今日の長門有希SS

 学生は何かと慌ただしい。平日は学校、休日は休日で何か予定が入ることが大半。特にイベント好きなハルヒが団長を務めるSOS団に所属していれば、何もない朝とは貴重な物である。携帯電話や目覚まし時計に叩き起こされるわけでなく、自然に目を覚まし、そのまま布団の中でまどろむ。
 なんと幸福な一時であろうか。
 布団には魔力があり、そこから抜け出すためには何らかの根拠が必要だ。ずっと寝ていてもいいとなればその魔力は強大なものになる。ちょっと腹が減ったとか、トイレに行きたい程度なら極限まで我慢をしてしまうほどだ。
 目の前にはうたた寝をするような安らかな寝顔がある。ここは長門の部屋だから、真正面にあるのは部屋の主たる長門の顔だ。今日は俺も長門も急いで布団を出る必要がない。ぼんやりと長門の顔を見つめていたが、ふと眠くなって目を閉じる。
 ぬるま湯のような睡魔。温泉にでも浸かるように俺はそれに身を任せる。意識はどこかふわふわとして、もぞもぞと動く気配があっても気にならない。
 長門が目を覚まして「何か食べたい」と言えばすぐにでもこの頭を叩き起こして飯を作る準備がある。しかし、起きたらしい長門も布団から抜け出すつもりはないのか、ただ身をよじらせているようだ。
「……」
 うっすらとまぶたをあけると、ぼんやりと焦点の合わない長門の目。とろんとした目には知性が感じられず、どことなく犬や猫を見つめているかのような気分にさせられる。
 ああ、可愛いなあこいつ。
 布団の中でもぞもぞと手を動かす。まるでキャベツの上を移動する芋虫の如きのろのろとした動きで長門の頭に到達し、なんとはなしになで回す。
「ん――」
 その反応もまるで小動物のようだ。気持ちよさそうにまどろむ長門に触れていると、そこから俺にも眠気が伝わってきたようで、なんだか意識が遠くなる。
 長門の頭に触れたまま、布団の中でとろける。どこかの絵本でもないが、このまま溶けてバターになってしまっても不思議じゃないように思える。なお、その絵本はかつて人種差別がどうとかで絶版になったこともあるらしいが、まあ今の俺たちにとってはどうでもいいことである。
「……」
 目を閉じた長門の口からすーすーと規則正しい呼吸が聞こえる。再び眠りに落ちた長門に引っ張り込まれるよう、俺の意識はどこか暗い穴のようなところに吸い込まれていく。


 どんどんと、どこか遠くの世界で太鼓の音が聞こえたような気がした。
「ん――?」
 何かを感じ、開いた目の前に顔があった。
「やっと起きた」
 そっと手を触れると、さらさらと髪が絡みつく。
「あ――ちょっと、キョンくん!」
「だめ」
 別の顔が滑り込む。
「……」
 えーと。
長門?」
「起きた?」
 何やら頭から冷水を浴びせられたような気がして、いきなり目が覚めた。もちろん俺の頭は全く濡れていないのだが……いや、じっとりと冷や汗が浮かんでいるような気がするが、これは寝汗ってことなのか?
「……」
キョンくん……そろそろ、手を……」
 長門は口を動かしていない。長門の顔から、長門じゃない声が聞こえる。
「腹話術?」
「違う」
 呆れたようにぷいっと顔を背けると、その陰から声の正体が見えた。
「あ……今、手が……ぴくって……」
 頬に手を添えられた、朝倉の顔が。
「あー、すまん」
 慌てて手を離す。長風呂でのぼせたように赤く染まった顔、潤んだ目、わずかに開いた口から溢れる吐息。
 それらが、ぽこんと音を立てて方向を変える。後に残ったのは頭頂部と誰かの手。
「……」
 その手の持ち主は、無表情ながらも不機嫌そうな目で俺の顔を見ていた。


 それから数分後、俺たちは食卓を囲んでいた。
「もう三時なのに二人とも寝てるんだもん」
 呆れたような朝倉の声に耳を傾ける余裕は俺にも長門にもない。そんな時間まで布団の中でごろごろしていた俺たちは、空腹を感じていなかったものの実は体は飢えていたらしく、朝倉の持ってきた手作りアップルパイの香りを嗅いだ時点で本能に負けそれを食べることしか考えられなくなっていた。あっさりとした甘さと適度な水分を含むそれは、寝起きの俺たちの胃腸にも優しい。
「リンゴって食えば食うほど腹が減るよな」
「はいはい、お代わりならあるからいくらでも食べていいよ」
 がっつくようにアップルパイを手づかみで頬張る俺たちと、紅茶を傾けながら優雅にフォークで口に運ぶ朝倉は、まるで同じ動物の振る舞いには思えない。いや、俺と朝倉は元々別物なんだけどな。
「せっかくいいリンゴを選んだのに、そんな風に食べたら味もわからないんじゃない?」
 どこか拗ねたような朝倉の口調。確かに、今の俺たちはあまり優雅とはいえない状態で、わざわざ作ってきた苦労を考えると申し訳ないような気がする。
「たぶん美味いぞ」
 いくら空腹でもまずかったらわかるしな。
「はあ」
 大げさな溜息をつき「作り甲斐がないなあ」と顔を背ける朝倉。しかしその視線の先には、俺以上に品のよろしくない食い方をする長門の姿がある。
「大丈夫、空腹が落ち着いたら反芻して味を確認する」
 するなよ、牛じゃあるまいし。


 結局、俺と長門が味わいながらアップルパイを食べることができたのは、二枚目に入ってからだった。