今日の長門有希SS

 6/9の続きです。


 ハルヒが部室にコーヒーメーカーを持ってきてから数日が経つ。
 いつもパソコンに向かっていたハルヒが、毎日のように違う豆を買ってきては新たなコーヒーを淹れるようになった以外、俺たちの活動内容はそれほど変わっていない。ボードゲームをする俺と古泉、読書をする長門が飲むものがお茶からコーヒーに変わったことと、仕事の減った朝比奈さんがどことなく手持ちぶさたになったことだ。
「コーヒーが入ったわよ」
 ハルヒがマグカップを俺たちの前に置いていく。
キョン、これはどうよ」
 コーヒーの味に俺たちはそこまで詳しくない。インスタントと豆から淹れたコーヒーが違うことくらいはわかるわかるが――まあ、目の前で豆を挽いているのを見ているから違うように感じているだけかも知れないが、とにかく豆によって味がどう変わるかなどわからない。
「この豆は少し酸味が強い」
 ぼそりと呟いたのが誰か言うまでもないだろう。こういう時に頼りになるのは長門で、細かい味の違いも機械のように正確に判別できる。
「しかし、言うほど酸味は感じないな。よく酸っぱいコーヒーってあるだろ」
「それは挽いた豆が時間経過と共に参加したのが原因で、豆本来の味ではない」
「そうか」
 ハルヒが凝り出した頃から、長門もコーヒー豆について調べるようになっていた。長門が味について話すのを「ふんふん」とメモを取りながらハルヒは聞いている。
「みくるちゃんはどう思う?」
 ハルヒが声をかけると、難しい顔をしてマグカップをのぞき込んでいた朝比奈さんは「ふぇっ」と驚いたように顔を上げる。
「このコーヒーは好みに合わない?」
「いえ、そのぉ……お茶に比べて、コーヒーってあんまり飲まないので、味のことはよくわからなくて……あっ、でも、これが嫌いとかそういうんなくて……」
「ならいいわ」
 そこでハルヒは大きく溜息を吐く。
「でも、コーヒー豆って高いのね。グラム単位で買ってるけど、けっこうな出費よ。インスタントのコーヒーとか紅茶はそうでもないのに」
「あっ、確かにティーバッグは安いんですけど、紅茶も高いのはあるんですよ」
 朝比奈さんは椅子から立ち上がり、スカートをふわふわとなびかせつつ戸棚から黒い缶を取り出してハルヒに示す。
「これがひとつで二千円から三千円くらいだったかな。一杯あたりで計算すると五十円から百円くらいなんですけどぉ、ティーバッグに比べるとやっぱり違います」
「飲み物の値段ってピンキリなのね」
 一杯あたりの値段なんて考えたことはなかったが、今まで俺が部室で飲んだ飲み物の金額を考えるとかなりのものになっているのではないだろうか。
「部費で買えないかしらね」
 ぼそりとハルヒが無茶なことを呟く。
 そもそも俺たちSOS団は学校に認められた部活動ではないので、部費なんて出るはずもない。部費と言えば俺たちが不法占拠している文芸部に支給されているものだが、正式な文芸部部員は長門だけである。
「有希、部費とか余ってない?」
「残っていない」
「そっか。色々と使ったものね」
 主にお前がな。
「そうだ、美味しくできてるんだから売り物になるんじゃない? 自販機の横にテーブルでも置いて、あたしとみくるちゃんでウェイトレスの衣装を着て」
「さすがにそんな目立つ場所で商売をするのは問題だろう。ただでさえSOS団は生徒会にも目を付けられているんだ」
「じゃあ、SOS団に相談に来たら美味しいコーヒーが飲めるって噂を流したらどうかしら。お金にもなるし、相談に来る人も増えるから一石二鳥」
「来客にコーヒー代を要求するなんて前代未聞だな」
キョンはいちいち文句ばかりね」
 はあと溜息を吐く。
「まあいいわ。気を取り直して冷たいものを飲みましょう」
 そう言って、ハルヒは冷蔵庫から飲み物の入ったガラス容器を取り出す。ドアポケットに入るような細長いもので、よく麦茶などを作るのに使われるようなものだ。
「それはなんだ?」
「水出しコーヒーよ。アイス用の豆で作ったから美味しいはず」


