C84サンプル 真央の望む未来 一


 チャンネルが切り替わるように、いつの間にか白い世界にいた。
 ふわふわと宙に浮いたような感覚。ぼんやりとした視界が徐々にはっきりとして、白い天井に棒状の蛍光灯が目に入る。
 どこかで寝かされているらしい、と真央は気がつく。
「お姉ちゃん!?」
 横から恵の顔が現れた。いつも天真爛漫で笑顔を欠かさない恵が、少しやつれたような顔で、泣きはらしたような目をしている。
「どしたー……メグ」
 喉が掠れたように、上手く言葉が出せない。
「森さん! 早くキョロくんを! みんなに連絡もお願いします!」
「かしこまりました」
 視界の外で、ぱたぱたと足音が遠のいていく。
 いつもおっとりとした恵が、てきぱきと指示をしている。それだけで、今が普段とは違って、異常事態なのだとわかる。
 そしてそれは、自分のせいに違いない。思い返してみると、少し前に意識を取り戻す直前の記憶は、京夜とのデートで――ベンチから滑り落ちた瞬間だ。
 頭を打って、しばらく意識を失っていた……と、考えるのが妥当だろう。
「わり……心配かけた、みたいだな」
「お姉ちゃ――」
 涙をあふれさせながら、恵は真央の頭に抱きついてくる。
 大きくて弾力のある胸と、それを包む制服のボタンが頬に押しつけられて正直なところ痛いし、自分にはないものを意識させられるので少しばかりイラっとはするものの、それくらいは我慢するべきだろう。真央はそう納得する。
 それからどれくらいだろうか。どたどたと、足音が近づいてくるのが感じられた。
 何となくその相手を察したところで「部長!」と、ドアが開く音と同時に声がかかった。
「おー……ここだー」
 恵の胸に遮られているせいで、声は聞こえたものの京夜の姿は見えない。
「メグの胸に、埋もれてるぞー」
「ごっ、ごめんなさい」
 冗談めかして言った真央の言葉に、恵は慌てたように体を離した。涙をぬぐう顔は、先ほどまでの張りつめていた表情とは違って、少しだけゆるんでいる。
「ま――部長、目を覚ましたんですね……よかった……」
 ベッドの横にやってきた京夜は、今まで寝転がって仮眠でもしていたのか、髪がぼさぼさだ。真央の顔を見て、心底ほっとしたように息を吐いている。
 少し前までの記憶の中にいる京夜と比べると、髪が整っていないせいもあるが、疲れたような印象を受ける。不思議なもので、着ている制服までどことなくヨレっとしているように見える。
「ん?」
 そこで真央は一つの疑問を持った。
 京夜とのデートは、土曜日だった。京夜にキスをするために上がったベンチから落ちたのは、夕方ぐらい。あの時の京夜は私服だった。
 しかし、恵と京夜の服装は、どちらも制服姿。二人が揃って制服を着ているということは、少なくとも今は土曜や日曜ではない。
「あのさ……私、どれくらい寝てた?」
 真央がそう口にすると、京夜と恵ははっとしたように顔を見合わせる。困ったような表情から、言いづらいんだろうな、とは察せられる。
「いいって、はっきり言ってくれよ……まさか、一週間とか?」
 冗談めかして言うと、京夜と恵の表情がますます曇っていくのがわかる。二人の顔を交互に見ているうち、真央は気がついた。
 妙に重い体をゆっくりと起こし、京夜に手を伸ばす。肘の内側あたりには、点滴の針がささっていて、ベッドの横にある機械から全身にチューブやコードが伸びているが、それくらいの動きには支障がないようだ。
「部長、無理に動いちゃ駄目ですよ!」
 慌てて身を乗り出してくる京夜の顔をじっと見つめる。
「お前さ……まだ床屋行ってなかったんだな」
「あ――」
 戸惑う京夜の頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。
 髪がぼさぼさに見えたのは、整っていないだけではない。真央が覚えているよりも、長くなっているからだ。
「京夜……教えてよ。私、どれくらい寝てたんだ?」
 意を決したように、京夜は真央を見つめる。
「一ヶ月……です」


