杏子散華 〜謎の白い液体〜(仮題) サンプル2

 ことの起こりは数日前に遡る。
 普段、杏子は住居を点々としている。安いホテルやネットカフェなど、とにかく泊まれればどこだって構わない。
 眠らなければ体が保たないというわけではないが、中学生の少女が一人で街を徘徊していると目立ってしまう。警察に補導されかけて逃げたことは一度や二度ではない。
 杏子には家族がいなく、住む場所もない。家出少女と違うのは、切羽詰まった時に逃げ帰る家がないことだ。どんなに大変なことがあっても、一人で生き抜くしかない。
 出会い系で会った男の財布から金だけを抜いて逃げるとか、自分を恐喝しようとした不良をボコボコにして逆に金を巻き上げるとか、あまり褒められない手段で得た金を使い、杏子は毎日を必死に生きている。魔女を殺す以外に特別なスキルのない杏子には、そんな風に生きるしかなかった。
 ともかく、今夜の寝床はラブホテルの一室だ。入った時にはナンパしてきたサラリーマンと一緒だったが今は一人だ。男の存在を匂わせると男は美人局と勘違いしてくれたらしく、何もしないでそそくさと逃げていった。
 金は得られなかったが、一晩の宿は手に入れることができた。杏子はごろりとベッドに横になる。二人で寝ることを前提にしているためベッドが広く、全身を伸ばしても手足がはみ出ない。こんなに広々と寝ることができるのも久しぶりだ。
 ひとしきり広い寝床を満喫してから起きあがり、浴室に行って湯を溜める。これも二人で入ることを想定しているからかゆったりとしている。
 何度もラブホテルには入っているが、普段は自分の方から逃げているので、こうして泊まったことは今までになかったかも知れない。ここまで快適な場所だなんて今まで気付いていなかった。
 今日はゆっくり休めそうだ。何もしないで逃げていった男の臆病さと、わざわざ『ご宿泊』にしてくれたすけべ根性に杏子は内心で感謝する。今日はいい日だ。

