長門有希の置換 本文サンプル プロローグ


   side A


 コタツの向かい側に座っている少女が、口を開いた。
「宇宙は広い。この地球はその中ではちっぽけな存在。地球を取り巻く太陽系、そしてこの太陽系を取り巻くこの銀河系も、宇宙全体から見ればそれほど大きな存在ではない」
 急須の蓋を横に置いて、ポットからお湯を注ぐ。
「この銀河系の中だけでも太陽以外の恒星が存在する。宇宙にはいくつのも銀河系が存在し、そこにも多数の恒星が存在する。恒星から適切な距離を保ち、人類が生存しうる環境を備えた惑星は地球だけに限らない」
 こちらに顔を向けたまま少女は話を続ける。
「宇宙の広さを考慮すると、生命が存在する惑星があること自体は全く不思議ではない。太陽と同じ大きさの恒星が存在し、地球と太陽の距離と全く同じ距離に、地球と全く同じ大きさの惑星が存在する可能性は、それほど低いものではない」
 こちらが話を理解した意思を込めて首を縦に振ると、少女は満足したように続ける。
「だから、そんな惑星がこの地球と全く同じであっても驚くべきことではない。例えば窓の外に見えるあの月と同じ大きさの衛星が存在し、今は沈んでいる太陽と全く同じ大きさの恒星が存在し、その恒星を取り巻く惑星も全て同じ。そして、周囲を取り巻く環境だけでなく、表面上も全く地球と同じ惑星が存在することもまた、あり得なくはない。海と陸地の覆う割合、陸地の形、海底の形、それぞれに生息する動植物。それらの構成が今のこの地球と全く同じ物になる。それがごく低い可能性だとしても、宇宙が無限に匹敵するほど広さを備えているのなら、起こりうる事態」
 少女の言いたいことが、理解できた。
「動植物とは」
「あなたの考えている通り。人類も含む」
 先回りするように言って首を縦に振る。
「つまり、その表面に存在する人類の存在も含めて、この地球を全く同じである惑星が存在することも、その惑星がそこに生息する人類に『地球』と呼ばれることも、あり得る」
「地球と全く同じ存在」
「そう。この地球と、全く区別のできない惑星。地球と同じ時に誕生し、地球と同じように生命が進化し、地球と同じように人類が誕生し、地球と同じように文明が成長し、地球と同じように国が分かれる。つまり、地球と全く同じ存在」
 そこで少女は、急須を傾けて二つの湯飲みにお茶を注ぐ。
 青い模様に覆われた湯飲みと、紅色の上薬が塗られた湯飲み。
「ここに選択肢がある。赤を飲むか、青を飲むか」
 両方が天板の上をスライドし、目の前で止まる。
「その二つは」
「何も変わらない。入っている量も全く同じ」
 思った通りの言葉を口にした。
「どちらを飲んでも結果は同じ。体内に取り入れられる水分量も全く」
 恐らくは、含まれる成分も同じ。
「でも、これは選択肢。赤か青か」
 赤い湯飲みにそっと手を伸ばして口を開く。
「ここで赤を選んでも、青を選んでも、結果は変わらない」
「そう。ここでどちらか一方を選んだかという違いがあるだけ」
 恐らくは、もう一つの世界と。
「今回の選択肢はどちらを選んでも結果が同じ。でも、結果が違う選択肢も、もちろん存在する。そうすると、全く同じだった世界が、少しだけ違う世界になる」
パラレルワールド
「その言葉は必ずしも正しくはない。でも、そう解釈しても問題はない。そもそも、必ずしも具体的なことを理解する必要はない」
「……」
 赤い選択肢に触れながら、沈黙して言葉の続きを待つ。
「今回、同じだった世界で別の道を選んだのは、涼宮ハルヒ
涼宮ハルヒ
「そう。涼宮ハルヒの選択によって、世界はあなたが知っているのとは違う物になっている」
 これは種明かし、と彼女は呟く。
「世界が、分岐した」
「分岐という概念は正しくはない。よく似た二つの世界があって、たまたまその瞬間に別の選択肢が選ばれた、と考えるべき」
「……」
「でも、先ほども述べたように、それを理解する必要はない。ただ、ここがあなたの知っていた世界とは違っていることだけわかっていればいい」
「違いとは」
「一言では説明できない。選択肢は、そのお茶のように結果が全く同じになるものでない限り、選ばれてから時間が経てば経つほど、世界の違いも大きな物になる。今回の場合、その選択肢による違いは、それなりに大きな物になっている」
「具体的には?」
「説明する」
 そうして、彼女は二つの世界の違いについて説明を始める。その内容は突拍子もないものだったけど、彼女が嘘を言っているようには思えなかった。

