ひなた「あおいのことが好きかもしんない」

「いつかふたりで来ようね」
 それは、子供の頃にした他愛のない約束だった。きっとその時には特別な意味なんてなくて「また一緒に登山をしよう」くらいの軽い気持ちだったのだろう。
 でも、今は違った。
 小学生時代に怪我をしたのが原因で内向的になったあおいとは、なんとなく疎遠になって、別の学校になった中学時代はほとんど会うこともなかった。
 高校生になって、同じ学校の同じクラスになって、私はあおいに話しかけようとしたものの、久しぶりで何を話していいかわからなかった。
 そこでふと、あの約束のことを思い出す。
 そう、私たちには、一緒に山を登ろうという約束がある。
 だから私は、仲がよかったころの共通の話題、登山のことを切り出した。
 あおいは面倒そうに、というか私のことをあまり覚えていないようだったものの、渋々と話に付き合ってくれた。それから徐々に打ち解けて、一緒に遊ぶようになって、今では親友と言ってもいい関係だと思う。
 昔のように、いや、それ以上に仲良くなれたのは、約束があったおかげだ。私たちの関係を繋いでくれたあの約束は、私にとってはかけがえのないものだ。
 だからこそ、考えてしまう。
 約束を果たしてしまったら、どうなるのか、と。
 もともとあおいは、登山に乗り気ではなかったのだ。高いところが苦手で渋るあおいを、あの約束を盾に私が無理矢理に引っ張っていったようなものだ。
 今でもたまに、あおいは本当に登山が好きなのか、と不安を持ってしまう。
 登山を通じて、あおいや私には友達ができた。登山経験の豊富な楓さんに、ここなちゃん。他にも登山を通じて色々な人たちとの出会いがあった。だから登山をすることは、あおいにとっても、プラスになっているはずだ。
 でも、そう思っているのは私だけではないか、とも考えてしまう。もし高校で私と会わなければ、あおいはどんな風になっていたのだろう。どこか文化系の部活に入って、それなりに友達もできて、充実した高校生活を送っていたかも知れない。
 しかし、きっと、そこには私の姿がない。
 そう考えると、あおいには悪いけど、あの時話しかけてよかった、と思ってしまう。


「急にどうしたのさ。なんか話でもあるの?」
 家にやってきたあおいは、ふてくされたような顔を浮かべている。
「いやあ、別に話ってほどじゃないんだけど」
「ふーん」
 部屋に上がり込み、あおいは床に座って置いてあったファッション誌をぱらぱらとめくり始める。
 自分の部屋のようにくつろぐあおいに、少しばかり呆れる気持ちと、心を許してくれているという嬉しさが入り交じった感情を抱く。
「もしかして、怒ってる?」
「別に。ひなたが人の都合なんて考えてないの、いつもの事だし」
 どこか嫌みっぽく言うあおい。
「いいじゃん。夏休みだし、どうせ用事なかったんでしょ?」
「ひなたと違って、私はそんなに暇じゃないんだから。バイトだってあるし」
「あおいの用事なんてそれくらいじゃない」
「バイトの他にも用事くらいあるよ」
 あおいはハムスターのように頬をふくらませる。小動物のようで、何となくおかしい。
「見栄張っちゃって。どうせ家で小物でも作ってたんでしょ」
「見栄じゃないし。最近、毎日友達と出かけてたもん」
「え、嘘でしょ?」
「ホント」
 ひなたには言ってなかったけ、と、あおいはにやりとする。
 あおいは負けず嫌いだけど、本当のことを言ってるのは、顔を見てなんとなくわかった。
「誰?」
「ふふーん、内緒」
 にやにやと笑うあおいに、胸がモヤモヤとする。
 あおいの交友関係はだいたいわかっている。というより、そもそもあおいには学校でも友達が少なくて、趣味もインドアで、知らない人と出会うきっかけなんて少ない。
 あおいの一番の友達は自分だ。
 そして、一緒に登山をする楓さんやここなちゃん。他には一緒にバイトをしている大学生のお姉さん。あおいと仲がいい同年代の人は、せいぜいこれくらいのはずだ。
「どうせ楓さんかここなちゃんでしょ?」
「違うんだなあ、これが」
 どきりとする。
 そういえば、と思い出す。楓さんと出会ったのは、あおいが先だった。あおいと二人で行った登山用品店で、別行動をしていた時に知り合って、そこで連絡先を交換して今に至る。ここなちゃんと出会った時は二人で一緒だったけど、今思うと、あおいのほうが先に打ち解けていたようにも思える。
 今となってはすっかりそんな出会い方だったのを忘れていたけど、あおいが私の思っているよりも社交的だったということを示している。
 あおいに私の知らない友達がいる? いや、それは本当にただの友達だろうか?
