C84サンプル 真央の望む未来 零

 その日は、真央にとって人生で一番幸福な日だった。
 前日の夜から興奮してなかなか寝付けなかったせいで、目覚ましを止めて二度寝しかけてしまったが、あらかじめ森さんに出かける予定の時間を伝えていたおかげで寝坊することは避けられた。
 寝不足で少しだけ目の下の血色が悪かったが、シャワーを浴びて丁寧に身だしなみを整えて、予定していた時間の少し前に家を出た。
 駅前に到着したのは九時五十五分、約束の時間の五分前だった。真央は小さなバッグを両手で持ったまま、ぼんやりと時間を待つ。
「まったく、待たせんなよなー」
 ぽつりと呟く。
 だが、真央にとって待つ時間もそれほど退屈ではない。今日はどんな風にすごすのか、それを考えると、読書などの暇つぶしをしなくても時間は経過していく。
 しかしそれにも限界はある。最初の五分は、真央が予定より早く来ていたのだから、仕方のないことだ。それからの五分も誤差のようなものだ。
 しかし、待ち合わせの予定を十分も過ぎた頃から、心境が変わってくる。待たされて腹が立つとかそういうことよりも、まず最初に生じたのは、不安だった。
 思い返してみると、待たされる立場というのはあまりなかったのではないだろうか。いつもは自分が待たせる側で、待ち合わせ場所に到着した瞬間には、すぐ相手と会うことができて、退屈する間もない。
 真央は携帯を取り出す。時間を確認すると十時十分。何かあったのではないか不安になり、真央は着信履歴から番号を探し出すが、電話をかけるのをためらう。
 ここに来てからは十五分も待っていることになるが、予定していた時間は十分前だ。電話をするには少し早いかも知れない。あとちょっとだけ我慢をして、耐えられなくなったら電話をしよう。
「すいません部長!」
 そんなことを真央が考えていると、正面から声がかかった。
 携帯から顔を上げると目の前に京夜がいた。走ってきたのか、息が荒い。
「遅れんなよ……心配、させやがって」
「ごめんなさい、GJ部時間だと思ってました。今日は本当に十時に待ち合わせって意味だったんですね」
「あ――」
 真央はそこで気がつく。GJ部で待ち合わせをする時には、決めた時間の前後に二時間の幅をもたせる。先に来る者はいないので、大抵は二時間後のことになり、十時と言えばGJ部時間では十二時に待ち合わせという意味になる。
 これはGJ部の部員であれば、当然の考え方だ。だから、待ち合わせ時間が十時だと言われた京夜は、十時ではなく十二時だと思ったのだろう。どちらかといえば、悪いのは京夜ではなく、浮かれてGJ部時間の存在すら忘れて確認を怠った真央の責任と言える。
「ん? それじゃあ……なんで今いるんだ?」
「床屋に行く途中だったんですけど、ちょっと気になって遠くから待ち合わせ場所を見てみたら、部長の姿が目に入って……」
「そっか」
 最初からヘマをやらかしてしまった真央だが、運は悪くなかったらしい。
「よし、じゃあ今からだ」
「えぇー! 僕まだ床屋に行ってないから、髪とかちゃんとしてないですよ?」
「別にいいだろ、普通じゃん。ほら、早く」
 手を握って引っ張るが、京夜はその場から動かない。京夜が反発するとは珍しい。真央の手から力が抜けてしまう。
「なんだよ……嫌なのか?」
「あの、別に嫌ってわけじゃないんですよ。でも、ほら……僕たちにとって、初めての、デートなんで……少しでも格好良くしたいっていうか……」
 しどろもどろになる京夜の腕に、思わず真央は飛びつく。腕にしがみついて抱きしめると、京夜の顔は真っ赤になった。
「ばっかだなー。別にイケメンってわけじゃないけどさ。お前はいつだって、格好悪くなんかねーよ。床屋なんていいって」
「あの、部長、その、胸」
「せっかく会えたのにさ、また待たされるなんて……ヤじゃん」
「……そうですね。すいません、僕もちゃんと確認しておくべきでした」
「その話はもうやめやめ。結果オーライなんだし、今から楽しく過ごそーぜ」
「そうですね。それじゃあ行きましょうか、部長」
「……あのさ、さっきから言おうと思ってたんだけど、お前、なんか忘れてない?」
 腕にしがみついたまま、真央が頬を少しだけ膨らませて見せると、京夜は戸惑うような顔をしてから「あ」と小さく声を上げる。
「行きましょうか、真央……さん」
