ゆるまぎ 部活見学1

 佐倉杏子は一人で廊下を歩いていた。
 本日の全ての授業は終わったが、まだ放課後ではない。授業一つ分の時間を費やして部活見学が行われている。
 既に部活に所属している生徒は部室や活動場所で待機し、勧誘のため一年生を迎えることになる。小学校のクラブ活動と違って部活動は必ずしもどこかに入らなければならないわけではないので、帰宅部の生徒はそれぞれの教室で自習をしている。
 この春、見滝原中学に入学したばかりの杏子は見学する側だ。しかし、見学といってもどこかの部に入るつもりなど毛頭ない。もし目当ての部活があるなら、それぞれの部の活動場所が記されたプリントを教室に置きっぱなしにはしてこない。
 一応、今は特別学級活動という時間であるらしい。小学校で言うところの道徳の時間と同じような扱いなのだろう。
 チャイムが鳴ればホームルームもある。だから帰ることもできず、いかにも見学していますといった風情でぶらついている。
 周囲を見回すと、廊下を歩いている一年生はどこか楽しげだ。本来なら勉強しているはずの時間に自由に校内を歩き回れるせいだろうか、はしゃいで教師から注意されているグループをいくつも見かけた。
 どちらかと言えば、杏子のように一人で歩いているのは少数派だ。小学校から中学校に上がったからといって、それまでの人間関係が完全にリセットされるわけではない。この時間だけではなく、休み時間なども同じ小学校の出身同士で固まっている。時間が経てば徐々に同じ部活動や塾などによって分かれていくのだろうが、今はまだ小学校の関係を引きずっている。
 杏子は学区の関係で同じ小学校からの出身が少なく、それなりに仲のよかった友人は皆まとめて別の中学に行ってしまった。一人でいるのはそれがもっとも大きな理由だ。同じ小学校出身で、顔を知っている程度の者はいなくもないが、話したことのない相手と一緒に見学をしたいとは思えない。
 杏子の目の前で、三人組の女子生徒達が近くにあったドアの中に飲み込まれていく。同じクラスの生徒だった。ドアの横には被服室と書かれたプレートがあり、中から聞こえてくる声によると手芸部らしい。
 もっとメジャーな部活ならともかく、あの三人が全員手芸に興味がある――ということはないだろう。誰かと回っていたら、付き合いでそれほど見たくもない部活を見学して、断りきれずにそのまま入ってしまうなんてこともありえた話だ。
「あたしはゴメンだね」
 友人ならともかく、大して知りもしない相手と入りたくもない部活に入るというのは耐えがたい。そう考えると、一人でいた方が何倍も気が楽だった。


「ん?」
 ただ時間を潰すために歩き回っていた杏子は、妙な匂いを感じて足を止める。
 甘い。バターや卵の混ざった、洋菓子店の前で感じるような甘ったるい匂いだ。それがどこからか漂ってくる。
 興味を引かれて、匂いの元を探して歩き出す。きっとどこかにお菓子を作る部活があるのだろう。小学校にはそういうクラブはなかったが、中学校はやはり違うんだなと納得する。
 学校でお菓子を食べられるのは、ちょっと魅力的だ。小学校も中学校も給食があるので、普通は他のものを口にすることはできない。特に杏子は、家でもあまり甘い物を食べる機会が少ない。
 鼻を頼りに場所を特定するのは思っていたよりも難しかった。人間は犬などの動物に比べて嗅覚に優れていない。分かれ道、階段、それらがあるたびにクンクンと鼻を鳴らして進み、匂いが弱くなったら戻るといったことを繰り返す。
 部活の案内が書かれたプリントを持ってくるべきだったと杏子は後悔する。探し始めてから時間がかかっているのを考えると一度教室に戻った方がいいのかも知れないが、今いる場所に戻ってこられる保証も、目的の部活が見つけられる保証もない。
 行ったり来たりしながら、客観的に見ている者がいれば何をしたいのかわからないような移動を続け、発生源と思われる場所を見つけた。
「ここ……か?」
