今日の長門有希SS
気分は最悪。
朝、登校して席に着いたところであたしは気づいてしまったから。
携帯を家に忘れてしまった、と。
今日は天気がいい。学校に来るまでは気分もよかったけど、気づいてしまってから天気なんてどうでもよくなった。
学校で過ごす時間は退屈。他の人と話をしてもつまらないし、面白いことなんて滅多に起こらない。SOS団を作ったから少しは自分から楽しみを作り出すことが出来るようになったけど、それもあたしの心を満たすには十分じゃない。その他大勢の生徒たちに比べて少しは刺激的な日々を送っているのかも知れないけれど、あたしの心の渇きを満たしてくれない。
でも、キョンだけは特別。個性がなくて、話してもつまらない人ばかりだったけどキョンは違う。あたしにとって、キョンは初めて認識できたヒト。砂漠の中で見つけたオアシスのような存在。
今のあたしにはキョンしかない。キョンだけがいてくれれば、他に何も必要ない。キョンがあたしを見てくれて、あたしがキョンを見ていることができれば、それだけでいい。
興味があるのはキョンだけ。キョンのいろいろな表情が見たい。
そのための携帯なのに。
授業中、キョンの後ろ姿を見ているだけで一緒にいるんだって思えるけど、それだけじゃ少し足りない。
あたしの携帯にはキョンの写真がいっぱい入っていて、あたしはいつでもキョンの顔を見ることが出来る。
笑っているキョン、むっとしているキョン、みくるちゃんを見てデレっとしているキョンの顔はちょっと腹が立つ。他にも、ぼーっとしているキョンとか、気持ちよさそうな顔で寝ているキョンとか、とにかくキョンのあらゆる表情が詰め込まれた携帯。
今日だってキョンがあたしに新しい顔を見せてくれるかも知れない。そんな時、携帯が無ければあたしはそれを記録することができない。
それなのに、家に忘れてしまった。
気が付かなければよかったのかも知れない。登校して、誰かに話しかけられてキョンが来るまで時間をつぶして、キョンが来たらキョンと話して、それで授業が始まる。
その時に気づいたらまだこれほど落ち込まなかったのかもしれない。だって、キョンが目の前にいてくれるんだもん。キョンが一緒なら大丈夫なのに。
でも、気づいてしまったあたしは心が押しつぶされそう。学校に来てから今まで何分たったのかしら。あたしにとっては、もう何十分も経ったような感覚。
早く来てくれないかなと祈ったらキョンが教室に入ってきた。嬉しいけど、こんなに待たせるなんてキョンは意地悪。
しかもキョンはあたしに挨拶もしないで座ってしまった。いつもは声をかけてくれるのに、こんな時に限って声をかけてくれないなんて本当にキョンは意地悪だ。
「キョン」
声をかけると、キョンは困ったように振り返った。
「なんかあったのか」
キョンはあたしがいつもと違うと気づいてくれる。もしかして、話しかけなかったのもあたしが何か考え事でもしているのかと気を遣ったのかしら。疑ってごめんね、キョン。
「携帯を忘れたのよ」
キョンが安心したように息を吐く。もしかして、あたしの態度で心配かけちゃったのかも知れない。
「別に授業中に使えるわけじゃないし、大して困ることもないだろ」
あたしにとっては重要なことだけど、キョンにとってはわからないし、もちろん説明することはできない。だからあたしは、SOS団のこととか持ち出して、もっともらしい説明をすることにした。
そんなのは嘘だ。今、目の前にキョンがいてあたしの顔を見てくれているけど、キョンの顔を見たいときに写真を見れないのが問題。
「もし今日、携帯が無いのにすっごいシャッターチャンスがあったとしたら、一生後悔するわ」
本当は、キョンが見せてくれた顔を写真に残せないのがつらい。
「あーもう、携帯取りに帰ろうかしら」
「そこまでしなくていいだろ」
あたしの呟きにキョンは困ったような顔でそう言う。
もしかして、帰らせたくないのかしら。もしあたしが携帯を取りに帰ったら、キョンはその間あたしと一緒にはいられない。だから、止めさせようとしているのかも。
「ま、いいわ」
キョンが引き留めてくれるなら、あたしは帰ることなんて出来ない。今日は我慢だ。
だから、あたしはキョンの顔を見ないように窓の外に顔を向けた。授業中でもキョンの顔を見なくて大丈夫なように慣らさないといけないし、それに、キョンがいつもと違う顔を見せてくれたら後悔するかもしれないから。
授業中もずっと浮かない気分だったけど、キョンが目の前にいてくれてよかった。キョンの後ろ姿を見ながら、キョンがどんな顔をしているか想像しているだけで楽しい気分になれたから。