「おう! 今日は楽しむぞ、京夜!」


 真央と京夜が正式な恋人同士になったのは、この少し前のことだ。
 以前から二人で出かけることはあったし、部室にいる時もくっついて過ごすことが多かったが、今まではただ単に仲のいい先輩後輩としてだけだった。
 それが変わったのは、この日から数日前の放課後のことだ。京夜に「相談したいことがあるから残って欲しい」と言われ、どういう話なのか全く予想もできずに首をひねっていると「ずっと好きでした」と告白されて、その場で泣き崩れてしまった。
 その瞬間に、自分の気持ちに気付いてしまったのだ。
 GJ部は恋愛禁止だ。真央は自分の中にある京夜への想いを、無意識に封印していた。しかし告白されることで、自分自身の気持ちに気がついてしまった。
 京夜が好きだ。
 GJ部にいる面々は、真央から見れば自分よりも魅力的な者ばかりで、勝ち目などないと思っていた。大人っぽい雰囲気なのに妙に可愛らしいところもある紫音。すらっと背が高くモデルのような体型をしているが、子供のように無邪気な綺羅々。妹の恵はいつも天真爛漫で、一番女らしい体型をしている。タマだって、素直ではないが京夜を嫌っているわけではないのがバレバレだ。
 そんな部員たちと比べると、真央は子供のような体型で、すぐに噛みつくし、わがままばかり言って京夜を困らせる。嫌われてはいないにしても、好かれる要素はないと自覚していた。
 それなのに、京夜は真央を選んだ。選んでくれた。
 単純に嬉しいのと、ちょっとした優越感と、そういった感情がないまぜになって爆発し、泣いてしまった。
 真央には自分が泣いていたのがどれくらいの時間かはわからないが、その間、京夜はずっと不安だったらしい。何しろ告白した相手が、返事もせずに泣き崩れてしまったのだから。真央が落ち着いてから京夜の顔を見ると、顔面真っ青で不安げで、その表情で思わず吹き出してしまった。
 ひとしきり笑ってから、すぐに返事をして、二人は恋人同士になった。


 真央と京夜は、今まで二人で出かけることはあったが、それは恋人ではなくただの部員同士だった。手は繋いでも、こんな風に腕に抱きついて町を歩くことなんてなかった。
「いやー、全然違うんだなー」
「何がですか?」
「恋人同士って、いいよな」
「……そうですね」
 真央の言葉に、改めて二人の関係が変わったことを意識したのか、京夜の顔がみるみるうちに赤くなる。抱きしめている腕から体温が伝わってきて、自分まで熱くなってしまいそうだ。
「ばかだなー、照れるなって」
「ぶちょ――真央さんだって、そうじゃないですか」
 言われてショーウィンドウに映った自分の顔を見ると、真っ赤になっていた。
 ガラスには、京夜と、その腕にすがりついている自分の全身が映っている。身長の差は二十センチ以上。京夜の顔の位置は、自分の頭の上だ。
 真央は自分の容姿が幼いことを自覚している。小学校の途中から身長が伸びなくなり、妹たちにも追いつかれたり追い越されたりしている。
 小学生のような自分と、ちょっと小柄ではあるがだが高校生らしい京夜。周囲からは、恋人同士ではなく仲のいい兄妹だと見えているのではないだろうか。
「真央さん、どうしたんですか?」
 つい足を止めてしまった真央を、京夜は不思議そうに見つめてくる。
「いや、わたしらってさ、恋人同士に見えてないんだろうなーって思ったら、なんか……」
 実際、真央は京夜を連れてファミレスに行き、子供のふりをしてお子様ランチを食べたことがあるが、疑われたことはない。
 つまり、恋人同士にはとても見えないということだ。
「別に他の人にどう見えていても関係ないじゃないですか。僕は真央さんのこと、可愛い彼女だと思ってますよ。それでいいじゃないですか」
「ばっ――恥ずかしいこと言うんじゃねーよ」
「すいません、嫌でしたか?」
「ヤじゃねーよ。むしろ……合格、かな」
「それじゃあ、行きましょうか」
「おうっ!」


 楽しい一日だった。
「いやー、遊んだなー」
「そうですね」
 ただ町中をぶらぶらとして、一緒に服を見たり、食事をしたり、ゲームセンターに行ってプリクラを撮ったり、喫茶店で休憩したり――やっていることは特別ではなくても、恋人同士だということを意識するだけで、今までとは違った。
 ふとした瞬間に目があってどきりとしたり、普段よりも距離が近かったり、そういったちょっとしたことの積み重なりが、幸福感を感じさせる。
