今日の長門有希SS

 肉は高いとよく言われているが、実際のところ極端に高額なわけではない。そりゃ確かに野菜に比べると同じ量でも高いと言えなくもないが、同じくタンパク源の魚だってそれなりの値段になる。
 肉や魚の代わりに豆腐や大豆でタンパク質を補おうとすれば安上がりだが、植物性タンパク質ばかりじゃ体にあまりよろしくはなさそうだ。今はまだ成長している時期だし、栄養を十分に摂取した方がいいような必要な生活を日々送っている。
 いや、性的なこともあるがそれだけじゃない。高いところに建てられている学校までの往復や、SOS団の活動で体力を必要とする。ちゃんと飯を食わなければ、それだけでダウンしてしまうことだろう。
 しかし、肉を食うのはそれだけではない。俺はたまにこう思うのだ。
「肉を食いたい」
 男ならそういう時がある。とにかく肉が食いたい、できれば牛肉を。
 牛肉は他の肉よりも高い。探せば豚肉並の値段の牛肉も売られているが、そう言うのはあまり美味くはない。牛肉を食べるならばそれなりの金を必要とする。
 だが、食いたい物は食いたい。大きなステーキ肉を焼き、すり下ろしたニンニクを使ったソースをかける。味付けは一般的には醤油だが、味噌というのも悪くない。ワインを使った洋風のソースもいい、和風でもいい。とにかくステーキが食いたい。
 今日がそんな日だった。昼食を食っている時からステーキが食いたいと思っていたが、もちろん弁当にそんなものが入っていることは少ない。匂いの面や、冷えた時の味を考えるとそもそも弁当に入れるべき食材とは言い難い。だから弁当にステーキは入っていなかった。その代わりに入っていたタンパク質源はかまぼこだった。
 だから午後の授業には身が入らなかった。俺の頭を占領していたのはステーキだった。あまりにそのことばかり考えていたせいか、授業中に後ろから「キョン、あんたトイレに行きたいの?」と聞かれるほどモジモジとしてしまった。
 もちろん部室での活動時間にも身が入らない。そもそも大した活動をしていないから特に問題はないのだが、珍しく古泉に将棋で負けることになった。牛肉のことを考えるために脳の持つ処理能力の幾ばくかを費やした結果だ。
キョン、もしかして調子が悪い?」
 ハルヒがそう問いかけてくる。
「いいや」
 体は健康そのものだ。むしろ腹が減っているくらいだ。
キョンくん、お腹空いてるならこれ食べますか?」
「いえ、大丈夫です」
 朝比奈さんが戸棚から出してきたクッキーを辞退する。鶴屋さんにもらっていたのかも知れない。
 そんな貴重な物を食べるのが気が引ける、というわけではない。単に腹を減らした状態で肉を食いたいだけだ。
「みくるちゃん、美味しそうねえそれ」
「あ、でもこれは何かあった時のために――」
「何かあった時のため、って言って取っておいた物なんてどうせ食べないで終わるのよ。頂き物のハムとかウィンナーは要注意よ、冷蔵庫の奥で転がっていて、気が付いたら賞味期限切れてるなんてよくあることなんだから」
 と、何かがあった時のために保管されていたクッキーはハルヒの胃の中へ消えていく。クッキーは乾き物だしすぐ悪くなる物じゃないが、ネットに入ったタイプのハムがいつの間にか傷んでいるという話には心の中で同意しておいた。