 そこには『茶室』のプレートが掲げられていた。ここを使う部活は、茶道部以外には考えられない。
 確かに茶道でもお茶菓子を食べることはある。だが、出てくるのは普通なら和菓子だ。それに、茶道はお茶の飲み方やマナーを身に付ける部活であって、お茶菓子を作るのは活動内容に含まれないだろう。
 ここが一番匂いが強いのは確かだ。通り過ぎようとした時に、それがわかった。だからこの教室で間違いない。
 どうしたものかと逡巡していると、杏子の目の前でガラガラとドアが開いた。
「見学希望?」
 現れたのは、金髪でフランス人形のように髪をカールさせた少女だ。思わず視線がいってしまうほど胸が大きい。少なくとも小学校の頃は周りにこんな体型をした女子はいなかった。
 あと一年か二年経てば、これくらい成長するのだろうか。杏子が思わず自分の胸に視線を落とすと、目の前の少女はくすりと笑う。
「緊張しなくてもいいのよ。ほら、そんなところにいないで中にいらっしゃい」
 手を引かれ、杏子は茶道部の部室に引っ張り込まれた。おっとりした外見とは裏腹に意外と押しが強いらしい。
 部室に入るとぷうんと甘い匂いが鼻をつく。やっぱりここが出所だった。
「上靴は脱いでね」
 入ってすぐ畳敷きになっているので、杏子は手を引かれたまま足だけで上履きを放り出すように脱ぎ捨て、促されるままテーブルの前に腰を落とす。
「今、お茶を淹れるからちょっと待ってね」
 杏子をそこに残して、少女は部室の奥に向かう。後ろ姿なのでやっていることは見えないが、備え付けられたポットからお湯を注いでいるというのはわかる。
 ふんふんと鼻歌が聞こえてくる。リズムを取るように体が上下するたび、頭の左右でカールされた髪が揺れている。今、この茶道部にいるのは杏子と少女の二人だけ。もしかすると、初めての見学者なのだろうか。
 状況に流されるまま部室に連れ込まれてお茶を出されることになった杏子だが、待っているうちに少しだけ冷静になって、不安になり始めた。茶道の知識なんて全くない。何をしたらいいのか、そして何をしたらいけないのかわからない。知らず知らずに無礼な振る舞いをしてしまうことだってある。
 もちろん、初心者だというのは相手もわかっているだろうから、そんなことで目くじらを立てて怒ることはないはずだ。
 そんな風に考えていると「お待たせしちゃったね」とトレイを持った少女が戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「……ええと」
 予想外の物が目の前に並べられて、杏子は戸惑ってしまう。確かここは茶道部だったはずだ。
 まず容器がいわゆる茶碗ではなかった。薄くて白い陶器で、口が広く背が低い。横には取っ手が付いている。
 中身は琥珀色の透き通った液体。緑色の、どろっとした抹茶だと杏子は予想していたが、それとは全く違う。
 テーブルの中央にはミルクポットに、角砂糖。そしてクッキーが並べられた皿。
「お砂糖とミルクは自由に入れてね。でも、クッキーがあるからあまり甘くしないほうが美味しいと思うけど」
 明らかに紅茶だった。確かに紅茶もお茶の一種ではあるものの、茶道で紅茶を飲むという話は聞いたことがない。
 全く予想していなかった状況に、杏子はどこから指摘していいのかわからず口籠もってしまう。この部室に引っ張り込まれてからずっとペースを乱されっぱなしだ。
「さあ、遠慮しないで好きなだけ食べていいのよ?」
 杏子が手を出せずにいるのを、遠慮していると受け取ったらしい。少女は並べられたクッキーの一枚を指でつまみ、自分の口に入れてみせる。
 サクッと軽い音を立ててクッキーを噛み砕き、しばらく口を動かしてから、少女はティーカップを口に運んで上品に傾ける。
 どこか人形めいた容姿の少女が紅茶を飲む姿は優雅だ。中学に入ったばかりの杏子には、それが実に大人びて見えた。
「やだ、そんなにじっと見られたら恥ずかしい」
 杏子が紅茶にもクッキーにも手を付けずに見つめていたことに気付いたのか、少女はうっすらと頬を染める。