 例えば私の知らないところで男の人と知り合って、デートをしていたなんて可能性が、絶対にないと言い切れるのか。
「誰なの? 男? 女?」
「だから、内緒だってば。しつこいなー」
 へらへらと笑うあおいに、段々と腹が立ってくる。
「教えなさいよ」
「ちょっとひなた、痛いって」
 無意識に握っていた腕を慌てて離す。
「ごめん」
「もー、何ムキになってんの」
 やれやれ、とあおいは私が掴んでいた部分を揉みながら、ため息をついた。
「楓さんの友達のゆうかさんって人。勉強を教えてもらってたの、宿題残ってたし。楓さんもだけど」
「そうなんだ……」
 ほっと胸をなで下ろす。
「なんでそんなに気にすんのさ。お母さんか」
「なんで、って」
 ……どうしてだろう?
 あおいが知らない人と毎日出歩いていたと聞いて、どうして私はこんなに焦ったのか。
 知らない人といるあおいが想像できなかったから?
 いや、違う。私はそれを想像したくなかったんだ。
 男の人かも知れないって思ったら腹が立って、なかなか白状しないあおいが許せなくて、無意識に腕を掴んでいた。
「わかんない」
「何それ」
「しょうがないでしょ。自分でもわかんないんだから」
「わかんないですませないでよね。痛かったし、なんか怖かったんだから。束縛の激しい彼氏かっての」
 彼氏という言葉に心臓が跳ねる。
 私たちは高校生で、恋人がいてもおかしくない年齢だ。あおいが男の人と付き合っている姿を想像して、頭を振る。
「いないよね?」
「なにが?」
「彼氏とか、いないよね?」
「え、ちょっと、今日どうしたのさ」
「いいから教えて。あおい、彼氏とかいないよね?」
「いないってば。こんだけ一緒にいるのに、わざわざ聞かなくてもわかるでしょ。だいたい、男の人との出会いなんて……って、何言わせんの!」
「うん……そうだよね」
「ひなた、さっきからどうしたの? なんか変だよ? 風邪ひいた?」
 おでこに手を当てられ、どきりとする。
「あー、触ってもよくわかんないか」
 あおいは私から手を離して、自分のおでこに手を当てて、苦笑している。
 私はどうして、こんな気持ちになっているのだろう。
 あおいが知らない人と一緒にいたと聞いてイラついて、彼氏がいないと聞いてほっとして、触れられるだけでこんなにも心臓が痛くなって。
 これではまるで。
「あおいが」
「ん?」
「あおいのことが好きかもしんない」
 無意識に口にした瞬間、しまったと後悔した。あおいはキョトンとしていたが、すぐに意味を理解してひきつったような顔になった。
 冗談。いつもの悪ふざけだ。
 そう言いたいのに、舌が口の中で張り付いたように、声がでない。
「どういう意味?」
「ちが、違くて」
「好きって言ったよね。どういう意味で?」
 じっと、真顔でのぞき込んでくる。
「どうでもいい相手なら、聞こえなかったことにしてるかも知れない。でも、ひなたは、違う。そうじゃないから」
 淡々と、あおいは続ける。
「親友だと思ってるから有耶無耶には出来ない。ちゃんと説明してくれないと困るよ」
 親友という言葉に胸がずきりと痛む。
「ごめん。言ってくれないなら、もう、ひなたには会えない」
 そう言ってあおいは、立ち上がる。
「あ……」
「ね、ひなた」
 立ち上がったまま、あおいは私をじっと見ている。
 無表情に見つめてくる顔が、怖い。
 自分の気持ちを打ち明けたら、あおいに気持ち悪いと思われるかも知れない。軽蔑されて、嫌われるかも知れない。
