野崎「――というわけで、佐倉に頼みたいことがあるんだが」

 鹿島遊は『学園の王子様』である。
 性別は正真正銘の女性。だが、中性的な容姿で、きちんと女子の制服を着ているにもかかわらずしばしば男性に間違われることがある。
 普通ならばコンプレックスになりそうなものだが、本人はむしろそれを楽しんでいる。容姿もよく、スポーツ万能、口も上手い。少女漫画のイケメンにありがちなモテ要素を詰め込んだような彼女は、当然のようにモテて、いつも女子に囲まれてちやほやされている。
 女子が女子の人気を集めているのはおかしな話だが、あそこまで徹底してモテる素質を持っていると、男子としても納得せざるを得ない。まあ、自分たちを差し置いてと腹立たしく思う者も少なくはないだろうが、かといって「自分の方が鹿島遊よりも魅力的である」と自信を持って言える男子はそうそういないはずだ。
 そんな状況をもっとも快く思っていないのは、彼女の所属する演劇部の部長を務める堀政行だろう。とはいえ、妬んでいるとかそういう理由ではなく、ただ単に彼女が女遊びにかまけて部活の練習を蔑ろにするからだ。堀に懐いている彼女は、練習をサボるたびに自分をかまってくれるのが楽しく、そういう理由もあって女子と遊び回っている側面もあるのかも知れない。


 とはいえ、やはり鹿島遊が女性であることは、動かすことの出来ない事実である。
 本人も周りの女子も、そのことは重々承知だ。その上で、モテるイケメンと、その取り巻きというポジションを楽しんでいる。
 鹿島遊と彼女を取り巻く女子の関係は、タレントとファンのようなものだと言って差し支えない。ジャニーズのアイドルの熱狂的なファンは、そのアイドルを追いかけてはいるものの、実際に恋愛対象とは見てはいないだろう。
 だからこその『王子様』だ。
 女子からちやほやされてはいるが、女性である彼女がその誰かを恋人にすることはない。いつかは熱も冷めるだろうし、その時には男子の方に目が向くかも知れない。
 そういう考えもあって、割を食っている男子たちも、表立って彼女を批判することはない。


 だが、世の中には例外もあるものだ。
 繰り返すが、鹿島遊は女性である。いくら女子にモテていても、女子に対してキザな台詞を吐いていても、彼女はあくまで女である。
 そうわかっていても、鹿島遊をアイドルのように扱い、彼女をいつも追いかけて、彼女に笑顔を向けられているうち、勘違いをする者が現れる。
 彼女の笑顔は自分に向けられているのではないか。彼女も自分に好意を持っているのではないか。
 そんな風にして、彼女のことを本気で好きになってしまう女子が現れた。
 もちろん勘違いをした女子にも問題はあるが、思わせぶりな態度を取る鹿島遊にも責任の一端があるだろう。誰が悪いとは断言できない。
 ただ、いつからかそういう状況ができてしまった、というのは事実だ。
 鹿島遊を本気で愛してしまったことを自覚した女子だが、それまで通りに彼女を取り巻いている中の一人として居続けた。だが、その内面はイケメンタレントの追っかけのような気分から、意中の相手の傍らにいる存在へと変化をしていた。
 そんな時、ふと彼女は気が付く。
 自分の他にも、同じような目つきで鹿島遊を追いかけている者がいる、と。
 すぐに相手も同類なのだと気づいた彼女は、二人きりになれるタイミングを見つけて、自分の気持ちを打ち明けた。
 それからは芋づる式で、次々と、同じ気持ちの女子が集まっていった。
 とはいえ、彼女らの行動は変わらない。鹿島遊を取り巻き、ちやほやともてはやす。ただ、今までより粘着質になり、学校を出てからの彼女を交代でつけ回し、それぞれの情報を共有し、ストーカーの集団のようなものができあがった。
 鹿島遊が誰と遊んでいた。鹿島遊がどんな服を買っていた。鹿島遊が何を食べていた。鹿島遊の生理の周期はいつか。それらの情報が、彼女を取り巻く集団の一部で、周知の事実となる。
 本人の全く知らないところで、静かに、そんなことが進行していた。


