裸の太陽

 紫吹蘭は紙箱を片手に、ホテルの廊下を歩いていた。
 現在はソレイユツアーの真っ最中だが、蘭は東京に戻ってスパイシーアゲハの打ち合わせに参加してから、次のツアー先のホテルにやってきた。
 半年間の全国ツアーに専念している状態ではあるが、他の仕事を全くしないわけではない。長いこと調整をしたおかげで、全員がツアーの移動日をかねて別々の仕事ができる状態になっている。
 いちごはこのツアーのためにレギュラーラジオをリニューアルして時間と曜日を変更したし、あおいのイケナイ警視総監もスピンオフドラマが放送されていて、あおいの出番はかなり少なくなっている。
 ソレイユの全国ツアーは、半分くらいは自分たちの我が儘だ。それに周囲を巻き込んで迷惑をかけている形になってしまっているのは、蘭としても心苦しい。ファッションショーの日程も、ソレイユの都合に合わせて決めてもらっている。
 しかしこれは『三人がどうしてもやりたかったこと』だ。それぞれ売れているのはありがたいことであるが、そのせいで疎遠になってしまうのは、どうしても避けられなかった。
 カードキーの番号を確認して、蘭は足を止めた。
 このツアーでこだわったことの一つに、滞在先のホテルでは同じ部屋で寝泊まりする、というものがある。
 三人ともアイドルとしてそれなりに売れているので、それぞれ別室をもらっても不思議ではないが、敢えて三人部屋にしてもらった。
 いちごとあおいは、ルームメイトなのでどんなに忙しくても、一緒に過ごす時間は捻出できる。だからこのツアーは、二人が蘭のためを思って、一緒に過ごす時間を増やせるように考えてくれた側面もあるだろう。蘭はそのことについて、二人に深く感謝している。
「二人とも喜ぶかな」
 蘭は手に持った紙箱に目を落としてから、カードキーを差し込んだ。
 今日は仕事が普段より早く終わり、駅ビルにあった有名な洋菓子店でシュークリームを買った。本来ならば体型をキープするため夜はあまり甘い物を食べない蘭ではあるが、珍しく早く戻ってこられたこともあって、思わず買ってきてしまった。
 甘い物を好きないちごは特に喜ぶはずだ。
 口元に笑みを浮かべながら、蘭は部屋に入った。
「ただい――」
 中に入って、蘭の足が止まる。
 正面に金色のものがあった。肌色の何かに挟まれた、もじゃもじゃとした塊を見て、最初は蘭にもその正体がわからなかった。
 蘭の手から紙箱が滑り、床に落ちてどさっと音を立てた。
 それはいちごの頭だった。
 ベッドの上で、裸のいちごが同じく裸のあおいに覆い被さっていて、それぞれが逆の向きで、いちごが頭を埋めているのはあおいの太股の間だ。
 ただ裸でいるだけなら何かの勘違いである可能性があったが、その体勢が、ぴちゃぴちゃと聞こえてくる音が、紛れもなく「そういう行為」をしているのを蘭に知覚させた。
「え――あれ、蘭?」
 ようやく蘭の存在に気付いたように、いちごはゆっくりと顔を上げた。
 どこかぼうっとした顔は、真っ赤に染まっていて、グロスでも塗ったように口の周りがヌラヌラと光っている。
 いちごが頭を持ち上げてたことで、それまで隠れていたあおいの股間も目に入った。バスタオルの上で大きくM字に開かれた脚の間は、ぐしょぐしょに濡れて、控えめな恥毛が太股に張り付いているのが蘭にもわかった。
「悪い!」
 慌てて蘭は部屋を飛び出した。
 廊下に出て、ドアを閉めて、蘭は壁にもたれてずるずるとへたり込む。
 二人があんな関係になっていたなんて、蘭は全く気付いていなかった。
 いったい、いつからだろうか。二人はルームメイトで、スターライト学園に来る前から同じ学校だった。最初から、それとも最近になってからだろうか。本当は二人きりで過ごしたかったのではないか。三人で過ごす時間を増やすためのソレイユツアーだが、自分の存在は邪魔になっているのではないだろうか。そもそもなんで教えてくれなかったのだろうか。
 まとまりのない考えが蘭の頭の中をぐちゃぐちゃにかき回す。
 息が苦しい。心臓がドキドキして、肺のあたりが押しつぶされそうだ。
 何にショックを受けているのか、何が苦しいのか、蘭にはわからない。
 ただ、つらい。
 心が痛くて、苦しくて、自分が今どんな顔をしているかもわからなかった。これからどんな顔をして二人の前に立てばいいのか。何もかもがわからない。
 どれくらい経過してからか、かちゃりとドアの開く音が蘭の耳に届いた。
「蘭――」
 いちごの声だ。
 まだ混乱して、どうしていいのかわかっていない。それでも蘭は頭を上げて、声の方向に顔を向ける。
 そこで大きくため息をつく。胸のあたりでもやもやしていた何かが、蘭の中から急激に消えていった。
「これ美味しいね」
 ドアの隙間から見えたいちごは、蘭が買ってきたシュークリームをムシャムシャと食べていた。
「あたしの分まで食べていないよな?」
 そう言うと、蘭は立ち上がって部屋に入った。


