きです。


 死体である、可能性?
「それはどういう意味だ」
 長門ならばそこにある物がなんなのかわかるはずだが、可能性とはどういうことだ。あれがマネキンなのか死体なのかわからないってことか?
「その解釈は正しくない。あれは今、マネキンである状態と死体である状態を兼ね備えている。存在が確定していない」
 意味がわからない。
「ええと、それは量子力学の観点から説明できるかも知れません。よろしいですか?」
「……」
 無言で首を縦に振る長門を確認してから、古泉は続ける。
「有名な思考実験の一つに『シュレディンガーの妹』というものがあります。箱の中に一人の妹と毒ガスの発生する装置。その装置は特定の原子が分裂するか否かによって作動するのですが――」
 古泉は俺たちを見回し、一つ咳払いをする。
「まあ、特定の条件によって作動する場合と作動しない場合があると思ってください。仮に一時間以内に作動する確率が五十パーセントとすると、一時間後に妹が生存しているかそうでないかは五分五分と言えますが、箱の蓋を開けて観測するまでその生死は確定しません。それと同じようなことがあそこでも起きているというわけですね?」
「多少の違いはあるけど、大筋で間違ってはいない」
「仕組みはよくわからないが……原因はやっぱりハルヒってことでいいんだよな」
「そう。あなたの話を聞いて、涼宮ハルヒはあそこにあるものがマネキンではなく死体であるという可能性も考え始めている」
 呆れたような口振りだったが……多少なりとも信じてしまったのかあいつは。
「このままでは、あれが本当に死体になってしまう可能性がある。先ほどの話を否定しなければならない」
 三人の視線がこちらに集中している。
「俺がやれってことか?」
「ええ。先ほどの話の流れを考えると、僕たちより自然ではないでしょうか」
 まあ仕方ない。元はと言えば俺が蒔いた種だ。
「万が一の時にはサポートしますが、可能であれば穏便に解決して頂けると嬉しいですね」
 言ってから古泉は携帯を操作して誰かと会話を始めた。相手が何者かは聞かなくてもわかっている。まあそちらからのサポートを受けないに越したことはないな。
「とにかく、あれが死体だったら無理があるってハルヒに思わせればいいんだな?」
「そう。マネキンであると確定させて」
 普通に考えれば現時点で既に無理な状況だから、それほど難しくなさそうだ。
「が、がんばってください」
 朝比奈さんの顔色が悪いのは、世界の危機といったことももちろんだが、それ以上にあそこに死体があったら気色悪いからだろう。
「ええ、任せてください」
涼宮ハルヒが戻ってくる」
 長門が俺に顔を向けたまま小さく呟く。見ていなくてもわかるのだろう。
 慌てて電話を切った古泉も含め、俺たちは平静を装う。
「お待たせ。あら、みんな黙っちゃってどうかした?」
「なあハルヒ、さっきの話なんだが」
「まだ続けるっての?」
「やっぱり死体ってのはありえないよな。だいたい、こんな時間にあそこに放置してる理由がない」
「理由、ねえ……」
「そうだ。こんな時間にあんな目立つところに死体を放置しなきゃならん合理的な理由があるか? デメリットはいくらでもあるが、いいことなんてないだろ」
「ふうん」
 ハルヒは口をとがらせて窓の外を凝視する。まあここまで言ってやれば大丈夫だろう。
「……」
 長門が何か言いたげにこちらを見ている。大丈夫ってことだよな?
「そうだ」
 ぽん、とハルヒが手を叩いた。
「例えば……そう、例えばこんなのはどうかしら」
 先ほどまでと違い、ハルヒはきらきらと目を輝かせている。
 ……何やら風向きがおかしい。
「開店前に店員同士で口論になって、片方がもう片方を刺して……そして、その血がマネキンに付いてしまった。開店まではもう時間がない、マネキンがなければ怪しまれてしまう……そんな時、そいつは『この死体をマネキンの代わりにすればいい』って気が付いたのよ。死体を隠すこともできるし、一石二鳥じゃない」
「ちょっと待て。どちらかというと返り血を浴びたマネキンより死体の方が血が付いてる可能性が高くないか」
キョンキャトルミューティレーションって知ってる? 宇宙人の実験か何かで家畜が殺されるって話なんだけど、その家畜は血が出ていなかったりするの。つまりそういうことよ」
「どういうことだ」
「とにかく、マネキンの代わりに死体を使っていたんだけど、やっぱり刺したところから血がにじんで来て……ああ、だから今服を替えてるのね」
 俺のつっこみも聞こえちゃいない。もはや暴走するハルヒを止める手だては俺にはなかった。
「謎は全て解けたわ! 犯人は死体を着替えさせてるあいつよ!」
「確定した」
 ぼそりと長門が呟いた瞬間、ガラス越しだというのに悲鳴が聞こえてきた。
 服屋の店先、転がっているマネキン改め死体から赤い物がにじんでいた。