 寄るところがあるとハルヒが一足先に帰り、朝比奈さんも部室を出ていくと、残るのは俺と長門と古泉だ。そもそも俺と古泉がゲームをしているのは時間つぶし的なものであり、長門は部室以外でも本を読むことができる。今やってる勝負が終わったら終わりだな、と口に出さなくても古泉もわかっているだろう。
「少々、気がかりなことがあるのですが」
 そんな折に、口を開いたのは古泉だ。
ハルヒのことか?」
「ええまあ」
「確かに妙なことに凝り出してはいるよな。今のところ充実してるようだが」
 問題は、ハマっているのが金のかかる趣味だってことか。しかしハルヒは様々な豆を自分で買って試したいようなので、古泉が『親戚』などから大量の豆をもらって余っているのを持ってきたなんてのは通用しないだろう。
「でも、考えすぎじゃないのか? ハルヒだって金がなくなったら諦めるだろ」
「ですが、気になることもあるのです」
「なんだ?」
「朝比奈さん、様子がおかしくありませんか?」
「そういえば……」
 改めて思い出してみると、ハルヒにコーヒーの味を聞かれた時のやりとりもどことなくはっきりとしなかったし、ハルヒが紅茶は安いと言い出した時に珍しく反論していたようだった。普段の朝比奈さんだったらあんな反応をしただろうか。
「涼宮さんがコーヒーに凝っていることが、朝比奈さんにとって何か懸念事項なのかも知れません」
「朝比奈さんにって……まさか、未来に悪影響が?」
「そうかも知れません」
 言いながら、古泉は水出しコーヒーのコップを傾ける。
「これだけのコーヒーなら、お金を取って振る舞うという話も、ひょっとすると成功するかも知れません。一般的な喫茶店は家賃や人件費があるのでどうしても原価に比べて高くなりますが、自販機の横や部室を使うなら限りなく安くできます。涼宮さんは聡明なお方です。もし本気でお金を取って売るつもりになれば、それなりに利益が出るようになるはずです」
「まさか……」
 しかし、絶対にないと言えるだろうか。今までハルヒと付き合ってきてあいつが常識とは遠い存在だとわかっている。
長門はどう思う」
 そこで俺は長門に話を振ってみた。読書をしながらも話を聞いていたのだろう、長門は本を閉じて太股の上に置きながら「あり得る」と答える。
「どういうことだ」
涼宮ハルヒが商売としてコーヒーを売るようになれば、この学校だけには留まらず、いずれ世の中に打って出る。仮に喫茶店を作りたいと思えば、協力者はいくらでもいる」
 長門の視線が、ちらりと古泉に向けられる。確かに古泉と愉快な仲間たちは、ハルヒがそれで満足するなら潰れた喫茶店の店舗を買い上げてハルヒに与えることもありうるだろう。鶴屋さんだってそうだ。
「そうなったら、どうなる」
「SOS団で運営することになると、接客の点でもそれなりの質が期待できる。特に朝比奈みくるは看板娘として申し分ない」
 俺としては、無口なウェイトレスってのもマニア的な人気が期待できると思うが、口を挟まないでおく。
「そして、涼宮ハルヒは一つの喫茶店程度では満足しない。個人経営の喫茶店からチェーン系のカフェにシフトするのも時間の問題。そこでも彼女は成功を収めるだろう」
「成功って……具体的には?」
スターバックスエクセルシオールシアトルズベスト……」
「その三つのチェーンがどうした?」
「今名前を出した三つのチェーンを傘下に入れて『SOSグループ』としてカフェ業界に君臨することになる」
「しかし、それは――」
 と、俺が口を挟もうとしたところで、がちゃりとドアが開いた。
「あれぇ、みなさんどうしたんですか?」
 不思議そうに俺たちを見回すのは朝比奈さんだ。重苦しい空気に違和感があったのだろう。
「朝比奈さんの方こそ、どうしたんですか? 帰ったはずですよね」
「いえ、部活が終わった鶴屋さんと話しに行ってただけで、荷物は置いていたんですよ」
「ところで、聞きたいことがあるんですが……ハルヒがコーヒーにハマっていることは、朝比奈さんにとってよくないことなんですか?」
「えっ」
 その顔は驚愕に見開かれる。
「どうして、それを?」
 その反応で、俺たちは今まで話していたことが正しかったのだろうと判断する。
「やっぱりそうでしたか。いずれカフェ業界をSOSグループが……」
「カフェ? SOSグループ?」
 ぽかんと口を開ける。
「違うんですか? ハルヒがコーヒーを売るようになれば、小さな喫茶店から始まり、いずれは巨大なグループ企業に成長して、それは未来と齟齬を生じさせるとか」
「え、えっと、その……あたしはその、涼宮さんがコーヒーを淹れるようになってから、やることがなくなっちゃってちょっと張り合いがないなぁって思っていたんですけど……巨大グループとか、なんの話でしょうか?」
「おい長門
 顔を向けると、長門は本を開いて何事もなかったかのように読書を再開した。

今日の長門有希SS

 SOS団に所属していると、妙な事件にばかり巻き込まれる。ハルヒの能力が引き起こす超常現象もそうだが、ハルヒの性格が引き起こす超常ではないもののそれなりに騒がしい日常。ともかく、高校に入ってからの俺は、それまでに比べて物事に対して驚くことが少なくなった。普通の奴なら驚くべきことが目の前で繰り広げられていても、慣れてしまえば日常の中の一コマでしかない。そうなってしまうと、俺自身も普通じゃなくなってしまったのではないかと少々うんざりしてしまう。
 ガガガガッ!
 そろそろ部室に辿り着こうという時だった。ドリルで何かを砕くような、はたまたビー玉を掃除機吸い込むようなやかましい音が俺の耳に届いてきた。
 発信源は考えるまでもない。俺の目の前に見える扉の向こう、すなわちSOS団の――いや、文芸部の部室の中に相異ないだろう。
 位置的には隣にあるコンピ研から聞こえてきたということもありえないとは言えないが、これまでの経験を踏まえるとその可能性はほとんどゼロと言ってもいい。万が一、今の聞こえるこの音がコンピ研から聞こえているとすれば、使われているパソコンに甚大なトラブルが生じているか、中にハルヒがいるかのどちらかだ。
 文芸部のドアに近づいて行くと、やはり音の発信源はここだとわかる。ドアの前まで来てしまえばさすがに聞こえてくる方向もわかる。