 蘭は椅子に、いちごとあおいはベッドに腰掛けて、向かい合っていた。それぞれの手にはシュークリームがあり、無言で、ぱくぱくと食べている。
 箱のまま床に落としてしまったが、特に潰れたものなどはなかったようだ。もしケーキを買っていれば、こうはいかなかったかも知れない。
「って、どんな状況だよ」
 無言のまま、いちごが次のシュークリームに手を伸ばしたところで、蘭が呆れたような声を出す。いちごはそれで一瞬動きが止まったが、やはり箱の中に手を伸ばしてもう一つを取り出すと、口に運んだ。
 蘭とあおいは一つずつで、いちごには三つ買ってきた。よく食べてよく動くいちごは、それくらい食べても問題ないだろうという判断だ。
「変なところを見せちゃってごめんね」
 シュークリームを片手にあっけらかんと言ういちごに、蘭は深刻に考えていたことが馬鹿らしくなってしまう。
「あたしの方こそ悪かったよ。ノックもしないで開けてさ」
 二人が自分に見せられないようなことをしているという状況を、蘭は全く想定していなかった。
 親友で、女同士で、二人のことがかけがえのない存在で、蘭にとってはツアーの滞在先のホテルの部屋は、自分の家のような感覚になっていた。ここに来るのは、前の都市からの移動を挟んで今日が初めてだったのだが、二人が待っているというだけで、スターライトの寮の部屋よりも『自分の帰る場所』という気持ちだった。
「蘭、怒ってない?」
「別に怒っちゃいないけど……どっちかって言うと、ショックだったのかな」
 もたれかかると、背もたれがぎしりと音を立てる。
「アイドルだし、女同士だし、他人に言いづらいのはわかる。でも、親友のあたしには教えて欲しかった……なんて、ワガママかな。二人が付き合ってるって」
「付き合う? なにが?」
 蘭の言葉に、いちごがきょとんとした表情を浮かべる。
「あおい、わたしたち、付き合ってるの?」
「そうだっけ?」
「どうだっけ」
 そんな二人のやりとりをぽかんと口を開けて見ていた蘭だが、大きく頭を振る。
「いやいや、あんなことをしてて、付き合ってないっておかしいだろ?」
 どう考えても見間違いではなかった。今は二人とも服を着ているが、蘭が入ってきた時は全裸で、ちょうど今腰掛けているあのベッドで、お互いの股に顔を埋めて――と、そこで蘭は思い出すのをやめた。これ以上考えると、変な風に意識してしまう。
「まさかあたしの見間違いとか言い出すわけじゃないよな?」
「ううん、してたけど……オナニー」
「オナ――なに?」
「もしかして、蘭、オナニー知らなかった? オナニーっていうのはね」
「いや、言わなくていい。知ってる――てか、ええっ!?」
 話が噛み合わず、蘭はひどく混乱する。
「ちょっと待ってくれ。あたしが帰ってきた時、いちご達はその、二人でしてたよな」
「うん、二人でオナってたよ? ね?」
「だね」
「だね、じゃない。いやいや、セックスだろ?」
「セックス?」
 いちごが不思議そうに首を傾げる。
「何言ってるの、蘭? セックスって、男の人と女の人が子供を作るためにする、あれだよね?」
「ああ」
