今日の長門有希SS
「普通の高校生なら、キスは三回目のデートの別れ際が鉄板なんだよ!」
アホの谷口の声で騒がしかった教室が静まりかえる。まあ、健康的な高校生なら男も女もそう言うことには興味があるけど、あんなにおおっぴらに話す内容じゃないと思う。呆れた顔をしている人もいるけど、また元の空気に戻っていく。
谷口がああやって男子を集めて週刊誌で知ったような知識を披露しているのはよくあることで、今さら気にしている人は少ない。たまにさっきみたいに教室中に聞こえるような声で勘違いしたことを言って注目を集めるくらいで、女子のほとんどは空気扱いなんじゃないかしら。
でも、あたしはそっちが気になってしまう。
「キスねえ……」
谷口の話を聞いている中にキョンの姿もあったから。
付き合うようになってけっこう長いけど、キョンからキスをしてくれたのは今まで一度しかない。あの時は確か、夜の学校で――ロマンチックだったなあ。
夜の学校に二人きりで、まるであたしは世界に二人だけしかいなくなったように感じて、本当に楽しかった。夜の学校はちょっと怖かったけど、キョンと二人だったからそれも楽しかった。なんていうのかな、修学旅行の夜みたいな感じ? 何もしなくてもどきどきしていた。
そして、夜空の下でキョンは、可愛いとか髪が綺麗とか、そんな感じのことを言ってくれて、それからキスをしてくれたのよね。嬉しかった。キョンがあたしのことを気にしてるってのはなんとなく感じていたけど、言葉にしてくれたのはそれが初めて。出会って一ヶ月くらいだからもしかしたら早いほうなのかも知れないけど、もっと早く言って欲しかった。
まあ、キョンと話すようになるまでちょっと時間がかかっちゃったけどね。もし入学してすぐキョンと仲良くしていれば、もっと早く告白してくれたのかな? 二人きりでいる時間をもっと一杯作れたのかな?
でも、最初はキョンのことを他の人と同じだと思っていたから、きっとあれはあたしたちにとって必要な時間だった。キョンが途中で諦めないであたしのことを思い続けてくれて本当によかった。
「なあ、ところで気になってるんだが」
キョンの言葉が聞こえてあたしはどきりとする。谷口がどうでもいい誰かと話していたけど、その話が途切れたのかな?
あたしはその言葉を聞き漏らさないよう耳を傾ける。キョンがどんなことを気にしているのかあたしは知りたい。あたしたちは上手くいってるはずだけど、キョンはなかなか積極的になってくれないし、何か悩んでいるのかも知れない。
「デートをする前にキスをしちゃ駄目なのか?」
「何を言ってるんだお前、少なくとも三回はデートしてからだ。いきなりキスを要求するほどガツガツしてるとすぐに嫌われちまうぜ」
キョンの言葉を鼻で笑って吐き捨てる谷口。
わかってないのはあんたの方。あたしは呆れてしまった。
女の子はキスが大好きなのよ。好きな人とキスしたいと思わない女の子なんてどこにもいない。
根拠ならある。あたしが好きだもん。
キョンとキスするといつも優しい気持ちになって、体の芯が熱くなる。もちろんエッチをするのも好きだけど、それとは違った気持ちよさがあって、それはキスじゃないと味わえない。だからあたしはキスが好き。キョンとするキスが好き。キョンと一緒にすることならどんなことでも好きだけど、キスは特別。
そう言えば、あたしたちもデートをする前にキスをしたんだよね。
休みの日は一緒に街に出かけているけど、二人きりでデートすることはなくて、いつもSOS団の五人でいる。だから、デートらしいデートって、ほとんどしたことがないのよね。二人でいることは多いけど、あたしが覚えてる中で最初にデートをしたのは、キスをした次の休みの日だったかしら。本当は五人ででかけるつもりだったけど、たまたまあの時は他のみんながお休みになっちゃって……もしかして、気を遣ってくれたのかしら? ううん、あたしたちが付き合ってることはまだみんなに内緒だし、単なる偶然だったのよね。
もしかして、キョンはデートしてないことを気にしてるのかしら? だから、あたしに対して積極的になれないのかしら? 恋人らしい付き合い方をしてないのに、体だけ求めるとあたしが嫌がるって思ってるのかしら?