 軽くノックをしてみたが、返事がないところをみるとガガガガという騒音によってかき消されているらしい。もしくは中に誰もいないのかも知れないが、無人の部室でこの怪音が発生しているとすれば、ちょっと尋常ではない事態が起きていることになる。
 ドアを開けてみると、真っ先に視界に入ってきたのはハルヒだ。長テーブルの上に置かれたミキサーとポットを組み合わせたような機械をいじっていて、音はそこから聞こえている。他の全員揃っていたようで、無関心そうに本を読む長門を除く二人は椅子に座ってハルヒに視線を向けている。
 ちなみに朝比奈さんは既にメイド姿になっており、着替え中に出くわしてしまうようなトラブルに見舞われることはなかった。いつもはSOS団専属のウェイトレスのように動き回る朝比奈さんが、パイプ椅子で神妙に座っている様子は、なんとなくお誕生日会の時の小学生を思い起こさせる。
 音のせいか、ハルヒはドアが開いたことも俺が入ったことも気付いていないらしい。得意げな表情で機械を操作するハルヒの横顔を見ていると、香ばしい匂いに鼻孔を刺激される。
「コーヒー?」
「来てるならちゃんと来たって言いなさいよ」
 ぱちんとスイッチを止めて、ハルヒがこちらに顔を向ける。
「ちゃんとノックもしてからドアを開けたんだけどな」
「聞こえなきゃノックしても意味ないわよ。ひょっとして、聞こえないくらい小さな音でノックをして、わざとみくるちゃんが着替えているのを覗いて『俺はノックをしたから無罪だ』とか言うつもりだったんじゃないでしょうね」
「そんなつもりはない」
 そもそも、あんな音の中で着替えていたはずもない。
「どうしたんだ、それ」
「もらったのよ。なんか親戚がビンゴで当てたけど、使わないから要らないってうちにまわってきたの」
 それがハルヒの手によってSOS団にもたらされたわけか。
「で、それはコーヒーメーカーか?」
「そうよ。あんたの事だからポットとか間抜けな勘違いするかと思ったけど、ちゃんとわかったのね」
 まあ見た目だけならそう勘違いしたかも知れないが、さっきの音と部室に充満する香りでなんとなく予想はできた。
「豆をセットしたら美味しいコーヒーを淹れてくれる優れものよ」
 よくわからないが、コーヒーメーカーというのはそういうものなのではないだろうか。いや、豆まで挽ける機能があるのは高級品なのかも知れないが、俺個人で購入したことも購入を検討したこともないのでわかるはずもない。
「ここがヒーターになってるから、温かい状態で保存しておけるらしいわ」
 コーヒーメーカーにはガラス製のサーバーがセットされており、どうやらその下が鉄板のようになっているらしい。水やお湯は俺が来る前にセットされていたのか、そのサーバーにコーヒーが少しずつ溜まっていく。
 インスタントならお湯で溶くだけだが、豆を使うコーヒーはお湯でゆっくりと抽出しなければならない。さすがにこういう機械を使っても、その部分は手動でやるのと変わらないのだろう。
 この機械自体の仕組みとしては、ミルで挽いたコーヒー豆をフィルターにセットして上からお湯を注ぐという作業を機械が肩代わりしているものなのだろう。それらが完全に全自動で行われるのは素直に感心する。
 サーバーに溜まっていくコーヒーを眺めているハルヒは、まるでトランペットを欲しがる少年のようだ。まあ、機械的なギミックに惹かれる心境は俺にも理解できなくもないが。
「しかし、ビンゴの景品ねえ」
 呟いて顔を向けると、古泉はにこやかな営業スマイルをわずかに左右に動かす。特に何か画策していたわけではないらしく、今回は本当にハルヒが説明した通りなのだろう。
 もっとも、古泉たちにどんな思惑があればハルヒの手元にコーヒーメーカーがやってくるのか、俺にはさっぱり理解できないし、そんな思惑は発生しないのだろう。
「さあできたわ! みくるちゃん、人数分のカップをお願いね」
「あ、はい」
 すっと立ち上がった朝比奈さんは、てきぱきとした動作でコーヒーカップをテーブルに並べていく。そういえば、今日は朝比奈さんのお茶をいただいていない。遅く来た俺だけでなく、テーブルに湯飲みやカップがなかったところを見ると、ハルヒのコーヒーが出来上がるのを待っていたらしい。
キョン、毒味役はあんたよ」
「真っ当な豆なんだろうな」
「当たり前じゃない。昨日、ちゃんとコーヒー豆の専門店みたいなところで買ってきたんだから。新鮮フレッシュよ」
 海外から輸送されたり焙煎されたりする豆に鮮度が関係あるのかわからないが、少なくともフレッシュという表現はおかしい。しかし、買ったばかりの豆だというのなら問題もないだろう。
 まずは香り。インスタントや自販機のコーヒーとはさすがに格が違う。味の方はというと、いつも不思議探索前に行く喫茶店に比べてしまうとやっぱり劣るのだろうが、それほどコーヒーに詳しいわけじゃないし、まあ美味いんじゃないかというようには思える。
「どうよ」
「まあ普通にいいんじゃないか」
 ハルヒが淹れたコーヒーという部分で多少身構えたところはあったが、考えてみればハルヒは材料をセットしてボタンを押しただけだ。
「美味しいって思うならもっとそれっぽい感じで喜びなさいよ。奥さんの父親が買ってきた全自動卵割り機で割られた卵を食べた亭主みたいな感じで」
 どんな喜び方を要求するんだお前は。
「ま、あんたが美味いってんならいいわ。洗剤の味とかしないでしょ?」
「待て、お前これ使う前に一度は洗ったんだろうな」
「当たり前よ。まあ慣れない機械だったし、ちゃんとすすげてるか気になっただけ」
 ハルヒが妙なことを言ったせいで、本当に洗剤が混じっているんじゃないかという気になってしまう。全く感じないから大丈夫だとは思うが。
「どっちかっていうと安い豆だったんだけど、悪くないみたいね。とりあえず大丈夫みたいだし、みんなも飲みましょう」
 俺が本当に毒味だったらしく、それで他の面々も飲み始める。最初に準備していたのは五人前だったようで、一人一杯飲んでなくなってしまったが、飲み終わるとハルヒはまた豆をセットして作り始めた。
 活動が終わるまで俺たちは一人あたり三杯から四杯程度のコーヒーを飲むことになった。


