今日の長門有希SS

 穏やかな波間を漂うようなまどろみの中から、徐々に覚醒する。海底から水面に浮上していくような目覚め。
 ゆっくり目を開いていくのと共に視界がよみがえる。ぼんやりとした世界は眩しく感じられ、俺は思わずまぶたを閉じる。
 目を閉じてもまぶたを通して光が感じられる。黒いような赤いような色が視界を覆っている。
 しばらくして、俺は再び目を開く。この時には幾分か意識がはっきりしていて、周囲の状況が理解できた。
 ここは、長門とよく来る図書館だ。まだはっきりしていないが今回も長門と来たのだろう。
 今日は……ええと、休日だな。毎週ほぼ恒例となっている不思議探険パトロールは今日は無く、長門が来たがったから一緒に来た……んだったよな。
 付き合いで来ていながら、居眠りしてしまうのは悪い癖だ。出来るだけ控えようとは思うのだが、ここの図書館に来ると反射的に眠くなってしまう。何か特殊な成分でも出ているに違いなく、それを特定する事が出来れば不眠症に悩む数多くの現代人を救う事が出来るだろう。ノーベル賞もんだな。
 ぼんやりとした視界の中に見える時計から、それほど長く眠っていなかった事がわかる。ここに来たのは……ええと、何時だったっけ。
 駄目だ、どうも意識がはっきりしない。睡眠中、人間の脳はレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しており、浅い眠りであるレム睡眠の時に目覚めると目覚めが良くなるらしい。レム睡眠とは体が眠って脳が覚醒した状態の眠りの事で、眼球などが動いているとのことだ。ノンレム睡眠がどんなものかはよく知らないが、レム睡眠とは違うのだろう。
 はっきりしていない意識は、再び混濁していく。まるで底なし沼に沈んでいくようだ。首で頭を支えるのすら億劫になり、俺は少し横に顔を傾ける。
 その瞬間、俺の意識は急速に覚醒した。
「……」
 キスしそうな距離に長門の寝顔があったからだ。
 いや、長門の寝顔自体はそれほど珍しいものではないのだが、それは長門の部屋に限った事だ。長門は俺の知らぬ間に隣に座って、本を読みながらそのまま寝入っていたらしい。ソファーにもたれかかり、俺の方に顔を向け、手には分厚いハードカバーを持っている。読んでいる最中だったんだなと笑おうと思ったが、俺の手にも文庫本が握られているからお互い様というやつだ。
 こうして見ると本当にきれいな顔だ。純粋で、何も知らず、一点の汚れも無いような、そんな寝顔。伊達に生後三年じゃないな。
 実際は俺と付き合いだして色々な事を知ってしまっているのだが、その寝顔は本当に無垢で、何て言うか、そう、天使のようだ。そんな長門に対して一般的だったりあまり一般的でない行為を行っていると考えると、俺はもしや相当の極悪人ではなかろうか。朝倉に刺されても文句は言えない。
 ともかく、長門の寝顔を見ていると、ちょっとしたイタズラ心が湧いてくる。キョロキョロと周囲を見回し、あたりに人がいない事を確認。
 俺はまるで内緒話をするようにそっと顔を近付け、長門の顔にそっとキスをした。さすがにこんなところで唇にするのは躊躇われるので、頬にだが。
 特に反応は無い。少しだけ寂しい。
 周囲を再び見回すと、俺は先程より少しだけ唇の近くめがけて唇を寄せる。
 目を閉じて触れた感触は、予想していたものと少し違った。そっと目を開けると、
「……」
 同じく目を開けている長門と目があった。
 しばらくそのまま硬直していたが、さすがにこれはまずいと思って唇を放す。
「なんで……」
 心臓がドキドキする。キス自体は繰り返された事だが、これは予想外だった。思わず、今まで触れ合っていた長門の唇に目がいってしまう。
「王子様のキスで目が覚めた」
 いや、古今東西の物語を見ても頬で目が覚める事は無いと思うぜ。唇同士になったのは、お前が目を覚まして位置を変えたからだろう?
「結果的には同じ事」
 そんなもんなのかね。
 まあ、一度目のキスの前まで眠っていたのは間違いないだろう。そこで目を覚まして、眠ったままのふりをしてイタズラを仕掛けたって事か。
 さて、お姫様が目を覚ましたわけだが、これからどうするかね。
「それから二人は、仲良く暮らしましたとさ」
 めでたしめでたし、ってな。