M氏とコミケ

 M氏は、どちらかと言えば平凡な人間だが、特殊な性癖を持っていることを自覚していた。それは『免許証を提示しながら性行為をする画像に、二次元三次元問わず過剰に興奮する』というものだった。
 さて、皆さんはこの『免許証を提示しながら』という部分をこの一文を読んだだけで理解できたであろうが、万が一疑問を持たれた方がいても困るので、説明しよう。
 要するに、免許証とは身分証明である。免許証を晒すということは、その人物は住所や本名が不特定多数の人間にばれてしまう可能性がある。下手をすると、本人の学校や職場などを特定した何者かが、そこにその写真をばらまく可能性もある。
 そうなると、その人物はその場ではまともな目では見られなくなる。仮に転職、転校、引っ越しなどをしたとしても、その先でまた同じ事が繰り返される可能性はある。
 つまり、免許証を晒しながらの性行為とは、常に社会的身分が崩壊する危険性を孕んでいる。そんな破滅と隣り合わせの状態で快楽に溺れているという状況が、M氏はたまらなく興奮するのである。
 ちなみにこういった画像であるが、pixivには一件しか存在しない。特殊性癖の見本市とも呼べるpixivで一件しかないのなら、日本でそういった画像を描いている人は数えるほどしか存在しないのだろう。需要が極端に少ないのは、もしかしたら日本でそのジャンルに特に興奮を覚えるのは自分だけなのではないか、M氏はそんな風に思っていた。


 さて、この日、M氏はコミックマーケットに参加していた。
 職場では巧妙にオタクがバレないよう、カラオケではサンホラやテニミュを歌いたいのを我慢して湘南乃風オレンジレンジを歌い、休憩時間にはライトノベルではなく村上春樹を読む。人を乗せた時に車でかける音楽はアニメソングではなくビレッジバンガードで販売されていた女性ボーカルのCD。
 という風に、日常はオタクであることをひた隠しにしているM氏であるが、コミックマーケットではその抑圧から解放される。特に知り合いがいるわけではないが、周囲は全てオタクなのだ。
 ひょっとすると、自分と同じ性癖を持つ人間がいるのでは……いや、まさか……
 そんな風に考えていたM氏は、衝撃の光景を見て足を止める。
「んふぉぁぁぁぁ」
 声にならぬ声が漏れた。
 M氏が見つけたのは、あるサークルのポスターであった。通りかかっただけなので知っているサークルでもなんでもないが、表紙の画像を引き延ばしたそのポスターは、M氏を釘付けにするのに十分であった。
 すなわち、免許証を片手に持ち、反対側の手に『雌奴隷契約書』なるものを持ち、M字開脚で男性の股間にまたがっている画像である。
 女教師のような格好をしたそのキャラクターは何かのアニメの登場人物であるらしいのだが、M氏はその作品を知らなかった。
 だが、M氏は探し求めていたジャンルを発見した。ジャンルコードが存在するわけでもない、それで申し込む者もいない『免許証提示しながら性行為』のジャンルを。
 描いている者も滅多にいないジャンルなのだから、当然のようにそれに執着する者も少ない。すなわち、このジャンルについて語らせれば、自分は日本でも指折りの人物であるとM氏は自認していた。
「すいません」
 M氏が意を決して口を開くと、目の前に座っていた男が立ち上がる。
「あの、これ描いたの、誰ですか?」
 M氏がそう言うと、今立った男の後ろでパイプ椅子に座り、一心不乱にスケッチブックにペンを走らせていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
「俺ですが」


 そこからしばし、M氏にとって夢のようなひとときだった。
 pixivで一枚しか画像が存在しないようなマイナージャンルを描いた同人作家が目の前にいる。M氏はいかにこのジャンルに対し熱意を持っているか、なぜこのジャンルが興奮するか、などと熱弁をふるった。
 しかし、作家の反応は曖昧なものだった「はあ」「どうも」のような生返事をするだけで、M氏に対して何かを主張することはない。
 そのうち、M氏はこの作家が『本当はこのジャンルが好きなのではなく、なんとなく描いただけではないか』と思うようになった。
 実際、テーブルに積んである本をぱらぱらと読んでみると、表紙に描かれているようなプレイはない。確かにビッチ系のキャラクターがビッチな行為に及んではいるが、M氏にとって重要なのは免許証の有無であった。
「ありがとうございました」
 ここにあったのはM氏の求めたジャンルではなかった。本を置いて頭を下げると、そそくさとそのブースを後にするのであった――


「今の人、知り合いですか?」
「いや、違うと思う」
 M氏が帰った後、話しかけてきた売り子に、作家が答える。
「どうやら、こういうプレイが好きらしい」
「意外といるもんですね、僕らの他にも」
「そうだね」
 作家と売り子は、遠ざかるM氏の後ろ姿を見ながら、そう話す。
 今回の表紙は、作家が数年前にネットのどこかで見かけたシチュエーションで、ビッチ系の作品だからちょうどいいと思って描いてみたものだった。リアルでの友人でもある売り子も同じ画像を見たことがあったようで、イベントの数日前から、またイベントが始まってからもしばらくこの話題について話している。
「今日だけで、10人くらいですか」
「15人くらいいなかったっけ」
「では間を取って13で、どうですか?」
「なんだそりゃ」
 売り子の妙な発言に作家は苦笑する。
 今回、ブログに表紙を公開してからはいくつかコメントをもらい、そして会場で表紙を見た一般参加者10人以上に話しかけられるという事態になった。
 作家も好きで描いた画像ではあるが、ここまでの反響は想定していなかった。何人からも同じような論調で話しかけられ、知らない人と話すのが苦手なこともあり、あまりちゃんとしたやりとりはできていなかったかも知れない。
「すいません」
 そんなことを考えながら、再び作家が頼まれたスケブにペンを走らせていると、ブースの前に誰かが立っていた。
「あの、これ描いたの、誰ですか?」