 ちなみにその日の夜、長門が家電のパンフレットを見ていたが、それはまた別の話。

今日の長門有希SS

 全ての授業の後にホームルームがあり、それが終わると俺たちは解放される。しかし今日は教室掃除の当番であり、回転ボウキを使ってホコリを一カ所に集める。
 俺もそうだが、熱心に掃除をしようなどという者はおらず、どことなく弛緩した気持ちで掃除を続ける。邪魔にはなっていないが、教室内で雑談をしている者の存在もやる気を奮い立たせない理由だろう。
 見渡すといくつかのグループが固まっている。男子同士は二人や三人で、谷口と国木田のコンビがそれの顕著な一例だ。男子に比べると女子同士の方が人数が多く、ハルヒや朝倉を中心に数人が談笑しているのが目に入る。
キョン、ダラダラ掃除してんじゃないわよ。いつまで経っても終わらないわよ」
 目があったところでハルヒがそんな声を投げかけてくる。俺一人が獅子奮迅の活躍をしたところで掃除がすぐに終わるわけではない。声がかかるまでと同じペースでホコリを集め、ちりとり担当がそれをかき集める。集まったゴミはじゃんけんをして負けた物が捨てに行くのだが、俺はその役目を免れた。
 さて、これで掃除が終わった。鞄を持って教室を出ようとすると、会話の輪から抜け出たハルヒが俺の後に続いた。
「話が途中だったんじゃないのか」
「続けなきゃいけないような話なんてしてないわよ。それに、あたしが抜けても大して変わらないわ。涼子が抜けたらなんとなく解散しそうだけど」
 わからないでもない。朝倉はクラスの中で男女問わず慕われており、様々な分野でリーダーシップを発揮し物事の中心になっている。ハルヒとは違う意味で。
「古泉くんはもう部室かしら」
 途中、のぞき込んだ教室に古泉の姿はなかった。あいつだってSOS団以外のところに身をおいており、教室にいなければ必ずしも部室に行っているわけではないのだが、ここのところ大きな問題が起きているわけでもないのでバイトではない可能性が高い。となるとハルヒの推測が正しいのだろう。
 そう、ここのところ大したことは起きていない。ハルヒがらみの騒動もそうだし、テストもまだ先の話だ。たるんでいるかと聞かれれば、俺は否定することができない。
 ハルヒとどうでもいい会話を繰り広げているうちに、俺たちは部室に到着していた。ハルヒがノックもせずドアノブに手をかけたので慌てて視線をそらそうとしたが、一瞬見えた部室の中には古泉の姿があり、俺は顔の向きを正面に戻す。
「おや、ご一緒でしたか」
「まあね」
 ずんずんと自分の定位置に向かい、ハルヒはふんぞり返る。そしてそこに朝比奈さんがそっと湯飲みを差し出す。ハルヒはパソコンの電源を入れると、その手を机の上に置かれた湯飲みに添えて口に運ぶ。流れるような一連の流れは、こういったやりとりが何度も繰り返されてきたことを如実に表している。俺だってどれだけこの日々が続いているか思い出せない。
 俺たちにとっては、この部室にいることが当然なのだろう。名目上は文芸部の部室であるが、そんなことはどうだっていい。俺たちSOS団は――
長門はどうしたんだ?」
 椅子に座って、朝比奈さんに差し出された湯飲みを傾けながら、俺は疑問を口にする。俺たちより後に長門が来ることも珍しくはないが、今日はそうではない。窓際にパイプ椅子が置かれていて、その上に分厚いハードカバーが置いてあり、椅子の横には長門の鞄が置いてある。一度はここに来ていた証拠だ。
長門さんなら呼ばれてお隣に行きました。なんか困ったことがあるって」
「あ、そうでしたか」
 お隣がどこを意味しているのか、朝比奈さんに聞き返すまでもない。ゲームで全面戦争をして以来、長門はちょくちょくとコンピ研に顔を出すようになった。正式な部員として所属しているわけではないが、コンピ研に対する貢献度は部長氏をも越えるほどのものになっているのではないだろうか。
「全く、あいつら有希をなんだと思ってんのよ。都合のいい便利キャラじゃないのよ」
 ぷりぷりと頬を膨らませてハルヒがそんなことを言う。
 コンピ研の連中もそうだが、俺たちも何かあると長門に頼ってしまうところがある。ハルヒの言葉は少々耳に痛い。
 その自覚は朝比奈さんや古泉にもあるようで、二人の顔にもどことなく苦笑じみたものが浮かんでいる。もっとも古泉はいつもの営業スマイルは崩していないか、心なしかそれが安っぽく感じられる。
 そんなやりとりをしていると、ドアが開いて長門が姿を現した。無言で部室の中を一瞥してから、窓際のパイプ椅子まで移動し、置いていた本を手に取って座る。
「有希、何をしていたの?」
「プログラムの不具合の修正をしてきた。同じ変数を間違って二度使ってる場所があって、入力された値に対し返ってくる値がおかしくなっていたのが原因だった」
「ふうん、大変だったのね」
 意味がわかっているのだろうか。俺には何となく聞き流したように見えるし、俺も長門が何を言っているのか理解できていない。
「でも、そんなことでいちいち呼びに来なくてもいいじゃない。有希だって本を読んでる途中だったんでしょ?」
「そこまで時間に追われてはいない」
 と、太股の上にのったハードカバーの表紙をそっとなぞりながら長門は答える。
「この本は返却期限までまだ日数がある」
「じゃあ、今日は読まなくても大丈夫ってこと?」
「問題ない」
「よし、わかったわ」
 ぽんと手を叩いて、ハルヒは俺に顔を向ける。
キョン、古泉くん、全員でできるようなボードゲームを急いで探すのよ。今日はみんなで遊ぶわ」
 ハルヒの宣言により俺たちは慌ててボードゲームが収められた箱に駆け寄った。


 後から気が付いたことではあるが、この日は部室だけではなく、マンションに行ってからも長門は本を開くことはなかった。

今日の長門有希SS

 俺たちの通う高校は駅からちょっと離れた高台にある。ホームルームの終わる時間がクラスによって異なり、部活などがあるせいで帰宅時間がまちまちになる夕方とは違って、登校する時間は皆同じ。朝練などで早く学校に行っている奴らもいるが、全体から考えると割合的にはそれほど多くない。
 だから、登校時間にはぞろぞろと学生たちが坂を登っていく。その様子を俯瞰すると、まるで餌に向かう蟻の集団のようだ。俺たちの高校はブレザーだが、もし仮に学生服ならより蟻っぽかっただろう。
 なんてことを考えながら歩いていると、正面からこちらに向かってくる人物がいた。それは俺の知っている人物で、人混みをかき分けるように狭い歩道を逆走している。
「どうしたんだハルヒ
「説明は後よ!」
 てっきり俺に用事があるのかと思ったが、ハルヒは俺の横を素通りしてそのまま坂を駆け下りていく。一体どうしたんだ。人と同じことが嫌だからと言って、そんな風に逆走することはないだろう。
 事情はよくわからないが、ハルヒの背中は既に小さくなっていて、追いかけても追いつくことはできないだろう。そもそも追いかける必要もない。転がる石のように駆け下りるハルヒを見ていると、よく転ばないものだと感心する。
 あっと言う間にハルヒが見えなくなったので、俺は正面に向き直って歩き出す。ハルヒがおかしなことをするのは俺たちの高校では既に常識のようなものなので、周りの奴らも気にした風はない。気にならないことはないが、後で説明すると言っていたのでその時に聞けばいい。
 しかし、ああして通学路を逆走していたわけだが、学校に来るつもりはあるのだろうか? 勉学はともかくSOS団の活動には熱心なハルヒなので、最低でも放課後までには来るだろう。
 気を取り直して歩き出すと、先の方に見慣れた人物が二つ並んでいた。ショートカットの小柄な背中と、すらっとして後頭部で髪を留めた後ろ姿が並んでいるとまず間違いようがない。そもそも俺が長門を見間違えるはずなどない。
「よう」
「あ、おはよう」
「おはよう」
 小走りで駆け上がって声をかけると二人が振り返った。言うまでもなく長門と朝倉だ。
「途中で一緒になるのは珍しいね」
「ああ」
 行き先が同じなので奇遇というわけではないが、どちらも同じ方向に歩き続けているので合流しない日のほうが多い。
「珍しいと言えば、さっきそこでハルヒとすれ違ったな。お前らもすれ違ったのか?」
「わたしたちは涼宮ハルヒとはすれ違っていない」
「へえ、そうか」
 俺がハルヒと遭遇した場所から長門や朝倉と合流するまでそれほど距離はなかった。ハルヒはその間にいて、突然逆走を始めたというのだろうか。
「一体、なんだったんだあいつ」
「あ、それなら知ってるよ。忘れ物だって」
「なんで知ってるんだ? すれ違ってないんだろ?」
「わたしたちはすれ違っていない。なぜなら――」
「ちょっと待ってくれ。考える」
「そう」
 ハルヒが登校中に突然家に向かったことの理由は判明したが、ここで新たな謎が生まれた。二人はハルヒとはすれ違っていないというのに、帰った理由を知っていた。朝倉はこんなことで嘘を吐くような性格ではないし、仮に嘘だったとしても長門が訂正するはずだ。
「推理漫画ならここで週が変わっていてもおかしくない」
 長門が妙なことを言い出す。確かに麻酔針を駆使する小学生探偵なら週をまたぐか、扉が開いたり閉まったりしてCMに入っているに違いない。
 さておき、ハルヒが家に戻った理由が本当かどうかはもうどうでもいい。それよりも気になる謎は、なぜハルヒに会ってもいない二人が事情を知っていたのか――
「待てよ、ハルヒと会ってないって言ったか?」
「すれ違っていないとは言った。会っていないとは言っていない」
「ひょっとして、ちょっと前まで三人だったのか?」
「そう」
 一緒にいた状態からハルヒだけ帰ったなら、確かにすれ違ったわけではない。すれ違っていなくても、直前まで一緒にいたわけだ。
 騙された。いや、長門も朝倉も別に騙す意図などなかったのだろう。俺が早とちりをして勘違いしただけだ。
「朝から妙なところで頭を使ってしまったな」
「わたしは説明しようとした」
「いや、悪かった。ところハルヒは何を忘れたって?」
「宿題をやったノートだって。キョンくんはちゃんと持ってきた?」
「……あ」
 ノートは忘れていないが、宿題があったことそのものを忘れていた。