 でも、このまま会えなくなってしまうのは、もっと嫌だった。
「私も、よくわかんなくて、上手く言えないと思うけど」
「いいよ。聞くから」
 そう言うと、あおいは私の前に腰を下ろす。
「あおいが、他の人と一緒にいたって思ったら、変な気持ちになって、彼氏がいるかもとか、そういうの考えて、なんかすごいムカついて」
「うん」
「だから、ヤキモチ焼いてて、あおいが好きなのかもって、思った」
「そっか」
 あおいはすっと、立ち上がる。
「ごめんひなた、今日は帰るね」
「そんな!」
「あー、違う違う。あんなこと言われて、私も混乱してるの。ひなたも私も、ちょっと冷静に考える時間があった方がいいかな、ってね。さっきも言ったけど、ひなたは大事だから、適当には応えられない。ひなただって、何か勘違いしているかも知れないでしょ?」
 諭すように、あおいは微笑む。
「じゃあ、まだ」
「うん。明日、また来る」
 そう言って、あおいは部屋を出て行った。
 普段は、喧嘩していても玄関の外まで見送るのに、私は動けなかった。
「明日、か」
 とりあえず、今の私はほっとしていた。あのまま二度と会えなくなるよりはよかった。
 こう考える時点で、もう、頭を冷やして考える必要なんてない。あおいに対する気持ちは、もう自覚している。
 好きかも知れない、なんて、そんなあやふやな気持ちではない。
 私はあおいに、恋をしている。


 翌日、あおいは約束した通り、家に来た。
「入るよ」
「うん」
 最低限の言葉を交わして、私の部屋に移動する。
「昨日、ひなたが言った好きって、恋愛の好きなの?」
「そう」
 部屋に入ってすぐの問いかけに、私は断言していた。
「私はあおいが好き。友達としてだけじゃなくて、恋愛感情で。ただの友達じゃ、あんな気持ちにはならないと思う」
「そっか」
 あおいは、小さく息を吐く。
「確認していい?」
「何……?」
「ひなたは、レズなの?」
 レズ。
 その言葉で心臓が締め付けられるような気持ちになる。
 あおいはあくまで淡々と口にしたけど、どことなく嫌悪感のようなものが感じられた。
 自分が同性愛者かどうかなんて、今まで考えたことはなかった。でも、女同士で好きだなんて口にしたら、そう思われても当然だ。
「自分でも、よくわかんない」
 少なくても今まで、同性を恋愛対象としてみるなんて、考えたこともなかった。あおいを好きかも知れないなんて思ったのも、まさに昨日が初めてだ。
「じゃあ……例えば、楓さんやここなちゃんと、キスできる?」
 想像して、ぞっとした。
「無理だと思う。二人にはすごい失礼なんだけど……正直、気持ち悪い」
「じゃあ私とは?」
 あおいがすぐそばに顔を近づけてくる。
 人の事は言えないけど、子供っぽい顔だ。不細工ではないけど、特に美人だとか可愛いってほどでもなくて、地味と言ってもいい。
 でも、私は、その顔から目が離せなかった。
 案外、まつげが長いとか、全体のバランスはいいとか、唇が柔らかそうだとか。
「どう?」
「ドキドキ、する」
「キスしたいの?」
「たぶん……」
「女同士だよ? 気持ち悪くないの?」
「あおいだから、だと思う。他の人にはこんな気持ちにならない」
「そう、なんだね」
 あおいは顔を離し、真面目な顔をする。
「私はノーマルだよ」
 お前は異常なんだ、と糾弾されているような気分になる。
「ひなたとキスするって考えたら、抵抗ある」
「うん……」
 昨日の反応で、だいたいわかっていた。