 その日、鹿島遊にとっては普段通りの何事もない一日だったし、鹿島遊を取り巻く少女たちにとっても、それは同じだった。
 だが、いくつかの偶然が重なった。
 たまたまその日、鹿島遊の取り巻きは、秘密を持った少女たちだけであった。たまたま鹿島遊が近道に選んだのが校舎裏だった。たまたま、周囲に人影がなかった。
 たまたま、鹿島遊と、鹿島遊を愛する少女たちしかいない空間が、できあがってしまった。
 それ自体は、もしかするとそれまでにもあったことかも知れない。だが、少女たちの一人がそのことに気が付いて、口を開いた。
「あれ? 今、いけるんじゃない?」
 会話の流れとは無関係に発せられた言葉に、鹿島遊は立ち止まる。何の話かと問いかけようとするが、彼女を取り巻く少女たちは、お互いの顔を見合わせている。
「できるね」
「そうだね」
 何か自分のわからない話をしている。彼女は突然、言葉の通じない国に放り出されたような気分になった。
 違和感があるが、なにがなんだかわからない。どうしたものかと首を捻る彼女の口に、何か柔らかいものが押しつけられた。
「んぅっ――!?」
 やわらかい布が、後ろから彼女の口に押しつけられていた。とっさに開いてしまった口の中に布の塊が押し込まれ、更にタオルのようなもので口を覆われて、頭の後ろ側で縛られる。
 いわゆる猿轡というやつだ。声を出そうとしても、全く声が出せない。布に吸収されて小さな呻きを漏らすだけだ。
 混乱した鹿島遊が大した抵抗もできないまま、体の後ろで手を縛られ、足を縛られ、数人がかりで持ち上げられて、近くにあった小さな建物に運び込まれた。
 そこは普段使わない備品や用具が詰め込まれた倉庫だった。鹿島遊はその中央の、何もない床の上にゆっくりと下ろされる。
 しばらく、少女たちは周囲に立って彼女を見下ろしていた。
 状況が把握できない鹿島遊は、普段使われていないほこりだらけのコンクリートの床に寝かされて、背中や頭が痛い、制服が汚れてしまう、などと状況とは関係のないことを考えていた。
 暴力を振るわれていないことも、鹿島遊が状況を理解できなかった原因の一つだろう。少女たちは彼女を拘束する時も、この建物に運びこむ時も、あくまで壊れ物のように丁寧に扱った。
 だから、危機感が働かなかった。
 少女たちが内輪だけで楽しんでいた「鹿島遊を人気のないところで拘束して自分たちのモノにする」という、計画とも言えない妄想。誰がどんな風に拘束するかというシミュレーションは「もし宝くじが当たったら」等と同じような、ただの戯言だった。
 たまたまそれができてしまう状況があって、少女たちは実行に移し、成功させてしまった。
 とはいえ、鹿島遊が事態を理解していたとしても、この状況を回避できたかどうか。運動神経が抜群で女子の中では力がある方だが、相手は集団だ。今回のようによってたかって拘束されてしまえば、そんなのは関係ない。
 ごく最初の段階で暴力を振るえば躊躇させることはできたかも知れないが、ほとんど何もされていない状況でそんなことをするのは、どう考えてもおかしい。
 だからある意味で、鹿島遊はそういう状況になった時点で、詰んでいた。
「じゃあ、わたしから」
 少女たちの一人が動いた。床に寝かされた鹿島遊の横に膝をつき、彼女の体の横に両手をつき、顔を首のあたりに近づける。
 そうして、じっとしていた。
 何かをされると思った鹿島遊も、その姿勢のままじっとしている少女に困惑する。やがてその少女は立ち上がり「わたしが」「わたしが」と順に同じことを繰り返される。
 三人目で、妙に首のあたりに息が当たるなと気が付いた。血走ったような目つきで、顔を持ち上げて鼻をブラウスの隙間のあたりに押しつけるような彼女の動きに、鹿島遊は気が付いた。
 匂いを嗅がれている。
 これまでの二人も、きっとそうだったのだ。鹿島遊を拘束した彼女たちは、暴力などの危害を加えるわけではなく、ただ匂いを嗅いでいる。
 ぞっとした。
 気が付いてしまうと、嫌悪感が溢れてきた。
 気持ちが悪い。理解ができない。生理的に受け付けない。吐き気がする。
 だが、少女たちは彼女の気持ちなど無関係に、交代しながら、一人ずつ体臭を嗅いでいく。この時間が早く終わって欲しいと、彼女は必死に耐える。
 そうして、全員が一巡した。最後の一人が離れて、ようやく終わってくれたと、彼女は脱力する。知らず知らず、全身に力が入っていたようだ。ただ寝かされていただけのはずなのに、彼女は異常な疲労を感じていた。
「次は?」
「どうしようか」
「わたしでいい?」
「いいんじゃない?」
 別の少女が鹿島遊の横に跪く。とっさに逃げようとする彼女だが、拘束されて身じろぎしかできない。
 鹿島遊の体の片側を持ち上げる。反対側にいた別の少女がすぐにかがみ込み、彼女の体を横向きになるように支える。
「っ――」
 背中の側で縛られた手に、何かひんやりとした物が触れて、鹿島遊は思わず声を出す。とはいえ、口の中に布を押し込まれているので、外にはほとんど声として漏れてこない。
 どうやらウエットティッシュか何からしい。指の一本ずつを、丁寧に拭いていく。
 それから、湿った生暖かい物に包まれた。
「んっ――はむっ――」
 ぴちゃぴちゃという音と、そんな吐息混じりの声が、背中のあたりから聞こえてくる。
 指を口にふくまれて、しゃぶられている。
 ぞわぞわと、背中をムカデや毛虫が這い回るような感覚が走り抜けた。
 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
 ただ、それだけが頭の中を駆けめぐる。
 胸元の匂いを嗅がれた時の比ではない嫌悪感に、思わず鹿島遊は目をつぶる。
 ザラザラとした舌の感触が、でこぼことした上あごの感触が、固い歯が、ぶよぶよとした頬の肉が、視覚情報がなくなったせいで、よりはっきりと指に伝わってくる。
 ちゅぽんと口から引き抜かれた指は、唾液まみれになり、空気に触れて妙に冷たく感じられる。
 解放されたと思ったのも束の間、今度は隣の指がまた口に含まれる。
「ぃ――」
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 逃げようにも、手足を縛られ、体を押さえつけられていて動けない。何もできず、ただ必死に耐えるしかなかった。
 そして両手の全ての指が終わった。最初の方の指は、唾液が乾ききっているのが彼女にはわかった。
 指を舐めていた少女が立ち上がり、鹿島遊から離れていく。
 そうしてまた別の少女が彼女の後ろに跪き、ウェットティッシュで指を一本ずつ丁寧に、拭き始めた。