 自分が好きな相手が、自分を好きでいてくれる。これ以上の幸せを、今まで真央は感じたことがなかった。
「じゃあ、そろそろ夕飯の時間だし、帰るか?」
「あ、あの!」
「ん……どした?」
 これまでにない真剣な顔で自分を見つめる京夜に、真央は首をかしげる
「夕飯なんですけど、うちに食べに来ませんか?」
「別にいいけど。森さんに、食べて帰るって連絡しておけばいいだけだし」
「えっと……それだけじゃなくて、ですね」
 歯切れの悪い京夜に、真央は少しだけ苛立ちを覚える。
「んー? どうしたんだよ京夜、そんなキョドってさ。言いたいことあるならはっきり言えってば」
 京夜は胸のあたりに手を当てて深呼吸をしてから、真央の顔をじっと見つめる。
「実は今日、霞も両親も出かけていて、いないんです。夕飯だけじゃなくて、泊まって行ってくれますか」
「な――」
 思わぬ発言に、真央は顔が熱くなるのを感じる。
「そ、それって……京夜は、その、そういうつもり……なの?」
 何かを決心したように、京夜はまっすぐに真央の目を見つめたまま、口を開く。
「そうです」
 これまで、GJ部でどこかに泊まりに行って一緒の部屋で寝た事はあるが、二人きりというのはなかった。真央も、京夜が何を意図しているのか、理解できる。
「真央」
 真剣な顔のまま、真央の手を握りしめた。
「僕のものになってください」
「う――あう――」
 自分を見つめる京夜の顔に、真央は腰が引けてしまう。
 子供のような体型の自分に対してそういうことをしたいと思ってくれるのは嬉しくても、どうしてもその行為をすることに恐怖がある受け入れがたい。
 しかし、すぐに真央は、自分の手を握りしめる京夜の手が震えていることに気がつく。京夜の目の奥に、どこか不安の色を感じる。
 京夜だって、緊張しているのだ。こんな事を言い出して、真央に嫌われてしまうのではないかとか、そう思っているのだろう。
 それに気がつくと、真央の中にあった恐怖は、すっと消えてしまった。
「ばっかだなー、焦んなって。最初のデートでいきなり家に誘うか、普通?」
「いや、その、僕も早いかなーって思ったんですけど、ずっと真央さんのことが好きだったから、どうしても、気持ちを抑えきれなくてですね――」
 先ほどまでの男らしい空気はどこへやら、たちまちいつもの京夜に戻って、真央は吹き出してしまう。
「はいはいわかったよ、そんな必死に言い訳すんなって。お前は本当にキョロだなー」
「何ですか、それ」
 真央は力が抜けている京夜の手からするりと自分の手を抜いて、後ろに向かって走り出す。木を囲むように設置されているベンチに、ふわりと飛び乗った。
「京夜ー、こっち来いよー」
 突然走り出した真央の意図がわからずに戸惑っていた様子の京夜だったが、呼びかけると小走りで近づいてきた。
「真央さん、いきなりどうしたん――」
 京夜の言葉が途中で止まる。
 近くまで来た京夜の首に手を回し、真央がその頬に口づけをしたからだ。こうしてベンチの上に立てば、身長差はほとんどなくなる。
「真央、さん……?」
 そのまま首にしがみついて、真央は京夜の耳元に口を寄せた。
「続きは京夜の家に行ってからな。なってやるよ……お前の、オンナにさ」
 ごくりと、京夜の喉が動いたのが伝わってきた。
 首に回した腕を外して京夜から離れる。真っ赤な顔をしている京夜に、真央はうまく悪戯を成功させてやったような、ちょっとした達成感をおぼえた。
「本当に……いいんですか? 僕、今日は抑えられそうにないですからね」
「いいよ、京夜の好きにして。お前がやりたい事、全部受け入れてやるよ」
 感情が抑えられず、真央はベンチの上でクルクルとダンスをするように回る。
「真央さん! 危ないですよ!」
「ふふん、大丈夫だって」
 わざと京夜を心配させるように、ベンチの端の方に足を置き――
「へ?」
 ずるりと滑るように、足下から何もなくなった。
 ふわっとした浮遊感。時間の流れが遅くなって、真央の視界には町並みと、空と、逆さまになった京夜の慌てたような顔が次々と飛び込んでくる。必死な顔で手を伸ばす京夜に、自分からも手を伸ばそうとするが、水の中にいるように体が自由に動かない。
 そっか、足を滑らせて落ちてるんだ。
 そう気付いた瞬間に、ごつんと、衝撃が――