もう、そんなこと気にしなくていいのに。あたしはキョンにどんな風に扱われてもいいし、キョンがしたい時にしたいところでしたいことをしてあげるつもり。みんなの前でキスしたいって言えば、あたしたちがどれだけ愛し合っているか見せつけてあげてもいい。
それに、デートをしてないことを負い目に感じてるなら、誘ってくれればいいのに。何のために活動しない日を作ってると思ってるのかしら。週休二日制がなんのために存在してるかわからないの?
でもその鈍感なところもあたしは嫌いになれない。他の体だけが目的の男だったらもっと積極的になるかも知れないけど、キョンはあたしの全部を愛してくれる。顔や体だけじゃなくて、あたしの心を愛してくれてるから、あたしを大切に扱ってくれる。だからキョンが好き。
キョンはきっと、性欲は男にしか存在していないと思っていて、あたしをそんな目で見たり扱ったりすることを悪いと考えている。そんなことないのに。あたしだって健康な女の子だから、やっぱりしたい気分の時はある。あの日の前とか、あたしの体がキョンの子供を作りたくなって、どうしようもなく欲しくなる。心も体もキョンのことを求めてる。
キョンは本当に鈍感で、不器用で、どうしようもないやつ。
でも大好き。
「どうした?」
目の前にキョンの顔。
「え――な、なに!?」
思わずあたしは大声を上げてしまう。びっくりした。いつの間に?
「いや……ぼーっとしていたから、どうかしたのかと思っただけだ」
あたしの反応に戸惑っているみたいなキョン。
そりゃびっくりするわよ。キスしたいと思っていた顔が急に目の前に来たら、あたしの妄想が生み出したのかと思っちゃうじゃない。一歩間違えば本当にしちゃうところだったわよ。
ま、あたしは別にキスしちゃって付き合ってるってみんなに教えてもいいんだけど。さすがに教室でやったら職員室に連れて行かれて説教されるかも知れないけど、そんなことはどうでもいい。
「もうチャイム鳴ってるぞ。準備しなくていいのか?」
気づいてなかった。あたしは机の中から教科書やノートを取り出しながら、キョンの口から目を離せない。
「おい、どうかしたか?」
キョンの言葉。それを生み出す唇。
キス……したいな。
「ねえ、キョン」
「なんだ?」
今、したいって言ったら、してくれる?
でも、あたしが口を開こうとした時に教室のドアが開いて先生が入ってきた。本当にタイミングが悪い。
「やっぱいいわ」
「そうか」
もう、そこは諦めちゃ駄目でしょ? ほら、そのまま前を向くんじゃなくて、あたしが何を言いたかったか読みとってキスをしてから前を向いてもいいでしょ? 本当に鈍感なんだから。
でも、それもキョンらしいと言えばキョンらしい。そんなキョンが好きなあたし。どうしてこう、めんどくさい奴を好きになっちゃったのかしら。
昼休み、ずっとキョンのことを考えていた。おかげで食べた物の味が感じられなかったけど、元々学食なんてそれほど美味しいものじゃないし、そんなことはどうでもいい。
デート、か。
谷口の言うことはあてにならないけど、キョンがそれを鵜呑みにしているなら問題だ。
あたしから誘うしかないのかしら。でも、あの話を聞いて、キョンがデートしたいと言い出すかも知れないし……やっぱり、誘うより誘われた方が嬉しい。いつもあたしが積極的にやってるけど、たまにはそんな風に二人きりで過ごしたい。でも、これまでキョンが誘ってくれたことはほとんどなかったし、あたしが言わないと先の話になりそう。
本当、男女の駆け引きって難しい。
教室に戻ってキョンの顔を見たかったのに、なかなかキョンは戻ってこなかった。予鈴が鳴っても戻ってこなくて、ようやく姿を見せたのは授業の時間が始まってから。
「遅かったじゃない」
「あ、ああ」
キョンは弁当箱の包みを鞄に入れている。いつも思うけど、大きな包みよね。二人分くらい入りそう。
「ま、先生がまだ来てないからよかったけど」
「そうだな」
走ってきたのかな。キョンの息が荒い。
ううん、あたしといることで興奮してる? もう、こんなところで駄目じゃない。隣の席だったらこっそり手でしてあげてもいいし、キョンがあたしの後ろだったら口でしてあげてもいいけど、キョンが前だから何もしてあげられないのよね。本当に残念。
でも、こんな遅い時間までどこに行ってたのかしら?