それに、あたしは思い出した。部室にデジカメがあるってことに。
だからあたしは、授業が終わってすぐに教室を飛び出した。通い慣れた文芸部の部室。文芸部ってのは名ばかりで、実質的にはあたしの部室。
「あら」
部室に入ると有希が本を読んでいた。一瞬、あたしは今が放課後なのかと錯覚しそうになったけど、まだ昼休み。
昼休みをこんなところで過ごすなんて、有希はクラスで一体どんな風にしているんだろう。いじめられていないかと、少しだけ心配になる。
もし、それが原因でSOS団の活動に支障を来したら困るから。
「……」
本から顔を上げてあたしの顔を見ている。何をしに来たのかと疑問を持っているのだろう。
「デジカメを取りに来たのよ」
それだけ説明して、あたしはしまってあったデジカメを出す。
これがあればいつでも写真が撮れるし、この中にはキョンの写真が何枚か入っている。もちろんこれだけじゃ不足だけど、パソコンの中にデータがあるから、それをこのデジカメに転送することも出来る。
そうすれば、あたしは少しだけ楽になれる。とりあえず、データを転送しようとパソコンのスイッチに手をかける。
「それを教室へ?」
ぽつりと問いかけられた。有希から話しかけてくるのは珍しい。
「そうよ」
「没収される可能性がある」
言われてみれば、教室でデジカメをいじっていると取り上げられるかも知れない。放課後なら適当な理由でごまかせるけど、さすがに授業中は無理がありそう。
「そうね」
名案だと思ったけど、有希の言うのはもっともだ。放課後まで我慢しなきゃいけないわね。
デジカメを置いて部室を出ようとして、あたしはふと思いつく。
あたしのいない時のキョンの顔が見たい。
他の場所なら隠れてこっそり様子をうかがったりすることも出来るけど、あたしが来る前に部室でキョンがどんな顔をしているのか、あたしには見ることは出来ない。寂しそうな顔かしら、あたしを待ってそわそわしているかしら。
それが気になって、あたしはデジカメをモニターの横に置いた。
インターバルタイマー。一分おきくらいに撮影されるようにしたらいいかしら。
キョンが座る場所はいつも決まっているから、この角度に向ければ大丈夫。
いけない。早く食堂に行かないと混んでしまうのに遅くなっちゃった。
「じゃあ、また放課後」
有希に声をかけて、あたしは食堂に向かった。
午後の授業は上の空。
放課後になったらキョンが部室に行って、あたしがいなくて寂しそうなキョンの顔がカメラに収められる。そう考えたら楽しみで、授業なんて聞いていられない。
時間が長く感じたけど、それほど苦痛ではなかった。
授業が終わって、キョンが出て行くのを見送る。今日のあたしは掃除当番。いつもは退屈で早く終わらせたいけど、今日だけは時間がかかってもいいかなと思った。
今頃、デジカメにキョンが写っている。それを想像するだけであたしは胸が高鳴る。
掃除が終わってから、あたしはわざとゆっくり部室に向かった。
一分一枚。
キョンの顔はどんな風に移り変わるのかしら。早く見たいけど、もう少し時間をかけて、より多くの顔を見たいって気持ちもある。
部室に到着。勢いよくドアを開けるとキョンは「遅かったな」と声を出す。
その声が子犬みたいで、あたしはすぐにでもキョンを抱きしめたくなった。キョン、かわいい。待たせてごめんね。
「掃除だったのよ。知ってるでしょ?」
わざとなんでもない風に言うと、キョンは「ああ」と顔をそらす。
かわいい。今この瞬間、撮影されていたりしないかしら。
あたしはそれを確認するため、いつもの席に座ってデジカメのタイマーを止める。それから、入っている写真を最後の写真から一枚ずつ確認。
ああ、やっぱり。キョンはいつもとあんまり変わらない風を装っているけど、こうして時間を逆回しにすると、部室に来た時から少しずつ寂しそうな表情になったんだなってわかった。あたしと別々で、そんなに寂しかったのね。あたしにはわかるわよ。
「携帯の代わりにデジカメを使うのか」
「そうよ」
キョンはあたしがデジカメを操作しているのをめざとく見つけた。朝、嘘の説明をしたのを覚えていたみたい。
「これでシャッターチャンスを逃さなくてすむのよ」
それは本当。実際、キョンのかわいい顔を撮影できちゃった。
でも、仕掛けてから放課後まではどうでもいい写真がいっぱいあるはずね。メモリーが無くなるから消しておかなきゃ。
最初の写真の片隅には有希が写っていた。キョンが中心になるようにカメラを置いていたけど、有希も撮影する範囲には写っていたのね。
その次も同じ写真。こうしてみると、有希は置物みたいに動いていない。
ちょっと気持ち悪い。
また有希。その次は……え?
