今日の長門有希SS

「あら、お目覚めですか?」
 最初に聞こえたのはそんな言葉だった。見上げた先にあるのは、見慣れた長門ではなく、ウェーブのかかった緑色の髪をした先輩の顔だった。
「喜緑、さん?」
「ええ」
 得体の知れない妙な違和感を感じ、体を起こして周囲を見渡す。しかしそこは、予想に反して見慣れた光景――長門の暮らすマンションの一室だった。
 記憶を辿ろうとするが、眠る前のことは思い出せない。しかし、前にもこんなことがあったような――
 頭がずきりと痛む。
「どういうことですか?」
 俺の問いには答えず、喜緑さんはにこにこと微笑んでいる。
「なんだか、以前にもこんな状況があったような気がするんですが」
「既視感、ですか?」
 そうなのだろう。以前にも、起きあがった時に喜緑さんがいて、そしてそこがこの部屋だったような、そんな状況があったような気がしたのだ。
「前に、こんな日がありませんでしたか?」
「このような状況は、今日しか記憶にありませんが」
 喜緑さんには妙な言動が多いが、こんな嘘をつくような人物ではないような気がする。その点では妙な信頼感を持っていた。
「妙な感じがするのですが」
「目を覚ます夢を見たことはありませんか?」
「まあ」
 自分としては目を覚ましたつもりでも、それが夢だったという経験はある。一度それが夢の中だと気づいてしまって、その夢から覚めようと何度も何度もその夢を繰り返したこともある。
「だとしたら、これもその夢なのかも知れません」
 一瞬、視界がゆがんだような気がした。
 気が付くとそこは無人の教室で、俺はいつもの席に腰掛けている。
「どこを見ているんですか?」
 振り返った先にいたのは制服姿の喜緑さん。いつの間に着替えたのかと疑問を持ったが、気が付いてみれば先ほどまでどのような服を着ていたのか意識していなかった。
「夢の中なんてそのようなものです。例え制服を着ていなくても、相手が警察官だと思えばそう確信してしまうように」
 また一瞬だけノイズがかかったように視界がおかしくなったかと思うと、先ほどの部屋に戻っていた。
「気分はどうですか?」
 違うのは、体が動かなくなっていることだけだ。何かに固定されたかのように、俺は手足も、頭も動かすことができなくなっていた。見えるのは天井だけだ。
「あまりいいとは言えませんね」
 俺の返答を聞いているのかいないのか、喜緑さんの姿が視界の片隅を通過する。
 少なくとも制服姿ではない。何か、薄いものをまとっていたように見えた。
「何をするつもりですか?」
「準備です」
 ごそごそと、いや、きゅきゅっと何かをこすり合わせるような妙な音が聞こえる。
「準備?」
 答えず、喜緑さんは準備とやらを続ける。物音が聞こえなくなったと思いきや、不意に体が揺れた。天井が横に流れる。どうやら、自分が寝た状態のままスライドしているようだ。
「何、を」
 横から現れた半透明の何かが視界を覆い隠す。顔から離れた位置にあった膜状の何かは、しばらくして俺の体の上に覆い被さってきた。
 ぐに。
 ゴムのような素材が全身を包んだ。幸いにも口の部分には穴が空いているので呼吸は可能だが。
「何ですか、これは」
「バキュームベッドです。ご存じありませんか?」
 ありません。
「ここにノズルを接続して、空気を抜けば真空パックのようにできるんです」
 言いながら、体を隠す用途としては薄すぎるものを身に着けた喜緑さんは、何やらジッパーを閉めているような音を出している。
「どうして、こんな」
「好きなんです」
「え――」
 突然の告白に、言葉が詰まる。
「好きなんです、圧縮が」
 訂正。それは告白ではなくカミングアウトだった。
「夢の中なのだとしたら、このまま結ばれてしまっても問題ないですよね」
 俺には長門というものがいるのだし、そうでなかったとしても圧縮されたいとは思わない。このお方の中では圧縮することを結ばれると表現するのかもわからないし、そもそもこんな状態で行為に及ぶことができるのかもよくわからない。
