今日の女犯坊SS

 新宿――
 都庁の真下にその寺は存在し、奈落の底で笑っている。
 人は「駆け込み寺」念仏寺と呼んでいる。


 さて、念仏寺は特殊な目的を持った者が訪れる寺であるが、そうであるからと言って寺としての機能が失われているわけではない。様々な宗教的儀式を行うための、そして出家した僧侶が住まうための設備を備えた、ごく普通の寺としての側面もある。
 だが、今現在この念仏寺には修行中の僧侶の姿などは見られない。ここにいる僧侶はただ一人、住職の竜水だけである。かつてここに住んでいた独眼の住職が姿を消して以来、この竜水が住職としてこの念仏寺を取り仕切っている。
 住居としての機能があるならば、当然のごとく食材を煮炊きするための設備も存在する。念仏寺の一角にある炊事場に一人の少女がいた。
 成人を迎えた頃だろうか、まだ幼さの残る少女の名は空海そらみと言う。実在した僧侶と同じ名を持つ彼女はこの寺に住み、竜水と寝食を共にしている。
 竜水は尋常の人間ではありえない巨体や怪力を持つ怪人物であるが、空海はそれを気にした風もなく接している。かつて己の中に巣くっていた魔物を竜水によって払われた彼女にとって、竜水が何者であるかなど些細なことであった。
 おぼつかない手つきで炊事を終えた彼女は、料理を盆にのせ竜水の元に運ぶ。
 部屋を訪れると、竜水はまだ就寝中だった。布団をはみ出す程の巨体を横たえごおごおと強風が吹き抜けるような鼾を発している。目が覚めないことを空海が不思議に思えるほどの轟音だ。
「和尚さん」
「む――」
 むくりと体を起こし、空海に顔を向ける。
「それは?」
「朝ご飯よ」
「ほう」
 盆の上に並べられてるのは見た目こそよくはないが、白米の他に数品の総菜やみそ汁の揃った、ごく普通の和食としての体裁の整ったものだった。
空海、これはお前が?」
「そうよ。空海にだって一応これくらいできるんだから」
「ふむ」
 竜水は焼き魚の置かれた皿を手に取り、顔の間近まで持ち上げ鼻を鳴らす。
「焦げ臭いな」
「黒くなったところは外したから大丈夫だってば」
 実際、多少焦げたところで健康上の問題はないだろうが、それと味の善し悪しは別である。そもそも竜水がそれくらいで体を壊すはずもない。
「では頂くか」
 言って竜水が箸を手に取る。空海は少々長いものを用意していたのだが、竜水が持つとまるでままごとの箸のようだ。
 オモチャのような箸を動かし皿から口へ運ぶ竜水を、空海は何かを心配するようにも期待するようにも見える表情で見守っていた。
「……食えないものではない」
 その言葉を聞いても空海の表情は変わらなかった。黙々と食事をする竜水を、ただじっと見つめていた。
 やがて、盆の上が空になった。
「馳走になった」
 竜水はそう言って頭を下げる。
「和尚さん、どうだった?」
「悪くはない」
「えっと、そうじゃなくて……」
 言いよどむ空海を見て竜水は「ああ」と呟く。
「妙な薬が入っていたようだが、わしには効かぬ」
「へ――」
 空海がぽかんと口を開ける。空海が竜水の食事に仕込んでいたのは、家畜の発情を促すために使用される薬物だった。他の女から自分にその矛先を向けさせようとしたのだが、不発に終わったようだ。
「そ、そうなんだ」
 特別な薬品だ、安い物ではない。何より己の企みを知った竜水にどのような処遇を言い渡されるかと、空海は絶望的な気分になる。
空海、何を考えているのか知らんが、そもそもおかしな薬に頼る必要などない」
 だが竜水の反応は空海の予想外のものだった。
「天国を見たいなら素直にそう言えばいいではないか」
 法衣を脱ぐ竜水に、空海はほっと胸をなで下ろして笑った。