「じゃあ違うよ。わたし達、女の子同士だもん。あれ、もしかしてあおい、男の子だった?」
「違うよ。いちごも違うよね?」
「うん。じゃあ大丈夫、オナニーだよ」
「なっ――」
 二人のやりとりに蘭は言葉を失う。
「どうしたの、蘭? 鳩が鉄砲食らったみたいな顔しちゃって」
「豆鉄砲。鉄砲じゃ死んじゃうでしょ」
「あ、そうか。死んじゃうのは可愛そうだね」
「だね」
「なあ、二人とも、それマジで言ってるのか?」
「鳩の話?」
「じゃない。その、女同士だから、オナニーだって」
「え、うん」
「あおいもか?」
「そうだけど……さては蘭、本当はオナニーって知らないとか?」
「知ってる。むしろ知らないのは、あんたらの方だ」
 そこで蘭はアイカツフォンルックを取り出し、ウィキペディアや子供向けに性教育について書かれていたホームページを探し、二人に説明する。
 どうやら二人の通っていた小学校では、きちんとした性教育が行われておらず、かなりあやふやにしか理解していなかったらしい。さすがに月経の仕組みや生理用品の使い方などはわかっていたが、具体的な性行為についての説明が少なかったのと、マスターベーションについての説明が一切されていなかったせいで、二人は『子供を作るための行為がセックスで、それ以外は全てオナニーである』と解釈をしていたとのことだ。
 スターライト学園では、アイドル達を性的な目で見る大人達に対処するため、そういうことは自衛のために早いうちからきちんと教えられている。初等部から通っている蘭の場合は、初等部の間に何度か、中等部に入ってからも最初の頃にかなり詳しく授業があった。
 二人は秋からの編入で、その授業を受けていなかった、ということだ。
「はー」
「そうだったんだ……」
 二人にとっては衝撃だったらしく、ベッドに倒れてうなったりため息をついたりしている。
 その反応は、とても演技ではできないことだ。最初は二人が誤魔化して突拍子もない嘘を言っているのかと思った蘭だったが、女優として活躍しているあおいはともかく、いちごには無理だ。よっぽど以前からこういう状況を想定していたのなら可能かも知れないが、あの短い間にそこまで口裏を合わせるのは、不可能だろう。
「にしても、普通、どこかで知るだろ……」
 ため息をつきたいのは蘭のほうだった。間違った知識を『常識』として思いこんでいる二人を相手に、きちんと理解させるのは、かなり骨の折れる仕事だった。しゃべりすぎたのか、酸欠になったように胸のあたりがわずかに苦しい。
 考えてみると、蘭は二人と恋愛の話をした記憶が、ほとんどなかった。
 出会ってすぐの頃、確かおとめが誰かに恋をしているとかそんな勘違いがあって、恋愛について話したこともあるような記憶があるが、それくらいだ。
 だからそういった話をする機会は今までなかったし、きっと、そんなことを考えている暇もないほど、三人ともアイドル活動に集中していたということだ。
 かくいう蘭自身、性教育で学んだ正しい知識はあるが、性について一般的な女子高生が知っているようなことはほとんどわからないだろう。アダルトビデオだって見たことはない。