「頭に入った?」
 話を終えて、彼女はじっと顔を見つめてくる。
「一応」
「そう。可能な限り、記憶に留めておいて欲しい。その知識はこれからしばらくの間は必要になる」
「どうすればいい?」
「あなたは何もしなくていい。全てが終わるまで、周囲の者になるべく気づかれないようにして欲しい」
「わかった」
「では、そのことに気を付けて、日常生活を送って欲しい。仮に。気が付かれても致命的な問題ではない。でも、可能な限り、気が付かれないに越したことはない」
「できるだけ」
 首を縦に振ると、目の前の少女は立ち上がった。
「お願い」
 最後にこちらの顔をじっと見つめてから、少女は姿を消した。
 こうして彼女の姿が部屋からなくなってしまうと、この数分間の出来事は夢だったのではないかと思えるけれど、目の前に置かれた選択肢が現実だったことを証明している。
 ひょっとすると、どちらを選んでも意味がなく、そもそも話の流れ上それほど重要な意味のなかった選択肢を作り出したのは、今この瞬間のためだったのかも知れない。もし彼女がいたことを証明する物が何も残っていなかったら、あんな突拍子もない話なんて白昼夢だったのではないかと思って、眠りに就いていただろう。
「今は夜だけど」
 ぼそりと呟く。静かな部屋では、その声は思いの外大きく響いた。
「……」
 沈黙して、目の前にある、まだ選ばれていない選択肢に向き直る。
 赤か、青か。どちらを選んだところで意味はない。この後の展開に何も影響を与えることはない。
 でも彼女は、本当にそう思っているのだろうか。
 もしここと全く同じ世界で、今と同じシチュエーションで同じ問答が行われていて、それぞれの世界で二つの湯飲みがあったとする。両方の世界の両方の湯飲み、つまり四つの湯飲みに入っている中身は全く同じものとする。
 この世界で赤が選ばれて、仮にもう一つ存在すると仮定する世界で青が選ばれるとする。これならば、結果は変わらない。目を閉じた状態で選んでしまえば、どちらを選んだかという自覚すら存在しないことになる。
 でも、必ずしも片方を選ばなければならないと強要されているわけでもないので、ここで両方の湯飲みのお茶を飲んでしまうことだってできるし、両方を飲まずに捨ててしまうことだってできる。
 最初に選んだとおりに、赤い湯飲みに口を付け、それを一気に喉の奥に流し込む。もし青を選んでいた世界があれば、同じようにしているだろう。
「……」
 お茶はすっかり冷めてしまっていた。正直なところ、あまり美味しくはない。
 二杯目をわざわざ飲む気にはなれず、もう片方の中身は流しに捨ててしまうことにした。もし青を選んでいた世界があれば、同じようにしているだろう。
「……」
 これからのことを考えながら、窓にそっと触れる。部屋の中と外気は温度差があり、窓はとても冷たかった。
「雪」
 声が漏れる。窓の外を、ひらひらと白い粒が舞っていた。思わず窓に顔を近づけると、吐息のかかった窓は白く染まって視界を覆い隠す。
 でも、すぐに透明に戻る。そして、その窓ガラスに焦点があった。
 雪の降る真っ暗な外の世界ではなく、ぼんやりと窓に映る自分自身の姿に。
「……」
 虚像の自分がじっと見つめ返してくる。
「有希」
 もう一度呟いた。
 先ほどまで部屋にいた少女の名前、そして、窓に映る自分の名前。
 彼女との違いは、服装と眼鏡の有無だけ。
「……」
 そっと眼鏡を外す。パジャマを脱いで、制服を着てしまえば、もうそれで見分けることはできないはずだ。
「……」
 もう眠るか、それともこのまま起きているか。少し考えてから、わたしはリビングから寝室に移動して、布団に潜り込む。
 これからのことを考える。わたしの知る世界とこの世界の違い。まるで悪い冗談のようなこの世界の有り様。そして、こちらの世界での、わたしを取り巻く人々。
「……」
 うまくやれるだろうか。少しだけ不安になる。
 でも、彼女は「絶対に気づかれてはいけない」とは言っていなかった。もしわたしが何かしくじったとしても、彼女ならきっとなんとかできるだろう。
 そもそも、なんとかする必要もないらしい。彼女の話に登場したあの人に気が付かれない限り、それほど問題はないはずだし、それなら、むしろ皆に正体を話してしまった方がいいのだろう。
「……」
 少し考えてから、わたしはそうしないことにした。彼女に言われた通り、とりあえず隠しておこう。もし青を選んでいた世界があっても、同じようにしているだろう。
「きっと、そんな世界なんて、どこにも存在しないだろうけど」
 宇宙がどれだけ広かったとしても、きっと、同じ惑星なんてない。そもそも、わたしがいたところと、わたしがいるところが、同じ宇宙に存在する遠い世界だなんて、彼女は明言していない。あれはただ、たとえ話をしただけにすぎない。わたしに本当のことを伝えないために。
彼女は優しい。
 わたしは目を閉じた。
 でも、彼女なら、わたしがそれに気が付いてしまうことだって、わかっているに違いない。基本的な性能は違ったとしても、彼女はわたしだし、わたしは彼女なのだから。
「……」
 それほど優しくないのかも知れない。