今日の長門有希SS

 涼宮ハルヒの様子がおかしい。
 そんな時は教室にいる奴らも危険を察知して関わらないようにしているが、八つ当たりを食らう程度なら実は大したことではない。本当にまずいのはハルヒの機嫌が世界そのものの存亡を左右していることである。
「何かあったのか?」
 本来ならば俺だって望んで話しかけたいなどとは思わないのだが、放っておくとどう転がるかわかったもんじゃない。藪を突いて蛇が出る可能性は否定できないが、現状を把握すべきだろう。
キョン
 窓の外に向けていた視線を俺の方に向ける。不機嫌には見えないが、かと言って機嫌がいいとはとても思えない。ぼんやりとした目にはいつもの力が感じられない。
「うるさい犬っているじゃない」
 どこか遠くを見ているような視線を受け止める。ハルヒが何が言いたいのかまだわからないが、俺は続きを促すように小さくうなずく。
「あたしの近所にも昔からいたのよ。その家の前を通るたびに吠えてきて、いつもうるさいなーって思ってたわけ。たぶん近所の人も同じ気分だったと思うわ」
 ハルヒの話しぶりを聞いて、なんとなく話の続きを予感できた。
「でも、最近いなくなったのよ」
「そうか」
 ハルヒの表情と、過去形で語られる口調から勘付いてはいた。
「静かになってせいせいした……とは思えないのよね。あの道を通る時は吠えられるのが当たり前だったし、なんか別の道を通っているような感じなのよ」
 ハルヒの心境は理解できる。なくなればいいと思っていても、いざ本当になくなってしまうと気持ちの整理ができなくなってしまう。まさしく今のハルヒのように。
 世界を望んだとおりに変容させるハルヒだが今回はそんなことを望んだわけではないはずだ。ハルヒの性格はわかっている。犬の寿命はそれほど長くはないので、昔からいたというのならかなりの高齢だろうし、そういうものなのだろう。
 授業が始まるまで俺は、窓に視線を戻し黙り込むハルヒの横顔をぼんやりと眺めていた。


 命とはなんだろう。
 弁当に入った焼き鮭を箸でつまみ、俺はふとそんなことを思った。
 生きているものと死んでいるものは、物質的な意味ではそれほど違いがないはずだ。例えばこの鮭だって、食材となるべく捕獲されて適切な処理を受けてこの弁当箱に収納されているわけだが、ある瞬間にその短い生命を終えたわけだ。その前後で劇的な変化をしたわけではなく、端から見るとただ動かなくなっただけで、生きているものと死んでいるものを明確に分けるのは難しい。
 夕暮れの教室、死の概念が理解できないと言っていた朝倉の顔が記憶の中から蘇る。あの頃と若干性格の変わった今の朝倉には理解できているのだろうか。
 朝倉も長門も、ハルヒとは違うやり方で世界を作り替えることができる。何もないところから生き物を作り出したり、ある物に命を与えたり、その逆に奪ったりすることも可能なのではないだろうか。
「……」
 長門の透き通った視線が俺を捉えていた。
「どうした?」
「わたしの台詞」
 つい苦笑してしまう。
「鮭のことを考えてたんだ?」
「鮭?」
 そりゃ不思議に思うだろうな。
「いや、正しくは命のことだ」
 今朝のハルヒとのやりとりを説明する。もちろん今考えていたようなことは省くのだが、じっとこちらを向いている視線から俺の考えていることもわかるのだろう。
「いや、どうにかしてやれって言ってるわけじゃないぞ」
「そう」
 何となく申し訳なくなって俺は下を向いてしまう。もしそれが世界を左右することならば古泉が何か言ってくるだろうし、放っておいても問題ないはずだ。
 俺はただ、元気のないハルヒを見ているのが嫌だというだけなのだ。
「わたしにはできない」
「そうだよな」
 長門は少しだけ嬉しそうな声で、こう続ける。
「そもそもそんなことをする必要がない」
「そうか」
 俺がハルヒの性格をわかっているように、長門だってハルヒのことがわかっているだろう。俺も長門も、あいつがそんなことでどうにかなっちまうような奴じゃないと知っているのだ。思い通りにならないことを許せず、最後まで悪あがきをするガキのような奴ではあるが、できないことに執着して駄々をこねるようなことはしない。
 ハルヒはきっと、何日かしたらその事実を乗り越えるだろう。俺たち二人だけじゃなく、恐らく朝比奈さんや古泉も分かっているだろう。


 それから数日後、登校した俺に対してハルヒはこう言った。
「前の犬、くたばったかと思ったらなんか飼い主の旅行に着いてっただけだったのよ。せっかく静かになったと思ったのに」
 うんざりしたような顔で言うハルヒは、どことなく楽しそうに見えた。