 女の性器が、あんな風に濡れるのを、蘭は初めて目の当たりにしてしまったのだ。
「とにかく」
 思い出しかけたことを追い出すように、蘭は首を横に振る。
「今後はもう、二人でセックスするのは禁止な」
「えぇーっ、ムラムラしたらどうすればいいの?」
「自分でなんとかしろ」
「無理だよー。だって、自分じゃおまんこ舐められないし」
「舐めっ――」
「いちご、舐められるの好きだもんね。舌を入れたら、きゅーって締め付けてくるし」
「あおいはおっぱいだよね」
「そうそう、いちごに乳首を噛まれるとゾクゾクしちゃう」
「あおいはほんと、ママだよねー」
「やめろ!」
「どうしたの、蘭? 真っ赤になっちゃって」
「駄目だ、我慢しろ!」
「でも、あおいにおまんこ舐めてもらわないとイケないんだよ? もし舌が届いたとしても、自分のおまんこはなんか気持ち悪いし。あおいのを舐めるのは好きなんだけど」
「わたしも自分の胸は届かないしなー」
「そういう話も、やめろ!」
 蘭は荒い息を吐く。
 二人が裸で抱き合っていた光景が、部屋に充満していた汗と体液の匂いが、ぴちゃぴちゃというイヤらしい音が。
 必死に追い出していた記憶が、蘭の頭に押し寄せてくる。視界がチカチカする。まともに呼吸ができなくなる。
「なんであおいとオナ――エッチしちゃ駄目なの? 子供ができる心配もないよ?」
「そういうのは、倫理に、反する」
「気持ちいいのは、いけないこと?」
「付き合ってもないのに、セックスするのは、いけないことだ」
 頭がぼうっとして、二人の言葉に何を答えているのか、蘭自身もよくわからなくなっていた。
「蘭はしたことあるの?」
「ある……けど、怖くて、すぐやめた」
 初等部だった頃、蘭は性教育のあとで、マスターベーションを試したことがある。しかし、ゾクゾクとわき上がってくる未知の感覚が恐ろしくなって、すぐやめてしまった。
「じゃあ、わからないよね? ゾクゾクして、心が満たされて、すっごく気持ちいいんだよ?」
「私は胸がきゅーってなって、ふわふわして、どこかに飛んでいっちゃうみたいな感じ」
「もうやめてくれ!」
 目を固く閉じて、頭を抱える。
「女同士でセックスをするのが駄目なの?」
「蘭、もしかして、私たちが気持ち悪い?」
「違う!」
 頭を抱えたまま、髪を振り乱して否定する。
 知らなかったとはいえ、女同士でセックスをしていた二人を、蘭は気持ち悪いなんて少しも思わなかった。
「でも、なんか、ヤなんだよ! 二人がわけわかんない話してるのが!」
 そう、つまりはそれだ。
 親友だと思っているいちごとあおいが、自分のわからないことを話しているのが、なんとなく嫌だった。恋愛とか嫉妬とかではなく、これはきっと、疎外感だ。
 こんな気持ちになったのは、きっと、二人でソレイユを作ると聞いた時以来のことだ。
「じゃあ、蘭にも教えてあげようか?」
「蘭も気持ちよくなったら、私たちが我慢できないっていう感覚、わかるかもね」
 二人の声が蘭の耳元で囁かれる。いつの間にか蘭の体は、二人に抱きしめられていた。
「ねえ蘭、どうする?」
「蘭?」
「……頼む」