 小学校の頃、あおいには好きな男の子がいたし、今まで誰とも付き合っていなかったけど、あおいが異性を恋愛対象にしているなんて、ずっと知っていた。
 自分の思いが叶わないなんて、もう、言われなくてもわかっていたことだ。
「ごめん……あおいに、嫌な思いさせたよね」
「ひなた」
「でもさ、約束の、谷川岳は一緒に登ってくれる? 私たちだけならいいんだけど、楓さんやここなちゃんとの約束にもなってるし、今から止めるのは、嫌なんだ」
「ひなた、ちょっと」
「約束の山に登ったら、もう、それで思い残すことは――」
「話を聞けーっ!」
 頬を両手で挟まれる。あおいは頬をふくらませ、私を見ていた。
「あおい……?」
「なんで、そうなるのさ。私、まだ何も言ってないじゃん!」
「でも、聞く必要なんてない。私は同性のあおいのことが好きになっちゃって、でも、あおいは女同士が無理だって……」
「でもさ、私、ひなたとお別れにはなりたくない。親友だと思ってるの、私だけ?」
「違っ……あおいは、私にとって、大切で」
「だったらもう、私が合わせるしかないでしょ」
「合わせる、って?」
「ひなたはラブで、私はライクかも知れないけど、私だってひなたの事は好きだよ。だから、谷川岳だけで終わりたくない。わがままかも知れないけど、もっと、一緒にいたい」
「でも、それじゃあ……つらいよ。好きな人に、振り向いてもらえなくて、それでもずっと一緒にいるなんて、耐えられない」
 届きそうで届かない場所でずっと生殺しにされるなんて、拷問のようなものだ。
「だから、合わせるって言ってるでしょ」
「なんの……こと?」
「ひなたは、私とキスがしたい?」
「うん……」
「じゃあ、してもいいよ。恋人にはなれないけど、ひなたのしたいこと、受け止めるから。他の人なら絶対に無理だけど、ひなたなら、いいよ」
「本当……に? 気持ち悪いんでしょ」
「正直言うと、ちょっとね。でも、ひなたと友達やめるのよりは、全然まし。だから、私が我慢する」
「ごめん」
「謝んないでよ。私の方こそ、ひなたの気持ちは受け入れられないのに、友達はやめたくないなんて、無理言ってるんだし」
 そう言って、あおいは心底申し訳なさそうな顔をする。
 あおいにそんな顔をさせているのは、全て私のせいだ。
「だからさ、ひなた、いいよ」
 目をぎゅっと瞑って、あおいが顔を近づけてくる。両手を固く握りしめ、小刻みに痙攣させている。
「あおい」
 両肩に手を置くと、ガチガチに強ばって、全身に力が入っているのがわかる。
 我慢する、という言葉は嘘ではない。あおいは本当に女同士でキスをするのが嫌で、それでも私のために耐えてくれようとしている。
 本当に申し訳ないと思う気持ちと、それでも我慢してつきあってくれることに対する感謝と、単純にあおいと触れ合えることの喜びが、入り交じる。嬉しいのか悲しいのか、それとも辛いのか、今の私にはこの感情の正体がわからない。
「するよ」
 あおいの体が、怯えるようにびくりと震えた。
 私はそれに気づかないふりをして、ゆっくりと顔を近づける。
 そして、触れる。
 あおいの唇は、固く閉じられて、歯を食いしばって震えている。ガチガチになっているのがわかる。
 左右にひきつった唇は、薄くのばされて、その奥にある固い歯の感触が感じられるような気がする。
 キスをしているというのか、固いものに触れているのか、いったい何をしているのかわからなくなる。
 ただ「一線を越えてしまった」という、罪悪感があった。
 こんなに味気ないキスなのに、自分自身の心臓の鼓動が聞こえてくるようだ。