 活動時間が終わって解散すると俺はすぐに長門と合流した。
 夕飯の時間が近いのでスーパーに寄ってから帰ることになった。
「急に元気になった」
 スーパーに入って買い物カゴを取った俺に長門がそう呟く。
「わかるか?」
「わかる」
 さすがに長門はよく見ている。俺の変化はどんなことでも見逃さない。
「誰が見ても一目瞭然」
 そうかい。
「腹が減っている。そして牛肉が食いたい」
「そう」
「ステーキがいい」
「付け合わせは?」
 そうか、付け合わせなんて考えていなかった。とにかく牛肉さえ食えればなんでもよかった。
 ダメだ、皿の上にステーキが置いてあることしかイメージできない。もちろん野菜を食わなければバランスが悪いのはわかっているのだが、それしか考えられない。
「何がいいと思う?」
「……」
 ざっと野菜コーナーを一瞥する。
「ほうれん草のバター炒めとタマネギ」
「わかった」
 手早くそれらをカゴに入れる。次は肉のコーナーだな。
「あ」
「どうした?」
「フライドポテトも」
 わかったそれは冷凍食品コーナーだな。肉を選んでから考えよう。
「待って」
「どうした?」
「タマネギよりミックスベジタブルの方がいいかも知れない」
「オーケー。それじゃあタマネギは戻そう」


 長門の部屋に到着すると、俺はすぐキッチンに向かった。鞄はリビングに放っている。
 そして夕飯の準備をする。ご飯は既に炊いた分があるので温め直せばいい。
 肉以外に調理する必要があるのはほうれん草だけだった。これは洗って切ってさっと炒めるだけで終わる。
 そして本題のステーキだ。フライパンを温め、塩コショウを軽く振っているがそれほど時間の経っていないステーキを焼き始める。本当はもう少し長く下味を付けるべきなのかも知れないが、そんな余裕は俺にはなかった。
 焼き方はミディアムがいいだろう。いい肉を買ってきたから、焼きすぎると美味さが半減する。
 ステーキを美味く焼くには、まず強火で表面を焼いて旨味を閉じこめることらしい。肉の焼けるジュッという音が心地いい。
 両面の色が変わったら火を弱めて内部まで火を通す。強火のままなら炭化してしまうだろうが、そんなものは食いたくない。
 俺が肉を焼いている間に長門が他の準備を終えていた。皿の上にはほうれん草や解凍されたポテトなどが添えられており、肉を置けば完成だ。
 そして、肉の旨味がしみ出たこのフライパンでソースを作れば完璧だ。ニンニクがすり下ろされているのはもちろん長門の仕事だ。
「いくぞ」
 フライパンを持って食卓に近づき、フライ返しで持ち上げ――
「あ」
 肉が宙を舞った。未確認飛行肉体だ。いや、未確認じゃないステーキだ。
 食卓を飛び越え、ぼとりと落ちる。
「……」
「……」
 長門が足下の肉をじっと見つめている。咄嗟のことにさすがの長門も対処できなかったらしい。
 貴重なステーキが一枚失われてしまった。フライパンに残っていたもう一枚を今度はそっと皿に置き、堕ちてしまったステーキ(堕ステーキ)に視線を向ける。
 もったいない。値段もそうだが、今からもう一枚買い直して焼く気力はない。無事だった一枚を半分にするしかないだろう。
「まだ大丈夫」
 言って長門は手づかみでステーキを持ち上げる。
「三秒はとっくに過ぎてるぞ」
「表面の汚れてしまった部分を取り除けばいい」
 長門はまるでバナナやみかんの皮を剥くように、ステーキを剥く。ぺりぺりと茶色の部分を剥がすと、まだ赤身の残る肉が現れた。
「はい」
 それをフライパンに戻すと、まだ余熱が残っていたのかじゅっと肉の焼ける音がした。
「本当にこれで大丈夫なのか?」
「わたしが保証する。床に触れた部分は完全に取り除かれていて、汚れや細菌は残っていない。もし不安ならわたしがそれを食べてもいい」
 長門がそう断言するなら間違いないはずだ。
 だが、それとは別の問題が生じる。肉を落としたのは俺なのに、長門にそれを食べさせるのはどうだろうか。昼から肉を食いたかったのは事実だが、かといってそこまで飢えちゃいない。
「いいや、俺が食おう」
「あなたはこちらの大きい方を食べるべき」
 しかし長門は譲ってくれない。


 しばらく押し問答して、結局切って半分ずつにするということで落ち着いた。先に焼いた方はちょっと冷めてしまっていたし、後のほうは片面が焦げてしまっていたが、身も心も満足のいく食事だった。