「本当にこれで、よかったのかな」
 裸のままベッドに横になり、いちごは呟く。
「でも、これしかないって、決めたよね」
 疲れ切って眠る蘭の髪を手櫛で整えながら、あおいが答える。
 ベッドはそれほど小さいわけではないが、さすがに三人だと狭く、二人は間に蘭を挟んで密着していた。
 蘭に説明した話は、途中までは本当だった。スターライト学園に入ってそれほど経たないうちに、二人はオナニーの延長として二人でエッチをするようになっていた。
 嘘を付いたのは、途中でそれがオナニーではないと気付いていた、ということだ。とはいえ、中三になっていちごがアメリカから戻ってきた後なので、普通に比べれば相当遅いのだが。
 実際、いちごはあおいとは付き合ってはいない。最初から親友同士だったし、今もそうだ。知らずにセックスをしていたと気付いた時はさすがに話し合いをすることになったが、結局、それまでの関係を変えないことにした。
 もしどちらかに恋人ができれば状況が違ったかも知れないが、そうはならなかった。二人はアイドル活動に一生懸命で、恋愛をする暇なんてない。
 蘭とも一緒にやりたいと思うようになったのは、いつ頃からだろう。そう考えるようになってからだいぶ時間が過ぎていて、もう思い出せない。
 そのための準備の一つが、ソレイユの全国ツアーだった。この状況に話を持って行くには『蘭が事故で目撃してしまう』というシチュエーションが一番成功率が高そうだったのだ。蘭の仕事が珍しく早く終わったのを、キラキラッターの情報であおいが把握して、決行に移したのが今日だ。
 あとは蘭の性格を考えて、二人がまだ勘違いしているという嘘をつけば、蘭が説明する流れになるのは見えていた。
 とはいえ、半分くらいは賭けだった。もし蘭に「見なかったことにする」と言われてしまえば、それまでだった。
「ほんとに、うまくいってよかった」
 今の状況は、前々からの準備と、幸運が重なったおかげだ。
 いちごは、あおいも蘭も、どちらも好きだった。半ば強引な展開ではあったのものの「やめなくてもいい」「これからは三人でもしよう」という言葉を、蘭の口から引き出すことができた。
 ソレイユの活動をずっと続ける、というよりも、ただ「三人でずっと過ごしたい」という、ワガママだった。
「蘭、泣いてたね」
 綺麗な蘭の顔に、涙の後が残っている。いちごはそれを指でなぞって、ため息をつく。
「怒るかな」
「そりゃ怒るよ」
「だよねー」
「でも、最後は許してくれると思う」
「うん……」
 蘭の性格は、いちごもよくわかっている。厳しい性格だが、結局のところ、二人には甘いのだ。
「ごめんね、蘭」
 いちごは蘭の目元にキスをする。
「お説教は明日聞くから、もう、眠い……」
「私もさすがに疲れちゃった」
「じゃあ、今日はこのまま三人で寝ようか」
「だね」
 いちごは蘭の体を抱きしめた。もぞもぞとあおいの動く音がして、いちごのお腹のあたりに触れる。あおいも同じ事をしているようだ。
「暑い……」
 蘭の寝言を聞き、ふふっと笑いながらいちごはそっと目を閉じた。