今日の長門有希SS

 前回の続きです。


 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
「……」
「……」
 長門と俺は、布団をコタツ――ではなく、布団を外して単なるコタツ机となったものを挟んで向かい合い、押し黙っている。
 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
 部屋の片隅から金属のこすれ合うような、いや、金属のこすれ合う音が聞こえてくる。もっさりとした長い黒髪をすだれのように顔の前にたらし、焦点の合わない目で一心不乱に包丁を研いでいる。事情を知らぬ者がここに現れれば、果たしてどう思うのか。
 ぴん、ぽーん。
「お邪魔しました。あら?」
 チャイムの音が鳴ったのと同時にリビングに現れたその人は、俺たちの一学年上の先輩であり、長門と同じような存在である喜緑先輩に他ならない。彼女は現れるや否や、部屋の片隅に視線を向けて首を傾げる。
「あれは、お二人に見えない存在ですか?」
「見えてる」
「俺もです」
「そうですか、てっきり住人の寝静まった頃に刃物を研ぐ妖怪の類かと思いました」
「似たようなもんですけどね」
 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
 元々、ここの包丁類がいつも一定の切れ味を保っているのは、いつの間にやら朝倉が手入れしていたからだ。さすがに寝ている時に忍び込むのは希だが、三人で飯を食った後に食器を洗う時にはいつも朝倉のチェックが入り、大抵は切れ味が落ちているので研がれることになる。その結果、長門家の包丁は刃先に止まったトンボが二つになるのではないかと言われるほどの切れ味を誇る。
 と、そういうわけで朝倉が長門家の刃物の面倒を見ること自体はそれほど珍しくもないのだが、あんな風に俺たちの存在など忘れたかのように包丁を研いでいるのはもちろん理由がある。
「ところでお茶を頂けませんか? 喉が渇きました」
「わかった」
 朝倉のためにと用意していた湯飲みにお茶を注ぎ、長門はそれを喜緑さんの前に置く。
「最近は温かい日が増えてきましたね。そろそろ麦茶を作る季節でしょうか」
「わたしの部屋では冬でも作っている」
「……朝倉があんな風になっている理由は気にならないんですか?」
「いえ、それほど。問題があると刃物で解決するような方ですから、よくあることではないでしょうか」
「……」
「個人的には、話したそうにしている事柄より、いかにも話したくないようなお話を聞くほうが好みです。そうですね、お二人の好みの体位とか」
「言いたくありません」
「統計的には正常――」
「答えるな」
「……」
 なぜ不満そうな顔をする。
「なるほど、長門さんはそれが『話したい事柄』なんですね。おのろけがお好きなようで」
 猥談ものろけ話のうちに入るのだろうか。
 しゃりしゃり――
 しゃりしゃり――
「まあ、一度はノリで拒否しましたけど、彼女があんな風になった顛末というのは気にならなくもないので、理由を教えて頂けますか?」
「やっぱり元に戻したいと思いますか?」
「いえ、別にそういうわけではないのですが、理由を知った方がより楽しめます」
 まあそういうお方だとは知っていたが。
 ともかく、朝倉がああなったきっかけは、数日前の教室での出来事が原因だった。


「こ、これは、その」
 自分の机の横、床に散らばった鞄の中身をかき集めながら、朝倉は狼狽を見せる。
 元々は俺が谷口や国木田と話していたところにハルヒが乱入したせいだが、ハルヒの発言に動揺した朝倉が自分の鞄をひっくり返して中からコンバットナイフを飛び出させてしまったわけだ。
「ほら最近物騒じゃない?」
 生身で軍隊と対抗できそうな戦力を持っているくせに、朝倉はナイフを鞄に入れながらしなを作る。そのポーズだけ見ると自衛のためにか弱い女の子がナイフを持ってきただけとも見えなくはないが、拾ったナイフをくるくると回転させてから鞄に収めるという一連の動作は余計だったように思う。
「なに、ストーカーでもいるの? それならあたしたちSOS団に言ってくれれば、捕まえてぎったんばっこんにしてあげるわ!」
 ストーカーを加工してシーソーにでもする気かお前は。
「だから涼子がナイフなんて危ないものを持ってるとよくないわ。だいたい、使い慣れないのに刃物なんて使ったら自分を傷つけちゃうわよ」
 それはあり得ない。俺が知る中で朝倉以上に刃物を使いこなしている者はいない。朝倉は敵が自分に向けるナイフを使ってその敵を討ち果たすことすら容易いだろう。
「危ないからあたしが預かるわよ」
 そういうと、ハルヒは朝倉の鞄に手を突っ込み、ナイフを取り出す。
「あれ?」
 ハルヒが首を傾げるのも無理はない。ハルヒが取り出したのは確かにナイフだったが、それは先ほど床に転がっていたコンバットナイフではなく、小さく刃が平たい別物だった。
「これは?」
「そ、それは鍵を開ける時に便利なの」
 便利ってどういうことだ。
「ええと……これは?」
 ハルヒが鞄から取り出したのは、またしてもコンバットナイフではなく、矢尻のような形をした刃物だ。
「それは投擲用の、手裏剣とかくないって言った方がわかりやすいかな」
「これは?」
「そっちはソードブレイカーって言って、相手が攻撃してきた剣をそのギザギザに引っかけて折るためのナイフね。どっちかというと攻撃より防御のためのものなの」
 お前は何に備えているんだ。
「一体いくつ刃物を持ってるのよ!」
 四次元にでも繋がっているかのごとく次から次へと見たこともない刃物を吐き出す鞄にハルヒの堪忍袋の緒が切れたらしい。朝倉の鞄をひっくり返してざらざらと出てきた刃物をビニール袋に詰めて没収したところでチャイムが鳴り、授業が始まるのだった。


