わたしの不真面目なセンパイ 1−2

わたしの不真面目なセンパイ 1−1


 そうこうしているうち、梓は部室の前に到着していた。三階への階段を上ってきた正面にあるのは音楽室で、軽音部はその横の準備室を使っている。
「よし!」
 ドアの前で気合いを入れ直す。今日こそしっかり練習をしよう。
 深呼吸をしてから、梓はドアを開いた。
「おー、梓ー」
 最初に反応したのは部長の律だった。椅子に座ったまま、片手を上げてひらひらと振っている。
 いつものように部室の奥で机を囲んでいる。今日のデザートはカップに入ったプリンのようで、律が振っている手にはプラスチックのスプーンがつままれていた。
 ここに来るまでに演奏する音が聞こえていなかったので、練習をしていないのは既にわかっていた。これくらいはすっかり慣れてしまったので、今さら目くじらを立てることでもない。
「あら梓ちゃん、今、カップを用意するわね」
 すぐに紬が立ち上がり、梓のためにお茶を準備しようとしてくれる。
「梓、どうかしたか?」
 部室に入ったところで立ち止まっている梓に、澪が話しかけてくる。両手でティーカップを抱えるようにして、首をかしげている。
「あの、唯先輩はどうしたんですか?」
 梓が部室に入った時、先にいたのは三人だけだった。それだけならトイレか何かで席を外している可能性もあるが、机には三人分のお茶とプリンしか置かれておらず、手前にある長椅子に置かれているカバンも三個だけだ。ギターケースも見あたらない。
「唯……唯か。あいつはいい奴だったよ。亡くすには惜しい奴だった」
「いえ、そういうのいらないですから」
 また変なことを言い出しそうな律に釘を刺す。
「センセー、中野さんが冷たいでーす」
「お前が馬鹿なことを言っているからだろ」
「痛っ」
 いつものやりとりを見ながら、梓は部室に入っていき椅子に座る。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 目の前に猫のマグカップを置いてティーポットから紅茶を注いでいく紬に、梓は礼を言う。
「唯ちゃんはね、小テストを受けてるの」
「小テスト、ですか」
「そ。英語の構文テストな」
「みなさんは先に終わったから来ているんですか?」
「うんにゃ、あたしらの中で受けてるのは唯だけだ。追試なんだよ」
「追試って……唯先輩、大丈夫なんですか?」
「まあ成績には関係ないらしいんだけどな。ただ、合格点を取れなきゃ放課後に追試を受けなきゃならないんだ。それも駄目だったらまた明日、更にその次の日とエンドレスなわけだ」
「はー……」
 思わず気が抜けてしまう。今日はちゃんと練習しようと思っていた矢先だったので、なおさらだ。
「で、律先輩は部室に来てていいんですか?」
「なんだよその目はー。あたしはちゃんと予習したからバッチリだぜ!」
「私が昨日の夜に電話してやったからだろ。忘れてたくせに」
「澪ー、ばらすなよー。格好悪いだろー」
 そんなやりとりを尻目に梓は紅茶を口に運ぶ。
「梓ちゃんもプリン食べる?」
「あ、私は後でもいいです」
「梓は本当に唯が好きだなー。わざわざ待っててやるなんて」
「へっ? べ、別にそんなことはないです! どうせ唯先輩が食べ終わるまで練習できないじゃないですか。だったら、今食べても唯先輩が来てから食べても一緒です!」
「梓の方が唯より食べるのちょっと遅くないかー?」
「早食いします!」
「もったいないな、いいプリンだからじっくり食べた方がいいぞー」
 三人が食べているプリンをよく見ると、容器は分厚いガラス製で、ゼラチンで固めたものではなく卵と牛乳を原料に蒸し焼きにされたもののようだ。スーパーなどで見かけるプラスチック製の容器に入ったものに比べると高級感がある。
 もちろん、紬が持ってきという時点でいい品物であることは、梓にもわかっていた。
 先に食べている三人を見ていると、梓も食べたくなってくる。律に指摘された通り、一緒に食べ始めれば唯の方が先に食べ終わってしまうだろう。小テストを終えて疲れてやってきた唯が一人で食べている状況がなんとなく忍びなくて待っていようと思っていた梓だったが、先に食べてしまおうかと考えが揺らぐ。
「あ――」
 やっぱり食べてしまおう。机の中央に置かれた箱に手を伸ばそうとしたところで、部室のドアが開く音が聞こえた。
平沢唯、テストを終えました!」
 入り口のところで、敬礼のポーズをしている。また妙なブームが先輩の中に来ているのだろう。梓はそう考えて少しだけ呆れる。
「ご苦労! 平沢隊員、小テストの首尾はどうだったかね!」
「はっ! 報告させていただきます!」
 まるで軍隊でのやりとりのように、お互い敬礼し合う律と唯。妙に息が合っている。
 教室でもやっているのだろうか。そう考えると、梓はなんとなく仲間はずれになったように感じてしまう。もちろん、一緒になって混ざりたいわけではない。
「明日、また、追試であります……」
「オウ……」
 唯が弱々しく答えると、腰を浮かしていた律が椅子に崩れ落ちる。
 脱力するのは梓も同じだった。先ほどの話の通りなら、唯は明日また追試を受けなければいけない。ただでさえ練習をしないのに、その時間が更に圧迫されてしまう。
「あ、今日はプリンなんだ。私も食べるー」
「待ってください」
 机に駆け寄ってきて箱に伸ばした唯の手を、梓は片手で制する。
あずにゃん?」
「先に勉強をしてからです。明日また放課後に小テストなんですよね?」
「あの、それちょっと違くて」
「え? さっき律先輩からはそう聞きましたよ?」
「明日からは、小テストの前に補習もあるのです……」
「……」
「えーと、あずにゃん?」
「あーもう! 唯先輩はどうしてそんなにダメダメなんですか!」
「え……わたし、ダメダメ……?」
「ダメダメだな」
「梓の言うとおりだな」
「そうねえ」
「ガーン」
「プリンは後です! 小テストの範囲を完璧に覚えるまで我慢してください!」
「しょ、しょんなぁ……」
「さ、唯先輩、座って参考書を出してください。私が見ててあげますから、しっかり勉強しましょうね」
 梓がそう椅子を示しても、唯は縮こまったまま動こうとしない。
「唯先輩?」
「あのー、まことに申し上げにくいのですが……」
「なんですか?」
「参考書、教室に置いて来ちゃいまして」
「今すぐ取りに行ってください!」
「ひっ、ひゃい!」