 要するに、問題しかなかった。
「たまには年上を相手にするのも悪くないとは思いませんか?」
 それまでと違う、妙に艶っぽい声が耳に入る。
 蜘蛛の巣にかかった羽虫になったような、妙な感覚が背筋を駆け抜けた。
「では、抜いてしまいましょうか」
 穴に何か棒状のものが通る。その直後、モーター音が聞こえ、体を覆うゴムの膜が俺の体を圧迫し始めた。
 空気を抜いている。
「ちょっと、やめてください」
「犀は投げられてしまったのです」
 字が違う。
 と、そんなことを気にしている余裕などない。先ほどまでは動かないながらも頑張ればどうにかできそうだったが、こうも圧迫されてしまうと本当に絶望的になった。
 それに、妖艶に微笑んで俺の上でゆらゆらと体を揺らしている喜緑さんは、やはり露出度が高めで、ちらちらと――
「あら、どこを見ているのでしょうか」
 俺の変化に気づいて、くすくすと笑う。
 さて、恋人がいて定期的に――というかほぼ毎日のように性的な欲求を満たしている俺であるが、健全な若者としてはこのような状況に反応せざるを得ない。
「それとも、圧縮されるのがそんなに――」
「違います」
 その点だけは否定しなければならなかった。
「やはりいいですね。これ」
 喜緑さんは、うっとりと俺の全身――いや、恐らくはそれを包んでいるベッドを見回している。
「こうなってしまえば、抵抗はできません。例えばここにこんなものを置いてしまえばどうでしょう」
 と、俺の口の上に何かぐにゃりとしたものが覆い被さった。恐らくベッドと似たような素材のそれは、びったりと貼り付いて空気の出入りを封じている。
 息苦しい。手を伸ばして外そうとしても、両手は固定されてしまって動かすことができない。
 助けてくれ、と叫びそうになったが、どかんという衝撃にその言葉を飲み込んだ。
「んんんー!」
 長門、と言いたかったのだが。
「……」
 壁を破壊して登場した長門は、ちらりと視線を俺の方に向ける。
「またこんなことを」
 いや、そんな記憶はない。喜緑さんにバキュームベッドに入れられて、空気を抜かれた記憶なん、て――記憶が淀む。
 初めてでは、ないような、そんな気も――
 だとしても、俺はどちらかと言えば被害者であろう。喜緑さんの気まぐれに付き合わされて……いや、付き合う気もなかったんだが、ともかく主犯は喜緑さんであり、俺は共犯ではなく被害者に過ぎない。だから浮気だとかそのようなものとは別の次元なのだ。
「……」
 俺の下半身あたりに一瞬だけ視線を向けて、それから俺の顔へ視線が戻る。戻ってきた視線は先ほどより温度が下がっていた。
 大きくなってもいいじゃない、男の子なんだもの。
「ばか」
 こつん、と頭に衝撃。軽く蹴られたようだが、固定されていたせいかけっこう痛い。
 しかし俺に対する追求はそれだけで終わり、長門の視線は正面に立つ喜緑さんの方へ。
「目が覚めたら教えると言った」
「混乱していたようなので、少し様子を見ていました」
 喜緑さんにとって、様子を見るとは部屋を教室に改造したりバキュームベッドに放り込むことも意味するのだろうか。
「もうバキュームしないと言っていた」
「魔が差してしまいました」
 そんなんでバキュームされたらたまったものではないのだが。
 長門の声が遠くで聞こえる。
 なぜなら、俺の口は未だに塞がれたままで、俺は呼吸ができていないのだ。徐々に意識が薄れていくのを感じる。
「あら大変、忘れてました」
 ようやく剥がされたが時既に遅し。視界が暗くなって、再び意識が沈んでいく。
「今度こそ、ちゃんと看病しておきます」
「そう」
 長門くるりと体を回す。二人とも、既に俺の意識がなくなっていると思っているのだろうか。今度はちゃんとして、と言い残して長門が部屋から出ると、崩れていた壁は何事もなかったように元に戻る。
 そして、うまく丸め込めたと喜緑さんがぺろりと舌を出すのが見えた。
 なんとなく、それは前にも見た光景のような気がした。