 キスをして確信した。この気持ちは勘違いじゃなくて、私は本当に、あおいを好きなんだ。
 あおいはどうだろうか。
 薄目を開けて、あおいの目尻に涙がたまっているのを見て、私の気持ちは急速にしぼんでいった。
 私は、少し強引にあおいの肩を両手で押して、体を離す。唇同士の接触をやめた。
「ひなた、もういいの?」
 子供のように見えるあおいだって高校生だ。本当ならば、こんなものではすまないのは、わかっているだろう。
 だから、薄目をあけて、おそるおそる、そう問いかけてきた。
 私だって、それ以上のことはしたい。でもあおいが辛そうで、もうこれ以上は無理だった。そう言うとまた嫌な気分にさせてしまうので、私は喉から出そうな言葉を飲み込む。
「うん……ありがと」
「いいよ」
 あおいは、ふうと息を吐く。
「案外、普通だね」
 そう言って笑うけど、あおいの声はわずかに震えている。空元気なのはすぐにわかった。
 触れただけなのに、やっぱり嫌なものは嫌なのだろう。
「ごめん」
「謝んないでよ」
「本当、あおいに、私……」
 言葉が詰まる。何を言いたいのか、自分でもわからない。
「ごめん、ごめっ……」
 ただ、嗚咽が漏れる。
 唇同士を触れあわせただけのキスだ。海外なら挨拶でするような、本当に軽いもの。
 でも、これで、私たちはきっと、戻れないところに来てしまった。
 しかもそれは、自分だけでなく、あおいまでそこに引き込んでしまった。
 それがたまらなく、悲しかった。
「泣くなよぉ。ばかひなた」
 おでこにごつんと衝撃がある。あおいのおでこが押しつけられ、ぐりぐりとこすりつけられる。
「キスして、泣かれるって、なにさ。駄目だよぉ。そんなのっ、私まで……」
 あおいの口からも嗚咽が漏れ始める。
「ごめん、あおい……」
「いいって、言ってるじゃん」
 ぎゅっと、私の体に腕が回される。
「ひなた……お互い、つらいかも知れないけど、二人で、頑張ろ」
 そうして私たちは、抱き合って、ただ涙を流し続けた。


 真っ暗な部屋。
 静まりかえった宵闇の中、ぴちゃぴちゃと、水音だけが響いている。
「あおい……」
 カーテンの隙間からの月明かりでぼんやりと見えるシルエットを抱きしめて、私はただその口内をむさぼる。
 私はあおいの歯の一本一本を、舌でなぞる。歯磨きのミントの風味が抜ける。
「んっ――」
 舌同士が触れると、あおいの鼻から吐息が抜けた。固く縮こまった舌を、私は自分の舌でなぞる。
 ざらりとした表面に、ぬるりとした裏側の感触。同じものなのに、全然違った感触がある。
 胸の前で、両手で握り拳を作るあおい。私が両手を触れさせると、あおいは手を開き、私が指を絡めるのを受け入れてくれる。
 お互いの指の間に、相手の指が入る。
 私はその状態で、あおいの両手を押しつける。上半身を浮かせて両手で体重を支えて、あおいをベッドにはりつけにする。
 唇に、まぶたに、額に、頬に、耳に、首に、とにかくキスの雨を降らせる。
 あおいの体がそのたびにピクピクと反応するのを、両手と、絡めた両足で押さえつける。
 再び深く口の中に舌を差し込んで、舌の裏側をなぞる。
 あおいの口内に溢れてきた唾液をすすると、じゅるじゅると、ひどく淫らな音が響く。口の端から垂れた唾液も、顔に舌を這わせて舐めとる。
「あおい、あおい」
 熱病のような衝動が頭を支配していた。この感触も、味も、匂いも、知っているのは、この世で私だけだ。
 もっと、知りたい。あおいの全てを覚えたい。