「でね、あずにゃんったら厳しいんだよ。一問でも間違えたらやり直しだし」
 テーブルを囲みながら、唯は妹の憂に今日あった出来事を話す。
 いつも通りの二人の食卓。忙しい両親はあまり帰ってこないので、家事は専ら憂が担当している。今食べている料理も憂が作ったものだ。
 話題はいつも学校のこと。憂が聞き役になることが多いので、唯が高校に入ってからはだいたい軽音部の話が中心になる。
「おかげで今日は勉強ばかりでプリン食べる時間なかったよ。紅茶は飲みながらだったんだけど」
「だから持って帰ってきたんだね」
「うん、ムギちゃんがお土産にって箱ごとくれたんだ。早く食べたいなー」
「ご飯を食べてからね」
「はーい」
 ぱくぱくと唯は食事を進める。
「ひょっとして……わたしのこと、嫌いなのかな?」
「梓ちゃんが? どうしてそう思うの?」
「いっつもわたしにだけ言葉がきついんだよ。勉強だけじゃなくて、ギターの練習も厳しいし。今日なんてダメダメなんて言われたんだよ?」
「お姉ちゃんはやればできるって思ってるんじゃないかな」
「えー、でも最近、あずにゃんあんまり抱かせてくれないんだよー。うう……あずにゃんに嫌われたくないよう……」
「嫌いだったらわざわざ勉強を見てくれたり、練習に付き合ってくれたりしないよ」
「そっかな」
「そうだよ。お姉ちゃんのことを好きなわたしが言うんだから信じてよ」
「えへへー、憂大好きー」
「わたしもだよお姉ちゃーん」
 唯が抱きつくと憂も抱きしめ返してくる。憂の抱き心地は気持ちよく、機会があればついつい抱いてしまう。
あずにゃんと違って憂は逃げないから抱きやすくていいなー」
「梓ちゃん、逃げちゃうなんてもったいないなあ。こんなに気持ちがいいのにね」
「ねー」
 しばらくそのまま、二人で抱き合って過ごす。憂の体温と鼓動が伝わってくる。
 憂と抱き合っていると、心が落ち着いて穏やかな気分になる。梓を抱いた時のドキドキする感じとは違う。体格の違いがそう感じさせるのか、憂と違って抵抗されるからそうなるのか、唯にはその理由はわからない。
「はっ、一つ問題が!」
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「このままじゃご飯が食べられないからプリンも食べられないよー」
「それじゃあ、早く食べちゃわないとね」
 すっと離れてしまう憂に、唯は若干の名残惜しさを感じる。先に食べ終わっていた憂は、空になった食器を持ってキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
「あれ、プリン二つも入ってるよ。お姉ちゃんの分だけじゃなかったの?」
「え? さわちゃん……は、後から来てわたしが勉強している横で食べてたんだっけ」
「他のみんなは?」
「わたしが行ったら食べてる途中だったような……あ、あずにゃんの前にはプリンがなかったかも。先に食べたのかな」
「梓ちゃん、今日は掃除当番だったから教室を出たのけっこう遅かったよ」
「じゃあ、食べないでわたしの勉強を手伝ってくれたの?」
「そうだと思うよ。ね、梓ちゃんはお姉ちゃんのこと嫌っていたりしないでしょ?」
「そっかー……えへへ、なんか嬉しいなー。あ、ういー、プリン持ってきてー」
「食べ終わってからね」