「もしかして、クッキーはお気に召さなかったかしら。本当は見学の時間中に焼き上がるようにマフィンを作ってたんだけど、ちょっと手間取っちゃって間に合わないから、今はそれで我慢してもらえるかしら」
 そう言って少女は、ポットの横にあるレンジに顔を向ける。ガラス越しにうっすらとそれらしきものが回っているのが杏子にもわかった。どうやら、先ほどから感じていた甘い匂いはそのマフィンのものらしい。
 と、そこで杏子は、ずっと気になっていた疑問を口にしようとする。
「えっと……その、先輩」
「先輩、ね。そんなに堅苦しくなくていいわよ。名前で――あ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。今年初めての見学者だったから、すっかり舞い上がっちゃった」
 握り拳を作り、こつんと自分の頭を叩く。
「わたしの名前は巴マミ。今年から三年生で、ここでは部長をしているわ。あなたは?」
佐倉杏子、です」
「そう。じゃあ、佐倉さんでいいかしら。わたしは他の子たちに『マミさん』って呼ばれてるから、あなたもそう呼んでくれると嬉しいかな」
「他の子?」
 杏子は思わず聞き返してしまう。今ここにいるのは杏子とマミの二人だけだ。
「今はいないけど、他に二年の子が三人いるの。見学もいなかったし、クラスで用事があるって言うから先に戻ってもらったんだけど。三年はわたし一人だから、今のところ全部で四人」
 マミは『今のところ』を少しだけ強調するようにして、意味ありげに微笑んだ。入って欲しいという本音を隠そうともしていない。そもそも部活見学というのは興味がある部活を見て回るものだから、杏子も茶道に興味があると思われているのだろう。
 と、そこで杏子は、先ほど聞こうとしていたことを思い出す。
「あの……マミ、さん。ここの部って、お菓子作りとかもするんですか?」
「そうよ。確か案内のプリントが配られたと思うんだけど」
「実は、ちゃんと見てなくて」
「まあ、ああいうのってあんまり面白くないものね」
 いたずらっぽく微笑み、クッキーをつまんで口に運ぶ。
「簡単に言うと、マナーを守って楽しくお茶を飲みましょうって感じかな。美味しく飲むためには、お茶請けも必要じゃない? でも買うとけっこうお金がかかるから、自分たちで作っちゃおうって感じ」
 杏子が改めて視線を落とすと、皿に並べられたクッキーに少々形の歪んだものが混じっていることに気が付いた。恐らくこれも、今焼いているマフィンのように手作りなのだろう。
 ちょうど杏子が紅茶を飲み終わったところで、チャイムの音が響いた。
「時間になっちゃったわね。一旦、教室に戻らないと。このまま終わりにしてくれたらよかったのに」
 立ち上がったマミは、ティーカップなどをトレイにのせて片づける。
「それじゃあ、戻りましょうか」
 微笑んで歩き始めたマミだが、少し歩いたところで振り返る。
「どうしたの?」
「えっと……実は教室の場所がわからなくて……」
 正確に言うなら、匂いを頼りに歩き回って来たせいでこの場所から戻る道がわからないということだった。自分の教室と玄関や体育館などの位置関係はわかっているが、普段来ないような場所はまだ理解していない。
「そっか、まだ慣れてないものね。でも、安心して。案内してあげる」
 そう言うと、マミは杏子の手を握ってきた。
「え、あの」
「さあ急ぎましょう。ホームルームがすぐ始まっちゃうわよ」
 駆け出したマミに引きずられるようにして杏子は足を動かす。
 教室までの道を教えて欲しいとは思っていたものの、こんな風に手を引いて連れて行かれるなんて考えもしなかった。
 普段、誰かと手を繋ぐことなんてない。触れるとしても相手はせいぜい家族くらいだ。
 滅多に触れることのない、ちょっと年上の女子の手に杏子は妙に緊張してしまう。父親のゴツゴツした手とは違ってしっとりと柔らかい。妹の細く華奢な手よりも大きい。小学校の頃にいた友人とは、あまりべたべたしていなかった。