もしかして……図書館かどこかでデートのプランを考えてた? それで集中しすぎて遅くなっちゃったの?
本当にキョンは可愛い。あたしのためにそこまでしてくれるなんて、それだけあたしが好きってことよね? だからちゃんと準備してデートしたいのね?
あたしはどこだっていいのになあ。あの時みたいに、夜の学校に呼び出されるのもロマンチックだったし。
普段と少し違う後ろ姿。キョンの気持ちが伝わってくる。デートのことを考えてそわそわしているのがわかる。
なんだか嬉しい。キョンの頭の中にはあたしのことばかり。あたしの頭の中はいつもキョンばかりだからたまにはその気分を味わいなさいよね。
放課後はSOS団の時間。あたしにとっては授業の時間よりこっちが重要。
教室にいる時の方がキョンがすぐ近くにいてくれるけど、あんまり話せないからストレスが溜まっちゃう。他の人もいてキョンとの距離は離れちゃうけど、話したい時に話せる部室の方がやっぱり嬉しい。
今日は掃除があったから少し遅くなっちゃった。本当は少しでもキョンと一緒にいる時間を作りたいけど、掃除をさぼったらキョンに怒られちゃう。だから、あたしはさっさと掃除を終わらせて部室にやってきた。
「あら」
開けてびっくり。部室にいたのはキョンだけで、まだ他に誰も来ていなかった。授業中にあたしのことを考えて頭を使いすぎたのかな? キョンは机に突っ伏してすうすう寝息を立ててる。
キョンと二人きり。
意識すると、急に胸が高鳴った。あんなにキョンのことを意識したせいかな。我慢できない。
「キョン、寝てるの?」
かちゃんと音が響く。これで誰も入ってこない。
キョンからは返事がない。居眠りしてるか、寝たふりしてる。
いいよね?
あたしたちは恋人だから、寝てる時にキスしても怒らないよね? それに、寝たふりだったら、誘ってるってことよね?
うん、そうよ。
気持ちよさそうに眠るキョンの顔。あ、気持ちいいってそういうことじゃなくて……って、あたし何考えてるんだろ。
あたしはゆっくりとキョンに顔を近づける。
「はぁ」
キョンの吐息がかかる。頭の中が痺れる。体が溶けそう。二人で溶けてしまいたい。
勝手にそんなことをしてはいけない。
頭の中で冷静なわたしの声が響く。うるさいわね、付き合ってるからいいのよ。誰かに見られたら困るのはわかってるけど、入れないようにしたから大丈夫なのよ。
キョンの顔がすぐ近くにある。平凡だけどあたしの好きな顔。あたしがいつもキスする顔。大好き。
もう少しで唇が触れ合う。この瞬間はいつもドキドキする。キョンは寝たふりしてあたしを誘ってるから、キスしてもいい。
近すぎて焦点が定まらなくなる。本当は目を閉じるのがマナーだけど、今日はキョンの顔を見ていたい気分。
キョンはまだ寝たふりをしている。くすっと笑ってから、あたしはその唇に――
がちゃん。
びくりとしてキョンから飛び退いた。
ドアがゆっくりと開いて、そこには有希の姿。
「な、なんで――」
「……」
有希はあたしが驚くのを理解できないと言うように首を傾げてから部室に入ってきて、何事もなく本を読み始めた。
鍵、閉めたはずなのに。
「ん……俺、寝てたか?」
ふあ、とあくびをかみ殺しながらキョンが言った。
起きてたくせに。
二人でキスしようとしてたなんて思われたくないから、わざとらしくそんなことを言ってるのかしら。キョンは演技も下手なんだから。
すぐにみんながやってきて、いつもの放課後が始まった。
「どうぞ」
みくるちゃんのお茶が美味しい。喉が渇いていたのは、キスしようとしてできなかったからかしら。
キスできていたら、キョンとあたしの舌を絡ませ合っていれば、喉の渇きなんてなくなってたのになあ。
ま、いいか。
「また今度、ね」
「何か言ったか?」
「べっつにぃ」