 それから、紫音や綺羅々やタマのGJ部員、妹の聖羅などがやってくるまでに、真央はだいたいのことを理解した。
 この一ヶ月、真央はずっと眠っていた。
 ベンチから落ちて頭を打った真央に対し、パニックになった京夜はとりあえず恵に連絡をして、森さんの耳に入ったおかげですぐに救急車などの手配ができた。本来ならば京夜が救急車を呼んでいるべきなのだろうが、森さんを経由したのは間違いではないだろう。天使家と縁のある病院に運び込まれ、そこで精密検査を受けた。
 頭を打ったのが原因だとは思われたが、ぶつかった場所が腫れてこぶになっていただけで、検査結果では脳に損傷などはなかった。目を覚ませば入院の必要もなく、すぐに帰ってもいいということだった。
 悪化するようなことはないと判断されたが、目を覚ますまでは自分の意志で食事をできないので点滴で栄養を体内に入れる必要もあるし、起きるまではこの個室で眠り続けることに決まった。
 それから、一ヶ月経過してしまった、らしい。
 原因もないのに目覚めないとなるとさすがにおかしい。どこかに損傷があって気付かれていないだけではないかと頻繁にCTスキャンなどで調べるが、異常はなかった。
 異常もないのに眠り続けている……損傷がないことを楽観視できなくなった。
 現代の医療ではわからないところに原因があるのではないかとか、様々な議論がなされている中、一ヶ月眠り続けていた真央がようやく目を覚ました、というわけだ。


「いやあ、真央が目を覚ます場面に居合わせられなかったのは残念だよ。私もキョロくんや恵くんのように、毎日お見舞いに来るべきだったかな」
 いつも通りに見える紫音だが、どこか張りつめていた糸が切れたような、脱力感がある。
「まお、げんき? だいじょうぶ、なった?」
「まーちゃん、あんまり無茶して心配させやがるんじゃねーですよ。みんなまーちゃんが起きないから大変だったですよ」
「そういうタマも、心配はしていたみたいだったけどね」
「そりゃまあ、するに決まってるじゃないですか」
 先ほどまでの空気とはうってかわって、わいわいとにぎやかな空気になる。普段、GJ部の部室で過ごしている時よりも、にぎやかなくらいだ。
 その様子を、一歩引いた所から森さんと並んで聖羅が見ている。
「聖羅……お前も、こっち来いよ」
 そう呼びかけると、人の隙間を縫うように、静かに聖羅が近づいてくる。
 聖羅は一番年下の妹だが、天使家の当主である。この一ヶ月、どれほど尽力してきたかはわからない。
「ありがとな……苦労かけちまった」
「姉さま」
 いつもは天使姉妹の中でも一番大人びたところのある妹だが、さすがに今日はその仮面を付けたままではいられなかったようだ。
「姉、さま……」
 ぎゅっと真央の手を握りしめ、顔を伏せる。
 ぽたぽたとベッドの端に雫が落ちているのは、この場で真央にしか見えていないだろうし、もし気付いた者がいたとしても、誰も何も言わないはずだ。


「ふわぁ……」
 真央が目覚めてからどれくらいの時間が経っただろうか。ひとしきり皆で喜びあった後、真央は急に疲れを感じた。
「部長、どうしましたか?」
「ちょっと、眠い……かも」
「真央は一ヶ月も眠っていたんだ。まだ体が本調子ではないのかも知れないね」
「ん……そ、かな」
「お姉ちゃん、また明日、ですよ?」
「おう。心配、すんなって」
 まぶたが重くなる中、ふと、一つだけ気になったことがあった。
「なあ、キョロ」
 それだけで、他の部員達が真央の横を空けて、京夜がその隙間にやってくる。
「どうしました?」
「耳」
 京夜が真央の顔にそっと自分の耳を寄せてくる。視界いっぱいにぼさぼさの頭が近づいて呆れそうになるが、自分がこんなことになったのが原因なので、仕方がない。
「言ってねーの?」
「さすがにそんなタイミング、なかったです」
 もちろん二人が恋人同士になったことだ。
 告白されてからデートまでそれほど日数がなかったし、真央も京夜も、他の部員達のことを考える余裕は正直なかった。デートの最中もそのことについてはあまり深くは話さなかったが「別に秘密にすることでもないよなー」という真央の言葉で、なんとなくだが、週明けあたりにいいタイミングがあれば伝えるような流れになっていた。
 それからのことは語るまでもない。真央が眠ったまま起きなくなった状況の中で「実は恋人同士になっていた」などと脳天気なことを京夜が言えるはずもない。
「……気付いてる、かもだけど。ま、明日言えば、いっか」
「え?」
「もうだめ、ねむ……また明日、な」
 目を閉じると、真央の意識はすーっと落ちていった。