今日の長門有希SS
ウィルス感染のために咳や鼻づまり、頭痛などの諸症状。正式名称は風邪症候群とか、風邪疾患群とか言うらしいが、そんなのはどうでもいい。要するに風邪だ。
そう、俺は風邪を引いて寝込んでいた。ちなみに今日は休日であり、学校が休めて嬉しいなどというようなメリットは何もない。
ああウィルスよ、なぜお前はこのようなピンポイント爆撃を食らわせたのか。数日前後してくれれば、他の生徒達が勉学に励む間、教育テレビなんぞを見て優雅な時間を過ごす事ができたものを。運命とは本当に不条理なものである。神は死んだ。
「キョンくん、大丈夫?」
妹が顔をのぞき込んでくる。離れとけ、あんまり近づくと伝染るぞ。
「へいきだよー。はい」
と、妹は俺の額に濡れたタオルをべちゃりと置いた。
気が利くじゃないか妹よ。だがな、もう少し絞って来てくれるとお兄ちゃんはもっと嬉しかったぞ。
ともあれ、湿ったタオルはひんやりと気持ちがいい。頭痛が少し収まった気がする。
「ありがとな」
「えへっ、褒められちゃった」
頭に手を置くと、妹は嬉しそうに目を閉じる。
全然似てもいないのに、その仕草でふと長門を連想した。
「どうしたの、キョンくん?」
気が付くと妹は不思議そうに俺の顔を見つめていた。
どうしたもこうしたも、どうもしないぞ。
「なんかね、いつもより優しそうな顔してるよ」
それは、普段は優しくないということか。
「あ、なんか食べたいものあったら呼んでってお母さんが言ってたよ。それじゃーね」
俺の手をすり抜け、妹は部屋から出ていってしまった。一人になった部屋に取り残される。
退屈だ。明日には治るだろうから、他の団員にはわざわざこちらから連絡するほどでもないし、今日は一人ですごそう。
しかし、本を取りに行こうにも動く気すら起きない。そもそも額には濡れタオルがのっており、この状態では読書もままならない。
やることがないので、俺はただぼーっとしていた。天井を眺める視界の片隅にタオルが入ってくる。たまにずり落ちそうになるたび、片手で位置を修正する。
しばらくそんな事を繰り返しているうち、冷たかったタオルも体温に温められて徐々に生ぬるくなってきた。先ほどまでシャキっとしていた意識も、それにともなってぼんやりとおぼろげになってくる。
明日までに治ればいいんだが……
部室のドアをノック。ドンドンという音が、自分の頭に響く。
やはり風邪は完全に治っていないようだ。
「どうぞ」
朝比奈さんの声が帰ってきた。俺はノブに手をかけ、ドアを開ける。
部室の中にいたのは、朝比奈さん、古泉、ハルヒ。
俺は定位置に座り、用意してあったオセロを古泉と始める。
「なあ、今日は長門はまだなのか?」
何気なく呟くと、
「はっ? 誰のこと言ってんの?」
ハルヒが怪訝な表情で俺を見ている。
誰も何も、他に長門なんていないだろう。ここの本来の住人である長門有希以外にな。
「初耳ですね。ここは我々SOS団の部室ではないですか」
古泉の言葉に耳を疑う。
朝比奈さんは――
「ごめんなさい。あたしも長門なんて人は……」
おいおい、どういう事だよ。みんなして俺を担ごうってのか?
早く出て来いよ長門。
「キョン、あんたおかしいんじゃない?」
不思議そうに、いや、何か気持ち悪いものでも見るかのように俺を見つめてくる。それは冗談を言っているような顔ではなく、俺に対するおびえのようなものが感じられた。
おいおい、嘘だろ。長門、どこにいるんだよ。長門――
突然、額に氷のように冷たい何かが触れた。
「……」
先ほどまでいなかった長門の顔が目の前にあった。ガラス玉のような綺麗な目で、俺を見下ろしている。
「長門!」
思わず俺は長門にしがみついてしまった。長門がいる。こうしていると安心する。
冷たい何かが顔を滑って落ちた。だが、そんなのはどうでもいい。
頭の上に手が置かれた。
「うなされていた」
夢か。夢で良かった。タチの悪い悪夢を見ていたんだ。お前がどっかに行っちまう夢をな。
「そう」
頭の上に置かれていた手がゆっくりと動く。頭をなでられ、俺の心は落ち着いた。
「大丈夫、どこにも行かない」
ああ、安心だ。
ところで、どうしてここにいるんだ。妹から俺が風邪を引いてるって連絡でもあったのか?