 どれくらい時間が経過しただろうか。
 少女たちは、鹿島遊に対し、それぞれの「やりたいこと」をやっていった。スカートの中に頭を入れられ、太ももに頬ずりをされたりもしたが、その頃にはもうほとんど何も感じなくなっていた。
 ただ、早く終わって欲しいと、それだけしか考えられなかった。
 何人目かわからないが、ぐったりと脱力した彼女の頭に手を回し、タオルをほどき、口に詰められていた布の塊を外した。ハンカチか何かだったのだろうが、ぐっしょりと濡れてゴミのようになっている。
 少女はその布きれを持ったまましばらく逡巡してから丁寧に折りたたんでポケットに入れて、それから目を閉じて顔を近づけてくる。
 相手が何をしようとしているのかはわかった。ほとんど動かせない、力の抜けてしまった体で、必死に顔だけを背ける。
「せんぱい――」
 弱々しくそう口にしたのとほぼ同時に、ガラガラとドアが開かれた。薄暗い倉庫の中に西日が差し込んでくる。
「鹿島っ――!?」
 逆光でシルエットしか見えないが、そこに誰がいるのか彼女にはわかった。安堵のせいか、意識が暗転していく。
「たすけて――」
 最後に口にして、彼女が覚えているのはそこまでだった。