「で、部屋に乗り込んだハルヒに台所にあった包丁すら没収されて、今に至っているわけです」
「教室でもあの調子なんですか?」
「いえ、真面目な委員長らしく普段通りの態度なんですが、学校から帰るとああなります」
 部屋の片隅に視線を向けると、朝倉はしゃりしゃりと包丁を研いでは確認するようにうっとりと眺めている。
「まるで中毒ですね」
 それに近いものはある。もっとも、金属アレルギーはあっても、刃物中毒なんて言葉は聞いたことがない。
「なんとかなりませんかね」
 長門の部屋にいる時に朝倉が居座ること自体は珍しいことでもないので慣れてはいるが、妖怪じみた状態でいられると少々薄気味悪い。
「原因を整理しましょう」
 そういうと、喜緑さんはどこからかメモ用紙とボールペンを取り出し、一本の横棒を引いた。
「彼女がああなっている理由はもちろんナイフを取り上げられているからですが、なぜそうなるのかという部分を分析したいと思います」
 言いながら喜緑さんは棒を楕円で囲む。
「結論から言いますと、あれは一種のパニック状態です。例えば映画館で映画を見ている時、普段よりトイレに行きたいと思ったことはありませんか? あれは『なかなかトイレに行けない』と思うことにより、より尿意を感じてしまうというパニック障害の一種なのです。彼女にとっては『ナイフがない』ことがそれに近いストレスを感じさせるのです。ニコチン中毒の人が長時間タバコを吸えなかった状態に近いですね」
 楕円の上に二つの丸が描かれ、それぞれの中心に点が打たれる。
「解決のための方法は二つあります」
 二つの円を包み込むように、楕円の上に更に大きな半円が描かれる。
「一つ目は、刃物に対する依存症をなくすことです」
 楕円の下に二本の線が引かれ、それを挟むように数字の六のような図形が左右に絵が描かれる。
「もっとも、依存症を無くすのは容易ではありません。ニコチン中毒の場合は長期間タバコを吸わなければ体質が変わってニコチンを不快なものとして認識するようになるそうですが、彼女のナイフ中毒はどちらかといえば体より精神に根ざしたものです。治すためには長期間のカウンセリングか、短期間でも強力な洗脳が必要です」
 左右の六を頂点とした逆三角形が描かれ、その中心に縦線が一本引かれる。
「二つ目は、ばれないように刃物を持つことです」
 最初の方に描いた半円の左右に一つずつ丸が、そして逆三角形の上底の上にある二本の線の間に小さな丸が三つ描かれる。
「正直なところ、こちらの方が簡単ですね。涼宮ハルヒにばれないように、体のどこかしらに刃物を仕込めばいいだけですから」
 逆三角形の下の頂点の左右に楕円が描かれる。
「今回の場合、未来人も超能力者もフォローに回ってくれるでしょう。彼らは朝倉涼子が不安定な状態であることをよしとしないはずです」
 半円の上に雲のような形の図形が描かれた。
「あーっと言う間に可愛いコックーさんっ」
「それは解説のための絵じゃなかったんですか」
「単なる手慰みです」
 こほん、と喜緑さんは咳払いをする。
「言い換えると自慰です」
「言い換えないでください」
「とにかく、他のお二人には事情を説明してしまっていいでしょう。その上で涼宮ハルヒさえ誤魔化せれば解決です」
「そのハルヒを誤魔化すってところが難しい気がしますけどね。あいつ、妙なところで勘がいいんですよ」
「大丈夫ですよ。女には隠すところがいっぱいあるから、どうとでもできます」
 そう言って、にこりと笑う。


 その翌朝、通学路の途中で合流した朝倉や長門と三人で登校し、教室の前で長門と別れて朝倉と二人で教室に入ると、ハルヒがじっとこちらを見つめてきた。
「あっ」
 朝倉はびくりと体を震わせる。詰問するような表情は、まるで全てを見透かしているのではないかと不安になる。
 視線が集まっているせいか朝倉はほんのりと頬を上気させている。ここで俺まで取り乱しては気付かれてしまうだろう。
キョン、なんで涼子と一緒なの?」
「途中で会ったんだよ。そこまで長門と一緒だった」
「ふうん」
 それから、ハルヒは視線を横にスライドさせる。
「涼子」
「な、なにかしら?」
「普段とちょっと感じが違うけど、そういう髪型もいいわね。髪飾りもいい感じだし」
「そう、よかった。変に思われないか心配だったの」
「涼子は元がいいんだからそんな心配しなくてもいいわよ」
 自分の席に戻っていくハルヒについていくように、朝倉のお団子頭が揺れて遠ざかっていくのを俺はドアのところで眺めていた。
 そう、今日の朝倉は普段と髪型が違う。長い髪を頭の後ろで団子状にして、それをかんざしのような髪飾りで留めている。
 そして、そのかんざしはナイフのようなものだとも言える。どちらかと言えば大きな針や釘に近いかも知れないが、朝倉の腕前なら分厚い鉄板でも貫けるだろう。もし外したものをハルヒに見られたとしても、ぎりぎりで武器ではないと言い訳できる範囲だ。
「これで解決」
 気が付くと、横に長門が立っていた。教室に入っていったと思ったが、心配してみていたのだろうか。
「ま、しばらくあのかんざしで我慢して普通のナイフを持っていなければ、ハルヒも鞄を調べたりしなくなるだろう。そうなれば元通りだ」
 あいつは飽きっぽいしな。
「しかし、中毒ってのは大変なもんだな。俺はよくわからないが」
 依存症になることで有名な酒もタバコも高校生の俺にとっては縁の薄いものだ。全く触れたことがないわけではないが。
「わたしはわかる」
長門もなんかの中毒なのか?」
「あなた。ここ何日か朝倉涼子が滞在していたから、そろそろ禁断症状が出てもおかしくはない」
「そうだな……どうやら俺もそんな感じだし、今日は帰ったら二人でのんびりするか」
「する」
 長門は俺の顔を見上げ、嬉しそうに首を縦に振った。