画面が真っ黒だった。その次も、またその次も、しばらく真っ黒な画面が続く。
何十枚目かしら、その黒い画面が終わると、ドアが開いて、部室を出て行く有希の後ろ姿が写っていた。
それから何十枚も誰もいない写真が続いて、部室に入ってきたキョン。ここからはさっき見た写真ね。
授業中に誰もいないのは当然だけど、この真っ黒な写真は何かしら。
その理由を知っているのは有希だけ。顔を上げると、いつの間にか有希はいつもの位置で読書をしていた。
こうしてみると、デジカメの中の写真とまるで一緒。やっぱり置物みたい。
「有希、ちょっといい?」
「なに」
本から顔を上げてあたしにその無表情な顔を向ける。
「机の上に何か置いた?」
「……」
有希はしばらく黙ってから「急須」と答えた。
「どうして?」
「喉が渇いたから」
単純明快な答え。
「そう」
昼休み、一人でこの部室で本を読んで、一人でお茶を飲んでいる有希を想像する。もしかしたら、あたしが知らないだけで毎日そうやって過ごしているのかもしれない。
つまんなそうな毎日ね。
「机に跡でもついてたのか?」
キョンは少し心配そうにあたしに声をかけてくる。
「あんたが拭いてくれるの?」
仕方ない、とか言いながら濡らした布巾であたしの机を拭いてくれる。
あたしがその顔を写すと、キョンはちょっとだけ驚いたような顔をする。
「試し撮りよ」
本当は、キョンが机を拭いてくれて嬉しかったから。
キョンが拭き終わって、あたしはデジカメのデータを整理する。誰もいなかった時間と、有希が急須を置いて真っ暗になっちゃった写真は全部消しちゃえばいい。
キョンの写真と、有希が写っている写真が三枚。
しかし、有希は本当に変わらないわね。写真を切り替えたらキョンは場所がずれたり表情も変わるのに、有希はどれもそのまま。全く同じ写真が三枚あるんじゃないかしら。
何度か切り替えていた時、少しだけ違和感があった。有希は何も変わっていないのに、何かが動いたような。
そんなのはあり得ない。この写真に写っている部室の中で、有希の他に動くものなんてない。
でも、切り替えた瞬間に、何かがぶれる。
よく見ると、それは部室のドアだった。有希はその場にいるのに、ドアが少しだけ、開いたような――
ぷつんと音を立てて、デジカメが真っ暗になった。スイッチを入れても動かない。
一瞬、壊れてしまったかと思ったけど、使いっぱなしだったからバッテリーが切れてしまっただけかも知れない。充電器を付けると、デジカメの電源が入った。
よかった、やっぱりバッテリーが切れただけだった。キョンの写真もちゃんと残っているし、これで大丈夫。
改めて有希の写真を確認して、あたしはその三枚が全く同じものだとわかった。ドアが動いたように見えたのは、バッテリーが切れそうで変になっていただけみたい。
そりゃそうよね、昼休みにこんなところに来る人なんていないもの。
その日の放課後は、さっき撮影したキョンの写真をパソコンに移動させたり、パソコンの中に詰まったキョンの写真を見て過ごした。
でも、パソコンだとみくるちゃんがお茶をいれる時に見られるかと思うと集中できなかったから、やっぱり携帯のほうが便利ね。