 騒ぎを駆けつけた生徒が見たのは、鹿島遊の取り巻きに拳を振るう堀政行の姿だった。
 どうしてそんな場所にいたのか、なぜ女子生徒に暴力を振るっていたのか、彼はその一切の事情を話さなかった
 その騒動の結果として、彼には一週間ほどの自宅謹慎が言い渡された。
 理不尽な話だが、自分と関わりのない女子生徒に暴力を行使した男子生徒に対する処罰としては、異例の軽さだと言えるかも知れない。
 演劇部の部長を務め、素行もいい彼がそんなことをしたのは、きっと何か事情があったに違いない。そしてそれは、説明するのが憚れるようなことなのだ。
 教師達は、恐らくそのように理解したのだろう。だが暴力を振るったのは事実なので、本来ならば停学や退学にしなければならないのを、極めて軽い処罰で済ませたわけだ。
 関係ない生徒の間でちょっとした噂にはなったが、人望のある彼を慕う生徒達の影響もあってか、悪い噂をする方がおかしいという空気になり、自宅謹慎が終わる頃にはもうそのことを口にするような生徒はいなくなっていた。
 内申書にも影響がなく、堀政行本人にとっては、まるで謹慎処分が嘘だったような学校生活が戻ってきた。
 と、全てが上手くいったわけではなかった。
 大きな変化は鹿島遊だ。
 あの一件以来、女性に対して恐怖を覚えるようになった彼女は、いつもおどおどして堀政行に依存するようになった。まるで飼い犬のように、どこに行くにもついて回り、部活にも真面目に参加することが増えた。
 そんな彼女の態度に、彼はあまりいい気がしなかった。傍若無人でいつも不真面目な彼女に苛立つことはあったが、そういう我の強い鹿島遊のことを好ましく思っていた。
 今の彼女は、彼の知っていた鹿島遊ではなかった。粉々に砕け散ったガラスの彫刻を、接着剤で無理矢理に元の形にしようとして、歪になってしまったように。
 彼女は鹿島遊のかたちをしている、鹿島遊ではない何かだ。
 変わってしまった鹿島遊を痛々しく思う堀政行だが、いくら彼が態度に出さないようにしても、本人にはそれが伝わってしまう。そして彼女は「嫌われたのではないか」と誤解をする。
 髪を伸ばし始め、女らしい振る舞いを身につけて、一人の女として彼に媚びた態度を見せる。二人きりになれば、いつでも体を許してもいいと仄めかすような話をする。
 とにかく、必死に、何もかもを利用して、彼を繋ぎ止めようとする。
 事情を知らない者が端から見れば、友人として仲の良かった男女がつきあい始めて、恋愛に目覚めた女子の方が女らしくなったのだ、と、そんな風に考えるだろう。事実として、そう見えても不思議じゃない状態になっている。
 彼女がそんな風になってしまった理由を知る堀政行は、とにかく安心させようと、常に気を遣う必要がある。メールの返信が遅れると心配するのでいつも携帯を手放せない。学校では出来るだけ一緒に過ごす。放課後も、部活はもちろん、部活が休みの時も。
 休日だってそうだ。休みになればどちらかの家で、ただ彼女を安心させるために、二人きりの時間を過ごす。
 そうなると、彼の生活は全て鹿島遊が中心になる。授業と部活は今まで通りにこなしてはいるが、それ以外はもう何もできない。自由に使っていた時間は、彼女のためだけに費やさねばならないだろう――


「――というわけで、佐倉に頼みたいことがあるんだが、堀先輩がアシスタントをできなくなった代わりに、しばらく背景も描いてくれないだろうか?」
「重っ! 前提が長い上に重たいよっ!」