 くす――くす――

「誰だ!」
 どこからか聞こえてきた笑い声に警戒し、杏子はすぐに変身する。今まで着ていた服は消え、魔法少女の衣装へ。手に槍も出現させているが、屋内ではこの武器は不利だ。薙ぎ払うような使い方はできず、せいぜい突くくらいしかできない。
 果たして今の声はどこから聞こえてきたのだろうか。この部屋は鍵がかかるようになっており、男が立ち去ってすぐに閉めたはずだ。そもそも、入り口のドアは鉄製なので、開けば物音が聞こえたはずだ。
 壁の向こうの話し声が聞こえてきたのだろうか。いや、こういうところはそれなりに防音がしっかりしているはずだ。だとしたら、一体どこから――
『そんなに警戒しなくてもいいじゃない。こっちには戦うつもりなんてないんだから』
 それは頭の中に直接響いてきた。
 魔法少女か――杏子はすぐにそう思い至る。相手がどこにいるのか知らないが、魔法少女同士であれば壁を隔てた相手にも思念を伝達することができる。キュゥべえとも会話ができるが、こんな声や口調ではないので、そうなるとやはり魔法少女しかいない。
 一体どんな意図で話しかけてきたのか。杏子は他の魔法少女と交流が多少はあるが、この声に聞き覚えはない。そもそも、ラブホテルの中にいる時にまで話しかけてくるような悪趣味な奴に心当たりはない。
『悪趣味なんて失礼ね』
 伝わってきた声に、杏子はぞくりとする。
 今、杏子は相手の位置がわかっていないし、どこにいるのか認識してもいない。そして積極的に思念を伝えようとしたわけでもない。
 思考を読まれた――と考えるべきだろう。
『ま、そんなところね』
「どこにいやがる!」
 周囲を睨みつけるが、そんなことをしても相手が見つかるはずもない。槍を握りしめる手の平にじわりと汗がにじむ。
『まあまあ、そんな物騒な物はしまってよ』
 突如、杏子の手の中から槍が消えた。
「へ――?」
 魔力で作り出した武器は、出すのも消すのも杏子の意のままだ。ダメージを受けるなどして集中を途切れさせると勝手に消えてしまうこともあるが、今はそうではない。むしろ緊張感を張りつめさせて、警戒していたはずだ。
『お茶でも飲んで、ゆっくりお話をしましょう』
 杏子の足がぎくしゃくと動き、部屋に備え付けのティーバッグをカップに入れ、ポットからお湯を注ぐ。カップの中、ティーバッグからは緑色がゆらゆらとにじみ出てきて、緑茶の匂いが香ってくる。
「――」
 しばらく待ってから、杏子はティーバッグを取り出してソーサーに置くと、カップを口に付ける。熱い液体が食道を通っていくのが感じられる。
「ちょっと待て、どうなってんだよ!」
 杏子は半狂乱になる。
 今の一連の動きに、杏子の意思は介在していなかった。お茶を飲もうなんてとぼけた提案に、くそったれと思っていたはずだ。
 それなのに、杏子の体はマリオネットのように勝手に動き、こうしてお茶を淹れて飲んでいた。
 操られている。
 恐怖を覚える。ガクガクと体が震える。正体の全くわからない魔法少女に、いいように弄ばれている。
 相手がもし「死ね」と言ったら、果たしてどうなるのか――
『安心して。今そんなことを言っても、つまらないでしょう?』
 この場で命を取られるようなことはなさそうだ。しかし、ほっとするよりも不気味さがそれを勝る。
「あ、あたしを……どうするつもりだ?」
 恐怖のためか口の中が妙に乾燥している。
『まあまあ、とりあえず戦わないんだからそんな格好はやめて』
 変身が勝手に解除される。赤い魔法少女の衣装から、いつもの私服姿に戻る。
『お茶を飲んでリラックスしましょう?』
 杏子の手がカップを持ち上げ、口に付けて中身を流し込む。杏子の意思とは無関係に。
 しかしもちろん、そんなのでリラックスできるはずなどない。相手に操作されているということが実感できて、かえって不安になるだけだ。
 カップを置き、杏子は途方に暮れる。今すぐにでもここから出ていきたい気分だが、そうしたところで声の主からは逃げられそうにない。
 今まで色々な魔法少女と会ったが、こんな風に相手を操る能力というのは見たことも聞いたこともない。
 しかもこの力は、卑怯なまでに絶対的であり、また理解不能だ。魔法少女というのは、本来は魔女や使い魔を倒す存在だ。他の魔法少女と武器を交えることもあるが、それはイレギュラーなことであり、魔法少女の本来の役割ではない。
 魔法少女の敵は魔女や使い魔。それは動かしがたい原則だ。
 なのに、この魔法少女は、魔法少女である自分を操っている。他の魔法少女を使ってグリーフシードを回収させるための能力とも考えられるが、そんな回りくどいことをする必要などない。
 こんなに強力な能力なら、そもそも魔法少女ではなく魔女を操ればいいのだ。そうすれば無敵ではないか。
「なんなんだよ――」
 そう思い至り、より得体の知れなさが増す。魔法少女にはそれぞれ特性があるが、それは魔法少女になる時の願いが影響している。
 一体、何を願えばこんな歪な能力を持った魔法少女が生まれるのか。そこに何か偏執的なものを感じ取り、杏子の背筋は凍る。
『冷めちゃうよ? 飲んじゃったら?』
 手が動き、カップを持ち上げて残っていたお茶を嚥下していく。しかし一口で飲むには量が多い上にまだ冷め切っていない。熱いお茶が口から溢れ、頬を伝ってあごからぽたぽたとしたたり落ちる。
「ごほっ! ごほっ!」
 気管にも入り、杏子は体を折って咳き込む。鼻に逆流したのか、頭の奥がツンと染みる。目には涙がにじんでくる。
 相手に悪気があったのかどうかわからないが、とにかく不気味だ。話しかけて来ない時も、何をされるのかと思うと気が休まらない。
『大変、服にもこぼれちゃってるね。とりあえず脱いだら?』
 杏子の手がパーカーのジッパーにかかる。ジジジ――と音を立ててジッパーが下りていき、前の部分が開いたパーカーを脱ぐ。
「ま、待て!」
 手が止まらない。パーカーの下に着ていたシャツにかかると、一気に上に引き上げる。更にホットパンツのボタンを外してジッパーを下ろすと、すとんとつま先まで脱いでしまう。
「な――」
 瞬く間に杏子は下着姿になっていた。あまりのことに言葉がない。
 確かに服にお茶がかかっていたが、ここまで脱ぐ必要はなかったはずだ。恐らく、相手はわかっていてわざとやっているのだろう。
 杏子は不愉快になる。きっと底意地の悪い奴なのだろう。そうでなければ、こんな風にじわじわと不快感を与えてくるはずなどない。
『拗ねちゃったの? 機嫌を直してよ杏子ちゃん』
「てめぇ……」
 相手は名前を知っている。杏子はまた恐れを感じる。
 頭のどこかで、相手にとっては杏子ではなく魔法少女なら誰でもよかったのではないかと願っていたが、名前を呼ばれたことでそうではないと理解させられてしまう。こんな閉鎖された空間でわざわざ声をかけてきた時点で杏子をターゲットにしたと考えても問題ないのだが、確信しなければそうかもしれないという期待もできた。
 そしてそれが今、うち砕かれた。
「ちくしょう……あたしをどうしたいんだよ」
 脱いだ服を着ようともせず、椅子に座ったまま頭を抱える。この期に及んでも相手の目的が掴めない。このままでは頭がおかしくなってしまいそうだ。
『目的ねぇ。ま、何もしなければ考えすぎちゃうみたいだし、何かやってもらったほうがいいのかな』
 何かをさせられる。聞きたくない反面、今のこのあやふやな状況から解放されることに杏子は心のどこかでほっとしてしまう。
 それが絶望への入り口だとしても。
「あんた、あたしに何をさせようってんだ? 魔女狩りか? それとも誰かを殺せっていうのか? 生憎、あたしは戦うことしかできないぞ」
『勇ましいのね。でも、そういうのじゃなくて――』