今日のべびプリSS
深夜のこと。
「今日、私の――おやつがなくなった」
僕の部屋にやってきた霙姉さんは、まず最初にそう言った。
この家では3時のおやつが人数分用意されているはずだけど、それが足りなかったということだろう。なんとなく様子がおかしいなと気になっていた僕は、姉さんが何を考えていたのかわかって少しだけ安心した。
「オマエ――どこにいったか知らないか?」
「霙姉さん、僕は知らないよ」
僕がそう答えると、姉さんはゆっくりと状況を説明してくれた。
「帰宅したらいつも通り、キッチンにおやつの皿が用意してあって――」
ぼそぼそと話す霙姉さんにうんうんと相づちを打つ。人数の多いこの家では、間違えないようにおやつを人数分の皿の上に置いてある。海晴さんとあさひは食べないから、おやつは17人分が用意されている。僕はもうそのことを知っているのに、姉さんはまるで知らない人に教えるように詳しく説明してくれた。
「それなのに――ああ、いったいどこにいったんだろう、私の、おやつ――」
霙姉さんの目が悲しそうに僕の顔を見ている。
「誰かが間違えて食べてしまったのかな?」
そう答えた僕を、姉さんは「そんなはずはない」と否定した。わざわざ間違えないように皿とおやつをセットにしているのだから、間違えるはずがないと言うのだ。
「おやつがないと駄目なの?」
「3時のおやつは人数分ちゃんと用意されていたから、私も食べないと駄目なんだ。3時のおやつを食べて、夕飯を食べて、それから寝るんだ。ちゃんとしないと駄目なんだ。ちゃんとしないと――」
いけない。
「大丈夫だよ、霙姉さん」
僕は姉さんの頭に腕を回し、体をすっぽりと包み込むようにする。僕の方が体が小さいけど、今の姉さんはとても小さく感じる。
「霙姉さんが今日おやつを食べなかったとしても、誰も怒ったりしないよ」
「駄目なんだ。ちゃんとしないと、言うことを聞かないと、私は――」
うわごとのように繰り返す霙姉さんの背中をぽんぽんと叩いてあげる。あさひがあの人にそうされるように、姉さんは少しずつ落ち着いてくれたみたいだ。
「そうだ、これからおやつを食べようか。順番は逆になっちゃったけど、それでもいいよね?」
「夕飯を食べて、おやつを――」
姉さんは不安そうに僕の顔を見ている。
「それで、怒られない?」
「大丈夫だよ」
僕がそう断言すると、姉さんは顔を伏せてしばらくぶつぶつと何かを言ってから、
「そうか。それでいいんだ」
納得したように笑顔を見せてくれた。
「じゃあ、台所を見てくるから僕の部屋でちょっと待っててね。無かったら何か買ってくるよ」
「わかった」
少しだけ不安そうな霙姉さんの顔を最後まで見てから、僕は部屋を出てドアを閉めた。
結局、台所にはめぼしいものがなくて、僕はコンビニまで買いに行くことにした。
「こんな時間にお出かけですか?」
玄関で靴を履いていたら、春風が声をかけてきた。
「ちょっとね」
なんとなく霙姉さんのことは言いたくなかったから、僕は曖昧に答える。
「もう遅いですよ。明日ではいけないんですか?」
「心配してくれてありがとう。でも、今じゃないと駄目なんだ」
そうしなければ、霙姉さんは気になって眠ることができないだろう。
「わかりました。でも、ちょっと待ってください」
春風はコートかけから自分のマフラーを外して、僕の首にきつめに巻いてくれた。
「気を付けてください。あなたに何かあったら……」
そういいながら、きゅっと締める。
「大丈夫だよ。これでも男だからね」
僕がそう答えると、春風はにこりと笑った。
「あなたはたった一人の王子様です」
女だらけのこの家にいる唯一の男。そんな僕を春風は王子様、と照れくさい表現をしてくれる。
「じゃあ行って来るよ」
春風に見送られながら僕は外に出た。夜ともなるとかなり冷え込んでいて、僕は春風の巻いてくれたマフラーに感謝する。
コンビニに向かう前に一度だけ振り返って、自分の部屋に明かりが点いているのを確認する。霙姉さんはどんな顔をして僕の帰りを待っているのだろう。
知らない人にいきなり家族だと言われて、連れてこられたこの家。最初は何を言っているのだろうとすぐ出ていくつもりだったけど、僕が今もこの家に住んでいるのは霙姉さんの存在があるからだ。
表面上は仲良くしているようだけど、霙姉さんは他の姉妹から浮いている。はっきりとわかるようにいじめていたりするわけじゃないけど、まるで腫れ物のように扱われている。
その理由は、霙姉さんがああだから。
今日の一件もそうだけど、姉さんは妙なことにこだわる。他の人にはどうしてと思うような細かいことにでも。
毎日の生活で同じことを繰り返すのもそう。ちゃんと決められたことをしなければいけないと強迫観念を持っていて、そうしないと「怒られる」と言う。誰も怒る人なんていないのに、怒られるからちゃんとしないとと思っている。
子供の頃はそうじゃなかった、と断片的に話を聞いて知っている。終末がどうこう言い出したのと、姉さんがそうなったのは大体同じ頃らしい。
はっきりと言うのなら、姉さんは少し心が「壊れて」しまっている。だから、姉妹であってもなるべく霙姉さんを見ないようにするのは、納得は出来ないけど理解はできる。
人数が少なければよかったのかも知れない。でも、こんなに姉妹が多いと「誰かがやるだろう」と責任を放り出してしまう。
そんな誰にも相手をされていなかった霙姉さんを見て、僕は出ていくことができなくなってしまった。あの人が「家族だ」と現れるまで、僕はあまりいい境遇とは言えなかった。ある意味、僕と霙姉さんは似ていたのかも知れない。
この気持ちがなんなのか僕にはまだわからない。家族愛なのかも知れないし、同情なのかも知れないし、もしかすると、綺麗な姉さんに異性として惹かれているのかも知れない。
でも、そんなことはどうでもいい。僕は姉さんにとっての家族だ。僕は姉さんを守る存在になろう。春風の言葉を借りるなら、僕は霙姉さんにとっての王子様になろう。
コンビニまでの道は遠い。寒さに首をすくめると、マフラーがきゅっと締まったような気がした。