わたしの不真面目なセンパイ 1−1

「どうしたの梓、溜息なんて」
 放課後、掃除当番の梓は教室の床を掃いていた。声をかけてきたのは親友の純で、黒板を水ぶきしていた手を止め、梓に顔を向けていた。
 ぼんやりとしていた梓は、一瞬遅れて何を言われたか理解する。
「溜息?」
「そう、出てたよ。気付いてなかった?」
「全然……」
 そもそも溜息は自覚的に吐くものではない。考え事をしているうちに、自然と漏れてしまったらしい。
「梓ちゃん、何か悩み事でもあるの?」
 話に入ってきたのは、純と同じく親友の憂だ。梓の所属する軽音部の先輩である唯の妹で、そういう縁もあって梓にとって一番の親友といってもいい。
「悩み事ねえ」
 少し前まで考えていたことを思い返す。
「私がこうして掃除してる間、先輩たち練習してないんだろうなーって思って。私がいないとみんな真面目にやってくれないから」
 その言葉に、憂が困ったような苦笑を浮かべる。不真面目な筆頭が彼女の姉だ。
 軽音部はあまり熱心ではない。放課後はほとんど毎日部室に集まって二時間ほど過ごすものの、全く楽器に触れない日もある。練習する日でも、文化祭などが迫っている時期でもなければ、せいぜい三十分といったところだ。あとは机を囲んでお茶を飲んでケーキを食べながら雑談をしているうち、気が付けば下校時間になる。
 梓はそういう弛緩した空気が苦手で、何度も改善しようとしたものの、一年以上経っても成果は少ない。どちらかと言えば梓よりのスタンスである澪も、他の三人に流されて怠けてしまっている。もっともそれは梓も同様だった。
「でもさ、軽音部ってあんまり練習しないわりにライブはかっこいいよね」
「そっかな」
 純に褒められると、梓も悪い気はしない。思わず口元がゆるんでしまう。
「すごい上手ってわけじゃないし、実際、細かいミスはけっこうあるじゃない? それでも、聞いているとうまくかみ合ってるっていうか、いい感じなんだよね」
「ありがと。でも、やっぱり純にはミスしてるってわかっちゃうか」
「そりゃあね。これでも私、音楽やってますから」
 ふふんと純は胸を張る。
 いい加減な性格のせいで普段は梓も忘れてしまっているが、ジャズ研でベースを担当している純はそれなりに音楽の技術も知識も備えている。だからこそ彼女から自分たちの音楽が評価されるのは、少しだけ誇らしい。
「でもね、それで満足してたら駄目なの。もっと練習して上手くならなきゃ」
「お姉ちゃん、家でけっこうギター弾いてるよ?」
「みんな練習していないわけじゃないってのは知ってるよ。でも、やっぱり合わせて練習すると全然違うから」
 個人練習はもちろん必要だが、一人だとテンポが狂ってもなかなか気付くことができない。それぞれのパートを一通り演奏できる状態になってさえいれば、あとは全員で一緒に練習した方がいい。
「だから、私が早く部活に行って先輩たちにもっと練習してもらわなきゃ」
「じゃあ喋ってないで早く掃除終わらせたほうがいいんじゃない?」
「あ――しまった!」
 純の指摘に、梓は慌てて掃除を再開した。


 教室を出た梓はカバンとギターを持って廊下を歩く。
 軽音部の部室は、三階にある音楽室の隣だ。古い校舎なので防音設備が整っているわけではないものの、同じ階に他の教室がないので、どれだけ演奏しても咎められることはない。
 正直なところ、軽音部は恵まれた環境にあると梓は思っている。
 音楽をやるには、いくらでも音を出せる場所が必要だ。一度、部室が使えなくなって貸しスタジオに行った時にそれを実感した。部室がなければまともに練習することができない。だから、だらけてばかりで練習をしないのがもったいない。
 中でも一番遊んでいるのは梓と同じギターの唯だ。同じとは言っても先輩である唯の方がリードギターで、梓はサブを担当している。
 しかし、技術の面では梓の方が勝っている。高校で軽音部に入ってギターを始めた唯とは違い、梓は家族の影響もあって子供の頃からギターに触れているので、そうなるのは当然のことだ。
 他の部員に聞いても全員がそう認識しているだろう。何より唯本人もそれを理解しているはずだ。
 それでも、唯の代わりに自分がリードギターをやりたいとは思わない。先輩だから遠慮しているというのもなくはないが、それよりも梓は唯の演奏には勝てないと思っている。
 練習もさぼりがちで、音楽用語も知らず、知識もない。それでも唯の演奏には自分にはない魅力がある。特に本番になればそれが顕著で、観客には梓より唯の方が上手いと思っている者もいるだろう。
 本番でも唯は弾き間違いをすることが多いが、それをミスのまま終わらせず、アドリブでフォローしてアレンジのように変えてしまうことがある。それは梓にもできないことで、恐らく天性の才能なのだろう。
 そもそも、ギターを始めてまだ二年も経っていないのに、あの中に遜色なく溶け込んでいるのも異様だ。
 梓だけでなく、他のメンバーだってそれなりに下地を持っている。幼なじみ同士の澪と律は昔から楽器を持っていて練習していたし、紬はキーボードの経験こそなかったものの、ずっとピアノを続けていたというのは梓も知っている。だから放課後ティータイムができたのは先輩たちが高校に入ってからでも、三人はその時点でそれなりの経験を持っていた。完全なる素人だったのは唯だけだ。
 しかし、新入生歓迎会で梓が魅せられたのは、唯のギターだった。もちろん他のメンバーも素晴らしく、全員が団結して素晴らしい演奏を作り上げていた。
 しかしそれを牽引していたのは唯のギターで、梓はそれに打ちのめされた。一目惚れと言ってもいい。もしあの演奏がなかったら、軽音部に入っていなかっただろう。
 軽音部に入り、現実を知っても、やはり唯が特別であるという認識は変わらなかった。
 飲み込みが早く、梓が時間をかけて覚えた技術をそれほど苦もなく修得してしまう。我流で練習していた頃よりも、梓が教えるようになってからの方がより早いスピードで上達しているはずだ。梓が持っている数年分のアドバンテージなんて、唯が本気で練習をするようになれば、あっという間に吹き飛んでしまうだろう。
 何年も練習して積み上げてきたものを、軽々と乗り越えられてしまう。そう考えると梓は若干の嫉妬を覚えなくもないが、それ以上に楽しみが勝る。
 自分と同等かそれ以上の技術を得た唯が、どんな演奏を聴かせてくれるのか――
 それを考えるだけで胸が躍る。自分自身の上達より、今の梓は唯が上達してくれることが楽しみになっていた。
 そのために必要なことは、やはり練習時間の確保だ。
 ただ梓も、練習だけをしていればいいとは思っていない。放課後ティータイムというバンドの演奏を素晴らしいものにしているのはメンバー同士の仲の良さで、練習だけではそれは培われない。のんびりする時間も必要不可欠なものであることはわかっている。
 しかし、何事にも限度がある。お茶を飲んでお菓子を飲んでいるだけで全く練習をしなければ上達するはずもない。全く練習しない日を減らし、なおかつ練習時間を増やす。
 部室にいるのが二時間として、練習時間はせいぜい三十分で、残りの一時間半程度はだらけて過ごしている。その遊んでいる時間からたった十分を練習に回すだけで、今より練習時間が三割も増えることになる。
 そのためには、自分が厳しくする必要がある。多少嫌われ役になったとしても些細なことだ。