今日の長門有希SS

 人間には性欲というものがあり、高校生である俺たちの年代はそれが盛んな時期である。性欲は生物にとって種を保存するための本能であり、男女問わず存在するものであるが、かつて長門と交際する以前は男にしか存在しないものだと思っていた。それが女性にも存在すると知るに至った過程についてここでは述べないが、とにかく俺たち高校生は性欲に満ちているというわけだ。
「いい物が手に入ったんだ」
 俺の知る中で、その本能が最も強いと思われるのが谷口だ。こいつは性欲を自ら解消するためのアイテムを調達する術に長けており、その戦果を俺や国木田にも見せようとする。現在の俺は長門と交際しているため性欲を無駄に発散する必要はないが、かといって性的な本や映像を見たくないわけではない。彼女がいるとかそういった話を耳にすることのない国木田もそれなりに興味を示してはいるが、どちらかと言えば俺よりも食いつきはよろしくない。
 そして、そこに食いつくのは俺や国木田だけとは限らない。
「あんたら、あたしの机の前で何やってんのよ」
 授業が終わるや否や教室から出ていた団長様の姿がそこにはあった。うさんくさそうに、谷口が抱えた鞄をじっと見ている。
「なんで鞄なんて持ってキョンの机まで来てんのよ」
「べ、別になんでもねえよ」
「怪しいわね。エロ本でも入ってんじゃないの?」
「そそそそそんなわけねえだろ!」
 動揺しすぎだ。
「本当に入ってないなら鞄の中見せてみなさいよ」
「プライバシーってものがあるだろ。涼宮は見せられるのかよ」
「別に見せてもいいけど」
 そう言うと、ハルヒは自分の鞄を開けて机の上にひっくり返す。教科書とか重い物は既に出していたようで、大した物はでてこない。携帯なんかも禁止されているわけじゃないし、やましいものは入っていない。
 校則というか人として必要な常識すらわきまえているとは言えないハルヒの所持品が常識的な範囲内に収まっているのは不思議なように思えるかも知れないが、ハルヒが所有権を持っているおかしなものは文芸部の部室に大量にあり、本人が持ち歩いているわけではない。持ち物検査ではなく、部室へのガサ入れがあれば大量に摘発されるだろうなとは思うが、わざわざ教室で所属している団の恥部を晒す必要はないので俺は黙って様子をうかがうことにする。
「ほら見せたわよ。あんたも見せなさい」
「見せてくれなんて言ってねえだろ! どうせお前も鞄に細工して怪しい物はそこに隠してんだろ?」
「……も、ってことはあんたはそういう仕掛けをしてるの?」
「くっ」
 谷口の鞄への細工は見事だと常々思ってはいたが、こういう形で発覚すると予想外だ。まあ今回は谷口が自主的に購入したものであり、俺や国木田の所持品ではないので、ハルヒに発覚してどのような目に遭おうが知ったところではない。つーか、できれば俺たちを巻き込まないで欲しい。
 と、国木田の影が薄い。と言うかいつの間にか消えている。教室内を見回してみると、俺たちとは最初から関わっていなかったかのように、自分の席に避難している。
 裏切り者め。そもそも今回は谷口が勝手に鞄を持ってやってきたのが原因であり、俺や国木田はどちらかといえば巻き込まれただけなのだが、あの逃げ足の早さは素晴らしい。そんな思いで見ていると、視線を感じたのか、国木田の隣にいた人物が立ち上がってこちらにやってくる。
「一体、何があったのかしら?」
「あ、涼子。こいつが鞄になんか隠してるみたいなのよ。たぶんエロ本とか」
「まあ、本当なの?」
 赤ん坊はコウノトリが連れてくると今でも信じているかのごとき童女のように無垢な顔で朝倉は驚きを表現する。
「いや、べ、別に隠してなんか……」
「堂々と入れてるから隠してないっていうのはなしよ」
 そいつは一体どんな変態だ。谷口はどうか知らないが、少なくとも俺にはそういった趣味はない。
「とにかく、あたしが鞄の中身を見せてやったってのに、こいつは見せないってゴネるわけ」
「見せられるのかとは聞いたが、強要したわけじゃないだろ」
「あの流れならそう聞こえたわよ。目には目を、埴輪覇王って言葉を知ってる? あたしは谷口の言葉に従って鞄の中身を見せてあげたんだから、あんたも見せるべきよ」
 つっこみどころがいくつかあってどこから潰していけばいいのか俺にはわかりかねるが、とりあえず言葉の響き的に強そうだなとは思った。
「ほら、見せなさいよ。あたしの鞄だけじゃ不満っていうなら、涼子のも見せる? 涼子は優等生だし、どうせ変な物は入ってないと思うけど」
「え――わたし、の?」
 そこで妙な動揺を見せたのは朝倉だった。普段あまり取り乱すこともなくどちらかといえば飄々とした印象のある朝倉が、明らかに狼狽している。
「涼子?」
「なななな、なんでもないわよ? うん、平気。変な物とか持ってないわよ。だから見なくてもいいんじゃない?」
 何かがありますと宣言しているかのような態度だった。しかし、中身を見せたくなさそうな女子の鞄の中をあばこうと言うのはさすがのハルヒも良心がとがめるのか、ばつが悪そうな顔をしている。
「そうね。涼子が変なものを持ってきてるわけないってのは最初からわかっているわよ。そ、そろそろ授業の時間ね。涼子、戻った方がいいんじゃない?」
「あ、うん。そうさせてもらうわね」
 くるりと体を半回転させると、右手と右足を同時に出すというかなり動きづらそうな歩き方で自分の席に戻っていく。普通、ああいう茫然自失の状態なら無茶な動きを体は選択しないと思うのだが、朝倉は通常の人間とは違うのでひょっとするとあの歩き方のほうが体が慣れているのかも知れない。古武術ではあのような動きがあるらしい。
「きゃっ」
 自分の席に戻ったところで、朝倉は机に脚を引っかけて転びかける。持ち前のバランスのよさのためか倒れることはなかったが、横に引っかけていた鞄が床に落ちた。
 最初から開いていたのか、それとも落ちた衝撃で開いたのかわからないが、鞄の中身が床に散らばる。俺にとってはそれほど違和感の感じないものばかりで、ハルヒと同様に大した物は入っていないように見えた。
「涼子、それ――」
 しかしハルヒは、立ち上がると目を丸くしている。その先にあるものは、俺にとっては見慣れたものであるが、こういう場には本来似つかわしくないものだ。
「なんでそんなものを持ってるの?」
 ゴツいコンバットナイフだった。

