今日のネギまSS

 楽しい旅行だった。
 本来、遠くから見守ることしか許されていなかったお嬢様と、二人だけの旅行。それまでの日々のことも忘れ、私達は心から楽しんでいた。
 そこに油断があったのだろう。
 気が付いた時には、既にフェリーは沈みゆく真っ直中で、私にはお嬢様を救うのが精一杯だった。
 原因はわからない。単なる事故だったのかも知れないし、お嬢様を狙う手の者の仕業だったり、はたまた私がお嬢様に近づくことをよしとしない者が、私を亡き者にしようと企んで行ったということも否定はできない。
 月のない真っ暗な夜。墨汁のような海の上を、私はお嬢様を抱いて飛んだ。
 沈みゆくフェリーの他に何も見えない世界。雨も降り始め、陸地は見えない。あてもなく飛び続けることへの不安で押しつぶされそうになる心を支えてくれたのは、お嬢様の存在だった。
「せっちゃん、無理せんでもえーよ」
 寒さか恐怖か、体を小刻みに震わせながら、お嬢様は引きつった顔で私に微笑みかけていた。私を励ますために。
「腕が疲れたらゆーてや」
 その先を口にしなくても、お嬢様がどのような意図でそれを言ったのかわかる。
 そんなことはできない。
「私は問題ありません、お嬢様」
「二人で生きような」
「はい」
 お嬢様を抱く腕に力を込める。
「必ずお守りいたします」
 仮に私が力尽きたとしても、お嬢様を安全なところに連れて行ってから。
 そう決意してから、腕の痛みはほとんど感じられなくなった。いくら鍛えているとは言え、一人の人間を腕に抱いて飛び続けるのは簡単なことではない。雨に打たれながら、衰弱しそうな体に鞭を打ち飛び続けた。
 腕の中のお嬢様には既に意識はないが、規則正しい吐息が無事であることを示している。雨に濡れてはいても、こうして抱きしめているからそれほど体温も奪われないだろうし、今は休んでいてもらった方がいいはずだ。
「あっ……た」
 何時間飛び続けただろう。朝日が一つの島を照らし出していた。
 緑の生い茂った小さな島だ。何か危険な動物がいるとか、フェリーを沈めた何者かが潜んでいるとか、そのような可能性は頭の中にはなかった。
 とにかく、お嬢様を無事にそこに届けなければという使命感だけが私を動かしていた。
「お嬢様、陸地がありました」
「ん……ごめんな、ちょっと寝てもうた」
 おっとりとした声に心が癒される。
 残っていた気力を振り絞り、大きく羽ばたいた。私達は解き放たれた矢のようにその島に直進する。雲が視界の後ろに流れ、豆粒のようだった島が徐々に大きくなる。
 朝日が海に反射し、キラキラと輝いている。
 私達は、半ば落下するようにして、砂浜に着地した。抱きしめていたお嬢様をかばい、砂浜をごろごろと転がる。体を覆うようにした翼が軋む。
「せっちゃん、大丈夫!?」
 必死に呼びかけてくるお嬢様の声が遠い。
 全身の痛みが私の意識を刈り取っていく。無事に陸地までお嬢様を連れてきたという安堵が、あまりにも無理をしすぎたことを体に自覚させる。
 私の体はとうに限界を超えていた。お嬢様がいなければ、一人だったなら、果たしてここまでたどり着けただろうか。
「せっちゃん、せっちゃん!」
「少し、休みます……」
 命に別状があるような怪我などを負っていないことはわかっている。無用な心配をかけぬよう、それだけは口にして、私の意識は徐々に失われていく。
 休息を必要とする体を回復させるため目を閉じる直前、どこか傷めたらしく、少しだけ血の付着した翼が視界の片隅に見えた。
 自分が忌まわしい存在だという証である翼だが、これはお嬢様を救うための力になる。
 ありがとう――
 心の中で、私の中に流れる異形の血に、礼を言った。


 私にとってはその一瞬後、開いた目に飛び込んできたのはお嬢様の顔だった。
「せっちゃん、痛いところとかない?」
「いえ……」
 少しばかり腕の関節が痛むものの、単なる疲労によるものだとわかる。普通に動かす程度ならば支障はない。
「あ」
「どしたん?」
「なんでもありません」
 体の奥に鈍い痛みがある。
 翼が、痛い。
 しばらく飛ぶことはできないだろう。お嬢様を守ることができたのだから、それはあまりにも小さすぎる代償だ。
「それよりお嬢様、私はどれくらい眠っていたのでしょうか」
 まだ日はある。夜になる前に、
「丸一日や」
「一日……って、一日!?」
 がさりと音を立てて、思わず飛び起きてしまう。
 一日、こんな得体の知れぬ島で、お嬢様を放って置いてしまった。いや、放って置いたと言うのは語弊がある。そもそもお嬢様は私の様子を見ていたのだから。お嬢様が私を看病、していた? ああ、そんな風に手を煩わせるなんて、本末転倒ではないか。でも、一日ずっと、お嬢様が、私を?
 身をよじるたび、がさがさと物音が――がさがさ?
 足下に目を落とすと、腰から下が枯れ草で覆われていた。
「これ、お嬢様が?」
「せや。風邪引くと困るし、ここまで負ぶってきたんよ」
 周囲を見ると、最初にたどり着いた砂浜ではなく、木々に囲まれたところに寝かされていて、布団代わりに枯れ葉まで探してくれたらしい。
「お嬢様、申し訳ありません」
 深々と頭を下げ、それに気づいてしまった。先ほど見回したときに目に入ったが、何かの間違いだと思ったのに。
「な、こ、これ、お嬢様――」
 呂律が回らない。頭の奥が、ぽーっと熱くなる。
「濡れた服のままで寝ると、風邪引いてまうしなあ」
「きゃああああっ!」
 両手で胸を覆い隠し、思わずお嬢様に背中を向けてしまう。
「隠すことないやん。お風呂入ってる時も見てるんやし、今さら恥ずかしがらんでもええよ」
「それもそうなんですけど」
 でも、それはシチュエーションの問題だ。こんな風に、不意に裸を見られるとどうしても照れてしまう。
 それに、お嬢様が、私の服を脱がして――
「ああああ……あかん、あかんよ……」
「どないしたん?」
 不思議そうに首を傾げるお嬢様と、自分の思いを説明できぬ私。
 がさがさと、枯れ葉の音だけが響いていた。