「違う」
となると、俺が風邪を引いてるって勘付いて来てくれたのか。さすがだな、俺の長門。
「涼宮ハルヒからの連絡」
……え?
「携帯に電話しても連絡がつかなかったから、彼女は家の電話にかけてあなたが風邪を引いている事を家族から教えてもらったらしい」
……って、事は。
恐る恐る長門から顔を離す。
「キョ〜ン〜、いつまで有希にセクハラしてるわけ?」
口元に笑みを浮かべつつ、目は全く笑っていないハルヒが俺を見下ろしていた。
朝比奈さんは泣きそうな顔を浮かべ、古泉は乾いた笑みを浮かべて携帯をいじっている。ああ、いつも悪いな古泉。
「ま、いいわ。有希がいなくなる夢を見たなら仕方ないわね。一回くらいはセクハラも大目に見てあげるわ」
「そうか」
ああ、助かった。
「一回くらいって言ってるでしょ、早く離れなさい!」
ハルヒは俺を無理矢理長門から引きはがし、いつの間にか落ちていたタオルを額に置く。いつもよりは多少、手加減をしているように感じられる。
「あんたは大人しく寝てなさい。あ、そうそう。リンゴを預かってるわ」
皮を剥いてカットされたリンゴが皿にのっていた。
「ほら、あーんしなさいよ、あーん」
と、ハルヒはフォークに突き刺したリンゴを突きだしてくる。
そんなガキみたいな事ができるか。自分で食えるぞ、フォーク貸せ。
「ふん、素直じゃないんだから」
ブツブツ言うハルヒからフォークをひったくり、俺はリンゴを一つ口に運ぶ。
みずみずしく、シャクシャクと歯ごたえがある。なかなかうまいな。ありがとよ。
「ふふ、当然でしょ。あたしが剥いたのよ」
たまーに良い奴なんだよな。だがリンゴの味と皮を剥いた人間はあまり関係ないぞ。
「おっと」
いくつ目かを食おうとした時、手が滑ってしまった。こりゃ布団が汚れるなと思いきや、フォークは空中で長門にキャッチされていた。
「風邪なら無理しない方がいい」
諭すように長門が言う。やっぱり風邪のせいなのだろうか。
「食べて」
また落としてもかっこわるい。俺はその言葉に従い、口を開けてリンゴをほおばる。
ああ、やっぱり風邪の時はリンゴに限るな。
……ん?
何やら妙な気配。チラリと横を見ると、皿を片手に持ったハルヒの周りにオーラが立ち上っていた。
「ふーん……あたしは駄目で、有希はいいんだ」
ゴゴゴ、と空気が揺れる。古泉はメールではもう対処できなくなったのか、携帯片手に部屋を出ていった。朝比奈さんは混乱したあまり、俺の引き出しを開けたり閉めたり。
「その差は何なのかしら?」
「待て、誤解だ。俺はただ、ただ……えーと……えーと……」
「わたしの手から食べたかった」
「そうそう、それそれ……って、おい!」
「キョンのくせに生意気よ!」
突然、リンゴを口に放り込まれた。口が無理矢理拡げられて痛い。
「あんた達、ちょっとそこに正座しなさい! 団員としての心構えを一から叩き込んでやるから!」
それから、俺は風邪だというのにベッドの上に正座させられてハルヒの演説を一時間あまり聞かされる事になった。長門が一緒なのはわかるが、なぜか朝比奈さんも一緒に。
すいませんね、本当に。
そのせいかどうかは知らないが、俺はそれから2日ほど風邪で学校を欠席しなければならなくなってしまった。
やれやれ。