今日の長門有希SS

 図書館という施設では、今そこにある本だけではなく、貸し出し中のものや提携している図書館が所蔵している本を予約することができる。提携という表現は正しくなく、基本的に同じ市町村にある図書館は運営している自治体が共通していており、中央図書館とその分館となっているとか、詳しいことはよくわからないがそういった感じらしい。
 ともかく、俺や長門の住む市にはいくつか図書館があり、そこに収められているものは遠くの図書館であるものであっても予約して取り寄せることができる。もちろん貸し出し中の本は返却されるまで待つ必要があるが、このシステムを活用することにより、借りられる本の数は飛躍的に増殖する。
 と、偉そうに述べているがこれらの情報は長門の受け売りだ。俺が第一回不思議探索パトロールの際に図書カードを作ってやるまで図書館を利用したことのなかった長門だが、今や図書館の活用方法を熟知している。ビデオデッキの普及など科学技術が性によって普及することは知られた話だが、長門にとっては読書欲がそういった役割を果たしたらしい。
 さて、この予約というシステムは便利だが、全く制限がないわけではない。予約の数には一人あたり二十冊という上限がある。
 二十という数字はかなり多く使い切れないように思われるかも知れないが、必ずしもそうとは言えない。本によって違うが、人気のある本は予約してもかなり待たされることになり、その間は常に一冊分予約できる枠を消費する。映画化やアニメ化した、何らかの賞を取った、テレビで取り上げられた、作者が何らかの理由で話題になった……といった要素で予約数は跳ね上がり、場合によっては三桁に達することだってある。一人一人が読んですぐ返せばいいのだが、一人予約しているだけでも一ヶ月近く待たされることだって珍しくはない。仮に一冊しか蔵書がない本が百人待ちであれば、自分のところに届くまで十年近く経過するなんてこともない話ではない。
 まあ、その場合はさっさと予約を解除して買うか諦めるかするべきだが、これが二十人待ちで自分は上から三番目、などという状況になると中途半端すぎて予約を解除できなくなる。この複雑な心境は図書館を使った者ならわかっていただけるだろう。ちなみに俺はその気持ちをあまり実感していないのだが、長門がそういう状況をよく味わっているようなので、何度となく聞かされてうっすらと理解している程度だ。


 と、図書館の蔵書の予約について延々と考えてきたわけだが、今は自転車で移動中である。もちろん後ろには長門がいて、俺たちが向かう先は図書館だ。二人乗りというのは危険性があるためか法的には少々問題のある行為だが、長門は重力を制御できる上に完璧なバランスを取っているので、危険性は皆無である。むしろ、俺一人で自転車に乗っている時よりも長門を乗せているほうが安全である。仮にペダルを漕ぐ足を止めたとしても、長門の宇宙的バランス感覚によって地球ゴマのように安定した状態を維持できると俺は確信している。だから俺たちが二人乗りをすることはそれほど大きな問題がないのだが、一般的には反社会的行為とされるのでよい子は真似してはいけない。
 ともかく、何事もなく俺たちは図書館に到着した。颯爽と自転車を飛び降りると、きびきびとした動きで長門は図書館の中に吸い込まれていく。駐輪場の隙間に自転車を押し込んで鍵をかけ、中に入った時には既に長門はカウンターの前に立ち、持ってきていた本の返却を済ませ、予約していた本を係員に探させているところだった。
 ちなみに長門は、図書館での予約にネットを活用しているらしい。図書館に置かれている端末だけでなく、携帯電話やパソコンを使うことで予約できる。学校にいる時に予約したい本を思いついた時は文芸部のお隣さんであるコンピ研に行ってパソコンを使って予約していることもたまにあるらしい。
「何冊借りたんだ?」
「今日は三冊」
 そう言うと、長門は本を鞄に押し込んで、図書館に置かれた端末に向かう。これを使うと蔵書の検索や予約ができる。
「返したのは何冊だったか」
「二冊」
「とりあえずその二冊については続きを予約するのか」
「そう」
 長門は手慣れた手つきで端末を操作し、プリントアウトされたレシート状の用紙を大事そうに財布の中にしまっていく。先に述べたように図書館では予約できる数に上限があり、その数をフルに使っている長門は予約した本を借りるまで新たな予約をすることができない。今日は三冊借りることができたため、それだけ予約できる枠が復活したわけだが、さっそく二冊分は返却した本の続刊で埋まるらしい。二冊目の用紙を財布に入れてから、長門は端末から離れた。
「もういいのか?」
「いい」
 まあ、一冊分くらい予約できる枠を残しておいてもいいだろう。思いついた時に予約すればいい。
「ところで、今日はどんなのを借りたんだ?」
 どうしても知りたいというわけではないが、長門がどういった本を読んでいるのか全く気にならないわけでもない。俺の問いかけに対し、長門は鞄に入れていた本を取り出す。いわゆる萌え的な絵が描かれた文庫本が一冊に、いわゆるハードカバーの本が一冊、そして少々大きめの教科書のような紙質の本が一冊。
 なんとなく小難しいSF小説を読んでいるイメージが強く、実際そっちの本を読んでいることの多い長門だが、必ずしもそういう本しか読まないわけではない。長門の読書スピードではあっと言う間に読み終わってしまうせいか見かける機会は少ないが、いわゆるライトノベルなんかにも手を出している。
 それより、長門が最後に出した教科書風の本が気になった。
「それは?」
「いくつか賞を取り、作品がいくつか映像化されている作家のデビュー作。読んだことがなかった」
「へえ」
 内容より、装丁の方が気になるんだけどな。
「……」
 ぱらぱらと中身を確認するようにしていた長門が、ぴたりと手を止めた。
「どうかしたか?」
 表情こそ変化はなかったが、どことなく長門の身にまとう空気が変わったことが俺には見て取れた。まるでそれは、イカリングだと思って食べたものがオニオンリングだった時のような、がっかりしたような風情である。ちなみにあの時は、それを調理した朝倉と二日ほど口を聞かなくなった。
「これを見て」
 開いた本の中身を俺に向ける。
「教科書みたいな本だな」
 どちらかと言えば、小学生の教科書に近い。その本の文字が妙に大きかった。
「どうやらこれは、視力の弱い者のために作られた本らしい」
 ぱらぱらと中身を確認して長門はそう言った。
「目が見えない人のために点字の本があるように、こういうものもあるらしい」
「知らなかったのか?」
「本来一冊の本が、三冊に分冊されているから妙だとは思った。でも、ハードカバーの本が文庫になるとか、違う形態でいくつか発行されているのはよくあること。今回のもそういうことだと思っていた」
 長門はどことなく気落ちしたように、ぱらぱらとページをめくっている。
「この本の四ページ分が、通常の文庫本では約一ページに相当する。このページ数なら、文庫本に直すとだいたい五十から六十ページの内容といったところ」
「ちょっとした短編くらいだな」
「……」
 長門は手元の本、壁にかけられた時計、俺の顔へと順番に視線を向ける。
「閉館まではまだあるみたいだし、読んでいってもいいぞ」
「ありがとう」
 そう言うと長門は、とことことソファーに歩いていって、本を読み始めた。それほど時間もかからなそうだし、俺もその横に座ることにする。肘掛けになるものと寄りかかるものはあった方がいいだろう。


 それから数十分でそれを読み終えた長門が残っていた予約枠で続刊を予約し、俺たちは図書館を後にした。