今日の長門有希SS

「どうぞ」
 メイド姿の朝比奈さんが俺の前に茶碗を置く。俺はそれを引き寄せ、手順に従って口に運ぶ。
 これだけを記すと何度も繰り返された日常の中の単なる一コマに思えるだろうが、実際の所はそうではない。
「あのぅ、どうですか?」
 不安げな表情を浮かべているのは、不慣れだからだろう。朝比奈さんはこれまでSOS団の中で何度もお茶を淹れてはいるが、このような形式はなかった。
「けっこうなお手前です」
 とりあえず、俺が定番的な受け答えをすると、朝比奈さんはほっと胸をなで下ろした。


 一時間ほど前のことだ。
 授業が終わってから、俺はハルヒと連れ立って部室に向かった。どちらかに用事がある時はそうではないが、同じタイミングで教室を出る時は、並んで部室に向かうことにしている。どうせ目的地は同じだ。
「ふふーん」
 妙に上機嫌なことにもう少し気を使っていれば、その先の展開を予想できただろう。しかしこの時の俺は、何かおかしなことをやらかさなければいいなと思っていただけで、この時点で既に終わっていたなんて思ってもいなかった。
「どうかしたか?」
「べっつに」
 普段ならノックもせずドアを開け、幸か不幸か朝比奈さんが着替え中であった場合には俺をエロ呼ばわりしてボコボコに殴るのが通例となっているが、扉を前にしたハルヒは黙って俺を見るだけだった。
 わずかばかりの疑問を持ちつつ、俺はノックをしてからドアを開ける。
「……」
 閉めた。
「ちょっとキョン、なに閉めてんのよ?」
 にやにやと妙な笑みを浮かべながらハルヒは俺の顔をうかがっている。言うまでもない、この異変を起こしたのはこいつだ。
「どうやら部室を間違えたらしい」
「間違ってないわよ。ほら」
 ハルヒが示したのは上方のプレートで、本来の文字を隠して「SOS団」の文字列が躍る。
 諦めて俺はドアを開き、足を踏み出そうとして「ちょっと待ちなさい」とハルヒに止められる。
「なんだよ」
「土足厳禁よ」
 よく見れば扉の横に畳の敷かれていないスペースがあり、既に部室にいた長門の靴もそこに置かれている。俺は靴を脱いでそこに置き、畳敷きになった部室の中に足を踏み入れた。


 というわけで、茶道をするに至ったわけである。
 いや、正確には最初の時点ではお茶を点てるための道具は置かれておらず、ただ部室の床に畳が敷かれていただけなのだが、全員揃ってから数分して茶器が持ち込まれた。茶道部から強奪したのではなく、鶴屋さんに頼んで持ってきてもらった――というか、運び入れてもらったわけだ。
 そして、お茶担当として朝比奈さんが選ばれ、おっかなびっくり点てられた一杯を俺が飲んだ、というわけだ。
「ふん、味なんてわからないくせに」
 隣からそんな悪態が聞こえる。確かに俺はお茶の味なんぞ詳しくはないが、お前だって人のことを言えるのか。
 何か言ってやろうと顔を向け、正座をしたままもじもじと足を動かしているのが目に入った。俺は何も言わず、無言でそこに触れる。
「ひゃっ! な、なにすんのよこのエロキョン!」
 足を押さえてハルヒはごろごろとのたうつ。やはり痺れていたらしい。
「しかし、なんでわざわざ茶道なんだ」
「別にお茶が飲みたかったわけじゃないわよ。本当は畳敷きにしたかっただけなんだけど、ほら、せっかくだし」
 それだけの理由でこんな高価そうな茶道具を持ち込ませるな。カセットコンロは今まで部室にあったものを使っているが、茶釜や高価そうな茶碗は新たに運び込まれたものだ。もちろん抹茶だってそれと同様だ。
「それより、茶碗ちょうだいよ」
「ん?」
「茶道を知らないの? 一口ずつ飲んで隣に回して……って、一人で飲みきってんじゃないわよ!」
「そもそも茶を点てる朝比奈さんがメイド服な時点で茶道もへったくれもないだろうが」
「これはこれでいいじゃない。王道も大事だけど、たまにはこういうのもいいのよ」
 その気持ちはわからないでもない。畳敷きの部屋で正座をして茶釜の前に座るメイド姿の朝比奈さんは、不思議と絵になる。
「まあいいわ。キョンが飲んじゃったから、もう一杯お願い」
「わかりましたぁ」
 朝比奈さんが新たにお茶を点て直す。その間、俺は部室をなんとはなしに見回す。本来部室にあった机や椅子は壁際に寄せられ、中心にお茶を点てる朝比奈さんがいる。
 俺が最初に来た時点で、机などは今まで通りに置かれていたのだが、今は即席茶道部になっているので片づけられているわけだ。さすがに本棚や棚などの位置は変わっていない。
 しかし、改めて考えるまでもなく、ここは本来文芸部の部室だ。今はSOS団というかハルヒが支配しているとは言え、本来の持ち主は長門である。
長門、フローリングの洋間が和室になったんだが、特に問題はないのか」
「横になって本を読めるから、この状態はわたしにとって悪くない」
 確かに俺とハルヒが部室にやってきた時点で長門はゴロゴロと転がって読書をしていた。長門の部屋に行けばたまに見る光景だったので、特に驚きはしなかったが。
「一番下の本も取れるから大丈夫」
「そうかい」
 畳は移動させづらいような家具はそのままに置かれている。おかげで収納として置かれた棚の一番下の板より床が少しだけ上になっている状態ではあるが、それで物や本が取り出せなくなるような状態には至っていないようだ。
「できました」
 新たなお茶が点て終わったらしい。茶碗がハルヒの前にすっと移動する。
 ハルヒはそれを回してから口に運ぶ。
「あの、どうでしょう」
「苦いわね」
 いや、確かに俺もそう思ったが、はっきりそう言うのはどうなんだ。


 とまあ、そんな風に俺たちは畳敷きの部室で過ごすのだが、翌日にはもう撤去されているのであった。