今日の長門有希SS

 放課後のSOS団は基本的に暇である。俺と古泉はボードゲームにうつつを抜かし、長門は書籍に書かれた知識を吸収し、ハルヒはパソコンをやったりやらなかったり、朝比奈さんはティーポット片手にそんな俺たちの間をふらふらと歩き回る。
 と、それらは全て暇つぶしと言ってもいい。生産性のない時間を生産性なく潰す。それが俺たちの活動内容だが、今のところ大きな不満はないのでその時間を甘んじて受け入れている。
 もちろん俺たちの間に会話はある。あまり興味や話題がかみ合わない俺たちではあるが、無言で過ごすほど仲が悪い間柄ではない。この中には少なくとも一組のカップルがあるわけで、その間は険悪ではないので最低限そこのところで穏やかな会話も成立するのだが、その交際は今のところSOS団の面々には秘密となっているので俺が長門の読書を中断させることはあまりない。
 今回、会話の口火を切ったのはこんな一言だった。
「グラタンってもえると思わない?」
 最初、ハルヒの発言の意味が全く読みとれなかった。「もえる」という言葉がどのような感じを当てるのか、炎が燃えるバーニングなのか、アニメや漫画の女性キャラクターが可愛らしく萌え萌えキューンなのか今の一言では判断ができない。そもそもどういう意図だ。もしハルヒの意味するところが前者であれば、グラタンを熱し過ぎて焦がした一件でも思い出したのだろう。後者であれば、その内容は全くもって理解できん。
「食い物は燃えるゴミの日に捨てるから、燃えると言えば燃えるな。可燃物だ」
「あんた何言ってんのよ? 萌えも理解できないで日本人やってんの?」
 どうやら後者だったらしい。俺の返答が期待通りじゃなかったのはわかるが、国籍まで否定するんじゃねえ。
 さて、グラタンのどこに萌え要素があるのだろう。このSOS団内において最も萌え要素と縁があるのはメイド服に身を包んで俺たちの間を優雅に歩き回っておられる朝比奈さんだが、この天使のような上級生とグラタンとの間に共通点を見いだすことはできない。なんだ、その、ミルク的な意味か。
「だってグラタンよ、グラタン。備長炭とか聞いたことない?」
「ああ、俺だってそれくらい知ってるさ。確か消臭剤になるからトイレに置いておくとか、理由はよくわからんが炊飯器に入れて米と一緒に炊くとか、目張りした車の中で使われる炭だろ?」
「次元の低い間違いをするんじゃないわよ。最後のは練炭よ」
 そうかい。
「というか、あたしが言ってる備長炭はその備長炭じゃないの。知らないの、びんちょうタン?」
 ハルヒの言葉はどこかアクセントがおかしかった。
備長炭を擬人化した萌えキャラ、びんちょうタン
 そう言ってハルヒは手招きをする。用事があるなら自分で歩けと言いたいところではあるが、諦めて俺は席を立ち、ハルヒの横に歩く。
「これよ、これ」
 ハルヒアゴで示したのはパソコンのモニタで、そこには頭に炭をしばりつけた女の子の絵があった。横には「びんちょうタン」との文字が書かれており、それがこのキャラクターの名称なのであろうことは想像に難くない。
「あんた、本当に知らなかったの?」
「俺だけじゃないだろ」
 そう言って見回すと、古泉も朝比奈さんも曖昧な表情。長門は我関せずと読書中。
 古泉はどうでもいい小難しい理論などは知っているが、こういう方面にはそれほど強くないのだろう。朝比奈さんや長門も言わずもがな。
「な、お前くらいだろ」
「わたしは知っていた」
 と、視線を落としたまま長門が呟く。そういえば、長門は偏った知識を持っていることがあり、今回もその中に含まれていたわけだ。話を合わせただけとも取れるが、基本的に長門は嘘をつかない。
「有希も知ってたじゃない」
 ふふんと胸を張るハルヒだが、それでも過半数には達していない。まあハルヒは大多数の平凡な人間と同じであることを嫌うので、己が少数派であったことはむしろ喜ばしいことかも知れない。ま、それはどうでもいいことだ。
「で、何の話だったか」
「ぐらタン」
 またイントネーションがおかしくなる。本来のグラタンが後半にアクセントを置くものであれば、今のハルヒはそれを前半に持ってきている。ポテトグラタンとかマカロニグラタンのようにグラタンの以前に食材の名前が付くことがあるが、それら繋がっていたはずの言葉から「グラタン」の部分だけを抜き出したようなおかしなイントネーションだ。
「それが萌えの神髄なのよ」
 知ったことか。
「とにかく、ナントカたんって言葉は萌えるでしょ? 既存の名前に『たん』をつけるだけで萌え要素が増えるわけだし。ハルヒたんとか、みくるたんとか、有希たん、古泉たんにキョン子たんってのも印象は変わるわ」
 なぜ俺の名に子をつける。そこはかとなくポニーテールが似合いそうで少なくともキョンというあだ名よりは萌え要素がありそうだが、さすがに性別を転換させてしまうのは卑怯と言わざるを得ない。語感以前の問題だ。
「あとは朝倉涼子たん、喜緑江里美ねーたん」
 それだと喜緑さんが消去されてしまいそうだな。人の名前は言い間違えるな。いや、むしろ喜緑さんが消去する側の方が相応しい。
「担任の岡部たん」
 萌えるかそれ。少なくとも俺にはわからない領域だ。
「とにかく、後からたんをつけるだけでこんなに萌えるようになるのよ?」
 最後のはどうかと思ったが、大多数においてはハルヒの言うことにも一理ある。例えば「有希たん」なんて珠玉の出来だ「長門たん」「長門有希たん」でも構わない。とにかく長門は魅力的ではあるが、普段はクールでどちらかといえば萌え要素を前面に押し出すタイプではないので「たん」を付ける意義は大きい。朝比奈さんに「たん」を付けるのは甘い苺にコンデンスミルクをかけるようなものだが、長門の場合はスイカに塩を振るような行為だ。
「まあ、そんなわけだから、最初から『たん』が付いてるグラタンは既に萌えキャラとして成立しているのよ。牛タンはそうでもないけど、グラってのがいいのかしら」
「知るか」


 この日は、トリスタンというワーグナーの楽劇に登場する人物が萌えるか否かという、本当にどうでもいい話題で放課後を潰すことになった。