今日の長門有希SS

 僕がお姉さんと初めて話した時の事は、今も僕の記憶にはっきりと残っている。
 それは今から三年くらい前の事。学校から帰ってきた僕は、家のドアに鍵がかかっている事に気がついた。僕はランドセルから鍵を出そうとして――いつもの場所に鍵が入っていない事に気がついた。
 他の場所に入れたのかも知れない。他の場所を探しても見つからない。ランドセルの底にあるかも知れないと教科書やノートを出しても見つからない。
 無駄なのはわかっていても、もしかしたらドアが開くかも知れないと思って必死にドアを押したり引っ張ったりしたけど、もちろん開かなかった。
 教科書が廊下に散らばった事に気付かないほど、僕は必死になっていた。中学生になった今なら、ランドセルをドアの前に置いてそのまま友達の家に遊びに行くかも知れないけど、あの時はなぜか「学校が終わったら、まず家に帰って荷物を置かなければいけない」と思っていた。
「どうしたの?」
 へたり込んでいた僕に声がかかった。
 隣に住んでいるお姉さんが不思議そうに僕を見下ろしていた。お姉さんは引っ越してきた時に僕の家に何かお土産を持ってきたけど、僕はそれを遠くから見ていただけだった。それから何度かすれ違った事はあっても、挨拶もした事がなかった。
 今思うと、小学生だった僕にとって大人のお姉さんと話すのが照れくさかったんだろうし、もし僕が隣の部屋に住んでいるってお姉さんが知らなかったら、挨拶しても不思議そうにされると思って怖かったんだと思う。
 僕は泣きそうになりながら、しどろもどろに鍵がない事を説明した。もしかしたら泣いていたかも知れない。要領の得ない僕の説明を黙って聞いていたお姉さんは、平然とした顔で鍵を開けるだけでいいのか訊いてきた。
 僕は驚いてそんな事が本当に出来るのか尋ねると、お姉さんは簡単だと言って、ドアを触った。
 お姉さんは何か小さく呟いたような気がするけど、僕にはそれが聞き取れなかった。
 そして、お姉さんは何事もなかったかのように僕の家のドアを開けた。驚いた。何をやったのか聞いたけど、お姉さんは教えてくれなかった。
 ただ、他の人には内緒にするように言われて、僕はそれを今も守っている。お姉さんは教えてくれなかったけど、僕はそれが魔法なのだろうと思った。
 それから、お姉さんを見かけるたびに挨拶をしたり、他愛のない学校での出来事を話すようになった。僕が何を話しても嫌そうな顔をしないで聞いてくれるお姉さん。やがて僕はお姉さんと話すのが楽しみになって、それが僕にとってのいわゆる初恋になった。
 お姉さんの事を気にするようになると、お姉さんには同じ年くらいの友達がいる事に気がついた。そのもう一人のお姉さんは、僕が挨拶をした時に僕に挨拶を返すお姉さんを見て、ちょっと不思議そうにしていた。
 それから僕は成長して、中学生になった頃に不思議な事に気がついた。お姉さんに会ってからの三年間で僕はかなり背が伸びたのに、お姉さんは全く変わらなかったからだ。最初に会った時に思ったように、本当に魔法使いなんじゃないかと思った。