 唇を唇で挟む。舌を吸う。頬の内側を舐める。
 私は気の済むまで、そんなことを、続けていた。


 私が離れると、この時間は終わる。
 あおいはベッドから体を起こし、着崩れたパジャマを整えると、自分のカバンからポーチを取り出して、何も言わずに部屋を出て行く。
 私はベッドで一人、横たわっていた。
 今頃あおいは、洗面所で顔を洗って、歯を磨いているはずだ。それから、汗ばんだ下着を取り替えて、戻ってくる。
 だいたい、三十分くらいはかかるだろう。じっくりと歯を磨いて、何度も何度もうがいをして、口に残った不快感を少しでも消したいのだろう
 あおいが部屋からいなくなって、部屋で一人になると、急に体から熱が引いていく。頭の芯が冷えて、衝動が冷めていく。
 あの日から、私たちは、こんな狂った関係を続けている。
 週末、月に何度かあおいが泊まりに来て、その日の夜は大抵、キスをする。家族が寝静まってから、私が求めて、あおいが受け入れる。
 最初は唇同士を触れさせるだけのキスだったけど、いつの間にか、こうなっていた。舐めて、舌を差し込んで、吸って、飲んで。
 思いつくことはなんでもした。やりたいことはなんでもした。
 でも、キス以上のことは、求めない。
 たぶん、私はその先もしてみたいと思う。あおいも、受け入れるだろう。
 でもそれはきっと、やってはいけないことだ。キスだけで我慢していないと、本当に駄目になる。
 もちろん、既に踏み越えていることは、自分でもわかっている。
 でも、キスをしなければ、きっと私はあおいと一緒にいることが耐えられない。
 本当はあおいの心が欲しい。あおいに自分の気持ちを受け入れて欲しい。
 でも、それは叶わない夢だ。それがわかっているから、その気持ちを少しでも抑えるために、あおいにキスをする。
 でもそれは、穴の開いたコップに水を入れるようなものだ。その瞬間だけは満たされるけど、後にはただ虚しさが残る。


 あおいが戻ってきて、何も言わずに床に敷かれた布団に潜り込んでいく。
 ああいうことがあると、私たちは何も話さず、そのまま眠る。別に取り決めをしたわけではないけど、そういうふうになっていた。
 約束を果たしても、私たちは山登りを続けた。心配していたけど、それは結局、何も変わらなかった。
 私は何を焦っていたのだろう。
 もし、私がもう少し余裕を持っていれば、自分自身のあおいの好意を、ただの親友同士の感情と思いこんでいただろう。
 私があおいの事を好きだと気づいて、あおいが私の好意を知って、普段の行動はそんなに変わっていない。
 でも、それまでは何気なく手をつなぐことがあったのに、なくなった。私が手に触れると、あおいの体がびくりと反応して、緊張したように強ばる。
 そういうのがつらくて、私はもう、あおいと手をつなぐことはできない。キスの時にはもっと大胆な事をしているけど、外では、もう、きっと。
 好きな人の匂いのする布団に包まれて、私は嗚咽を漏らす。あおいはきっと、まだ起きていて、私の様子に気づいているのだろうけど、何も話しかけてこない。
 体は繋がって、心だけが遠くなって。
 こんな関係になった時、あおいは「二人で頑張ろう」と言った。
 正直なところ、その時は、つらいのは私に付き合ってくれるあおいだけで、私はちっとも辛くないと思っていた。
 あおいを好きになったことは後悔していない。でも、好きだなんて、気が付かなければよかった。
 あの時の言葉の意味を、今の私は、よく理解していた。