今日のあずまんがSS 1

 高校一年の五月、私は住み慣れた関西を離れて東京に転校した。
 小中学校に比べて高校生の転校は珍しい。目立ってしまうかと思ったけど、私の転入したクラスにはもっと目立つ子がいたのでほっとした。
 美浜ちよ、という十歳の女の子。飛び級で高校に入った彼女はどこにいても目立つけれど、性格が良いのでみんなに好かれているみたいだった。転校してきてからすぐは色々と質問攻めになったけど、彼女のおかげですぐに目立たない存在になることができた。
 目立たない方がいいのは前の高校で学んだこと。もう、あんなことにならないように。
 だから、独特な生徒の多いこのクラスは居心地がよかった。先生もちょっと変わった人だけど、別に不快じゃないからどうでもいい。
 クラスにはすぐ馴染むことができて、前の学校のこともすぐに話題にならなくなった。
 私にとっては、その時期が一番平和だったのかも知れない。


 転機は転校から一ヶ月くらいたったある日のこと。
「大阪ー、大阪ー!」
 その単語に、頭がずきりと痛む。
 私に向かってそう呼びかけていたのは、滝野智――通称ともちゃん。明るくいつもにこにこと笑っていて、にぎやかな子。ちょっと頭が悪くてクラス全体をまとめるようなリーダーシップはないけど、クラスの中心にいるような子だ。
 うるさがられていることもあるけど、どちらかというと好感を持っている人の方が多いみたいだ。女子の会話は他の子のうわさ話や悪口が多いのに、彼女について悪く言っている人があまりいないからわかったこと。
 悩みなんてないんだろうな、と思うと羨ましい。
「なー、大阪ー。次の数学の……」
 ちょっと待ってよ。
「大阪?」
 先を続けようとするともちゃんの話に割り込む。
「へ? 私?」
 私に向かってその単語を言っていたようだったけど……
「そ、あんた。あだ名大阪!」
 そのような意図があったとは薄々感じていたけど、私はその言葉に愕然としてしまう。
 頭がずきりと痛む。
 大阪は、私にとっては住み慣れた土地であると同時に、二度と踏み入れたくない土地でもあった。そもそも、高校の五月に転校してきたのだ。最初の何日かは話題になったけど、わざわざ関西からこの東京に引っ越してきたことに何か事情があるとみんな察してくれていた。忘れかけていたのに。
「大阪から来たから」
「そんな安直な」
 それなのに、この子はそんな安直な理由で「大阪」なんて名前を私に与えようとしているのか!
「みんなー、わかった!? 春日さんは今日から大阪よ!!」
 ともちゃんは、良くも悪くも目立つ存在。私たちの会話は他の人の耳にも入っていたみたいで、口々に「わかった」とか「OK」とか聞こえてくる。みんな、流されるままにそれを受け入れてしまう。
 頭が痛いだけじゃなくて、吐き気がした。
 でも、私はそれがたまらなく嫌だった。定着してしまう前に本人に撤回させれば、私がその不快な名前で呼ばれることはなくなるはずだ。
 それから色々話したけど、変えてもらうのは無理だった。ともちゃんが安直なセンスを持っていて、救いようがないくらいに単純なのだとわかっただけだった。それが許せなかった。
 ともちゃんのそんな思いつきのせいで、それから私はずっと「大阪」と呼ばれることになってしまった。
 大阪。
 そう呼ばれるたびに私は頭痛と吐き気に悩まされる。
 あのことを忘れるためにわざわざ関東まで引っ越してきたというのに、そこで「大阪」なんてあだ名がつくなんて、なんと滑稽なんだろう。
 だから、私は決意した。ともちゃんにも私と同じになってもらおう、と。
 いつもにこにこと笑顔を絶やさない彼女の表情が曇るのを想像して、私は酷く胸がときめいた。それは、全てを失った私にとって、唯一の生きる意味だった。恋心にも似た感情だった。
 生きる意味を与えてくれたともちゃんに、私は今は感謝している。
「なー、大阪ー」
「なんやー?」
 名前を呼ばれるたび、私は吐き気を抑えながら応える。いつか来るその日のために、私はこの子と友達になることにした。