今日の長門有希SS

 床屋で頭を洗われている時には決まってかゆいところはないかと聞かれる。何か事情があってこの質問が投げかけられるのだろうが、少なくとも俺は今までそのシチュエーションで頭がかゆくなった経験はないし、例えかゆくなったとしてもそう告げるのはためらわれる。
 まあ、かゆみというのは人間の感覚の中でも特に不快なものである。それは人間が孫の手などというかゆみを軽減するための道具を開発していることからもわかるだろう。孫の手とあることから本来は孫が祖父母の背中をかいていたことに由来するのだろうが、体の硬い人間は背中の全てを自分の手でカバーすることができないこともあり、若い者でもそんな部分がかゆくなった際に必要になるわけだ。
 しかしながら、孫の手は所詮は代用品。大抵の場合は誰かの手を借りるほうがいい……はずなのだが、そうでもないこともある。
キョン、このあたりがかゆいんでしょ?」
 がりがりとハルヒの爪が制服越しに俺の肌をこする。
「痛てててっ!」
 ハルヒは加減というものを知らない。何事もスーパーマンであるハルヒの場合、肌の強度も常人とは違う可能性がある。だからその基準で凡人たる俺の肌をこすると痛みすら生じるのだが、ハルヒはそれに気が付いていないのだろう。
「なによ、軟弱ね」
 そういう問題じゃない。一般的な尺度で考えると痛いんだよ。
「文句言ってるんじゃないわよ。こんなに軟弱なのはあんただけよ」
 そうは思えないけどな。ああ谷口、いいところに来たな。お前、どっかかゆいところはないか?
「かゆいところだって? そうだな、背中の下のほうが――」
「そう、背中ね?」
「GYAGYAGYAギャアアアアア!」
 そしてハルヒは「最近は軟弱な男が多いのよ」と呆れたように溜息をついた。


 というのが朝の出来事である。それから四時間目が終わるまで、俺は背もたれに背中をつけられない状態で過ごした。まるで酷い日焼けをした後のようなものであり、ひりひりとした痛みは収まる様子がない。
 心の救いを求めて部室にやってきた。長門と飯を食う時間は一日の中でもランキング上位を常にキープするほど俺にとっては大切なものであり、願わくば長門にとってもそうであって欲しいと思っている。
「……」
 ドアを開けた俺を見て長門は首を傾げる。
「何か激しい運動をした?」
「いや、別に何もしていないぞ」
「筋肉痛になっているのかと思った」
 俺は背中をかばってそんな動きをしているというのか。我ながら情けないと思いつつ、俺は今朝の顛末を説明した。
「それは大変」
 長門は立ち上がり、俺の背後に回る。
「痛みを緩和させる」
 そのまま背後から手を回し、俺のブレザーのボタンを外していく。すとんと上着が落ちて、残るはワイシャツ。
「な」
 俺は一瞬、長門が何をしているのかわからなかった。ワイシャツが突っ張り、背中の一部に熱が生じる。
 長門はワイシャツと背中の間に頭をつっこんだらしい。そして、
「っ――」
 思わず漏れそうになった声を抑える。しっとりとした何かがハルヒに引っかかれた背中を丁寧になぞっている。
 長門はまるで野生の動物が怪我をした仲間に対してするように、俺の傷口をゆっくり舌でなでている。
「……」
 一段落したのか、長門の体はワイシャツから出てきた。今まで長門の入っていた背中が急に寒くなったような感覚になる。もちろん湿っている部分が空気に触れているのもその原因ではあるだろう。
「ありがとうな」
 長門が舐めてくれたおかげで痛みが薄れたように感じる。もちろんすぐに治っているはずはないのだが、精神的なものが大きい。
「いい」
 長門は俺の前に回り、じっと見上げてくる。
「あなたの次は弁当を食べたい」
 そこでようやく、俺は片手に弁当箱を持ったままだったことを思い出した。