 中学に入って一ヶ月くらい経ったある日の事、僕はクラスメートの女の子から手紙をもらった。隣の席の女の子で、たまに話しているその子は、どうやら僕の事が好きになったらしい。
 手紙を見て、最初に考えたのはその子の事ではなくお姉さんの事だった。あのお姉さんも、もしかしたらこんな風に男の人から手紙をもらうかも知れない。
 そう考えると、僕はいても立ってもいられなくなった。学校が終わると、僕は初めてあったあの日みたいに、僕の部屋の前に座ってお姉さんを待っていた。
「どうしたの?」
 へたり込んでいた僕に声がかかった。
 隣に住んでいるお姉さんが不思議そうに僕を見下ろしていた。
 あの日のままだった。
「話があります」
 意を決して、僕はお姉さんにそう言った。不思議そうな顔をするお姉さんの手を引いて、僕は近所の公園に向かった。
 公園に着いた頃には、夕焼けから薄暗くなり始めた頃だった。
 そこで僕は、最初に話した時よりさらにしどろもどろになって、クラスの女の子に手紙をもらった事や、その手紙をもらった時にその子ではなくお姉さんの事が気になった事、そして、今までずっとお姉さんのことが好きだったという事を説明した。
「……」
 お姉さんはしばらく黙って僕を見つめていたけど、少し悲しそうに目を細めた。
 それは、いつも笑顔だったお姉さんの、初めて見る笑顔以外の表情だった。
「気持ちは嬉しいけど、あなたの気持ちには答えられないの」
 風が吹いて、お姉さんの長い髪がサラサラと揺れる。
「お姉さんはね、遠いところに行かないといけないから」
 悲しい笑顔でお姉さんが言った。
「あなたにだけ教えてあげる。カナダに留学するって事になるけど、本当は違うところに行くの」
「魔法の国ですか?」
 僕が聞くと、お姉さんはちょっとびっくりしたような表情を浮かべて、
「秘密にしていたのになあ。知ってたんだね」
 にっこりと笑う。
「実はね、お姉さんは魔法使いなの」
 友達の魔法使いのために、お姉さんは自分の国に帰るのだと言う。友達とは、たまに一緒にいたあの背の低くて眼鏡をかけたお姉さんの事だろう。
「だから、あなたの気持ちに答えられなくてごめんね。あなたの事は、この世界で二番目くらいに好きだったんだけど」
 一番目はたぶんあの友達の事だろう、と僕は思った。
「それでは、お姉さんを好きになってくれたあなたのために、とっておきの魔法をご覧に入れましょう」
 まるでどこかのお姫様みたいに、スカートを両手でそっと持ち上げて優雅にお辞儀をしながら、お姉さんは芝居がかった口調でそう言った。
「目を閉じてごらん」
 お姉さんが言った。
「いまから、お姉さんが10数えてから目を開けて」
 1から順番に数えるお姉さんの声が近づいてくる。お姉さんは僕の横を通り過ぎて、真後ろに来た時に10と言った。
 その瞬間、ぶわっと風が吹いた。うっすらと目を開けた僕が見たのは、もう一ヶ月も前に満開になって散ったはずの桜。風に吹かれて空を舞う花びらは、とても綺麗だった。
「お姉さ――」
 振り返ると、お姉さんが僕の体に抱きついてきた。何が起きたのかわからない僕がそのまま固まっていると、お姉さんの少し太い眉の間にシワが寄っている事に気がついた。
「お姉さん?」
「ちょっと、力を使いすぎちゃった」
 抱きついているというより、しがみついたままお姉さんが言った。そして「立てなくなっちゃった」と少し苦しげに笑う。
「本気でやるとね、勝っちゃうかもしれなかったんだ」
 と、僕にはわからない事を呟いた。
 しばらく、僕はお姉さんをそのまま支えていた。
「それじゃあ、またね」
 そう言うと、お姉さんは僕の頬にキスをした。お姉さんは逃げるように、タタッと走って僕から離れてしまう。
「涼子さん!」
 初めてお姉さんの名前を呼んだ。お姉さんは僕の方を振り返ってにこりと笑ったけど、そのまま公園を出ていってしまった。
 お姉さんがいなくなってからも、桜の花びらが舞う中、僕はただ呆然とその場に立ちつくしていた。
 次の日、お姉さんは本当にカナダに行った事になってしまった。


 あれから何ヶ月かして、隣のお姉さんがいなくなったショックが癒えた頃、小さい方のお姉さんが男の人と一緒にいるのをよく見かけるようになった。相変わらずの無表情だけど、眼鏡が無くなったもう一人の魔法使いは、なんとなく幸せになったように僕は感じた。
 友達のために自分の世界に帰ると言っていたお姉さんの願いが叶ったんだろう、と僕は信じている。