裸の太陽

 アイカツのエッチ話を書きました。
 コミケに当選していて、それとは別に7/11のアイカツオンリーに委託参加の予定ですが、それとは無関係な話になります。
 このタイミングでなぜかソレイユです。


「裸の太陽」[pixiv]
 例によってpixivにも投げていますので、読みやすい方でどうぞ。

余談

 本当はオチは「シリアスに重い話の中で、何の脈絡もなく半裸のドラゴンボーンが飛び込んできてグレロッドにプロレス技をかけて死なす」っていうのを考えていたのですが、ネタを捻っている途中で思いついた飄々としたカジートおじさんを登場させたくてこういう展開になりました。


 参考動画。

失われた無垢

 スカイリム南東のリフテンにあるオナーホール孤児院は『親切者のグレロッド』と呼ばれる年老いたノルドの女が院長を務める孤児院だ。だが『親切者』とはたちの悪い冗談のようなもので、彼女はいつも子供達に対して厳しく当たる。
「仕事を怠ける者はもっと痛い目に遭うよ。分かったかい?」
 今日もグレロッドの怒鳴り声が響く。炊事、洗濯、掃除、それらの雑用はほとんど全てが子供達の仕事だ。グレロッドも鍋をかき混ぜることもあるが、やってもやらなくても同じようなものだ。
 グレロッドの一日は、酒を飲み、気まぐれに子供達を怒鳴りつけ、食べて寝る。ほとんどそれだけだ。上機嫌のこともあるが、大抵は何かにいらついて、子供達に八つ当たりをする。
 罵声を浴びせるのは軽いほうで、ひどい時には虐待をして憂さを晴らす。恐るべきことに、オナーホール孤児院には、そのための小さな部屋ある。
 子供達の寝るホールのすぐ横にあるドアを開けると狭苦しい小部屋があり、ドア以外の三方の壁には腕を拘束するための器具が取り付けられている。藁を敷き詰めたその小さな部屋にあるのは他に木製の手桶だけで、あとは何もない。
 そんな劣悪な環境の中に、二人の孤児がいた。
『天使』の白玉みかんと『悪魔』の黒須あろまだ。
 天使と悪魔とは、ここオナーホール孤児院で特別な孤児に与えられる役割だ。それは特に理由はなく、ただグレロッドの気まぐれだけで選ばれる。
 天使は、一人だけ優遇された存在だ。
 他の子供達には一日一食しか与えられない食事だが、天使のみかんだけはグレロッドと同じく日に三度の食事があり、おやつの時間にはスイートロールが与えられる。労働も免除され、他の孤児達に与えられるような苦痛は、天使には一切与えられない。
 ただ、天使は常に笑顔でいる事が要求される。目の前で誰かが暴行を受けていても、食事を抜かれていても、どんなことがあっても笑顔でいなければいけない。
 悪魔はその逆だ。
 与えられる食事が他の子供より少なく、他の子供よりも過酷な労働を押しつけられる。些細なことで暴行を受け、他の子供が小部屋で虐待される時は、そのついでに悪魔も小部屋に連れて行かれ、壁に拘束される。
 悪魔に与えられる虐待は厳しく、食事を与えられないまま、一日中拘束されたまま放置されることも珍しくない。そのせいかあろまは他の子供よりも虚弱ですぐ病気になり、力も弱い。無理な体勢で拘束されすぎたせいか、関節がおかしな方に曲がっており、走ることもできない。
 他の子供たちの悪魔に対する感情は、二通りである。いつもグレロッドに虐待されることを可愛そうに思って同情する者もいれば、何をしてもいい相手だと考える者もいる。子供同士でもめ事があると、グレロッドは理由も聞かずにどちらも拘束し虐待をするが、悪魔相手には何をしても無関心を貫く。
 だから、グレロッドから受けた仕打ちに腹を立てた子供が暴力を振るうことや、性に興味を持った少年に性的悪戯を受けることは、珍しいことではない。
 十六才になるとこの孤児院を出ることになるが、悪魔になった子供がそこまで生きることはほとんどなく、大抵は途中で命を落とす。あろまの前に悪魔だった子供も、天使だった少年が孤児院を脱走した際に何日も拘束され虐待され、そのせいで命を落とした。
 悪魔になったあろまの最初の仕事が、元悪魔の埋葬だ。
 埋葬とは言っても、明らかに暴行の跡がある死体を教会に持って行くわけいにはいかないとグレロッドが考えたのか、中庭の片隅に穴を掘って埋めただけで済ませた。
 傷だらけで、血と汚物にまみれた死体を穴に埋めて土をかぶせながら、あろまはそれが自分の遠くない未来の姿だろうと思った。
 子供が一人くらい消えても、この治安の悪いリフテンでは気にとめるものはほとんどいない。喧嘩や暴力、殺人も日常の出来事だ。首長は無能で、一度に二人もの子供が消えたことすら知らないはずだ。


「あろまはどこだい!」
 ある日のこと、いつものようにグレロッドが怒号を放った。
「天使が笑っていないのはあんたの仕業に決まっているよ!」
 今日も些細な理由だ。この老女のどこにこんな力があるんだと思うほど強く腕を引っ張られ、小部屋に連れて行かれながら、みかんが笑顔のまま口を動かしているのを見た。
「ごめんなさいなの」
 あろまには、そんな声が聞こえたような気がした。
「さあ、お仕置きの時間だよ」
 グレロッドはそう言うと、あろまの腕を壁の拘束具に挟んで固定する。床に転がった桶を掴んで小部屋を出て行くと、水を入れて戻ってきて、勢いよくあろまにその水を浴びせる。
 冷たいよりも、痛いという方が大きかった。
 服が水を吸ってずっしりと重くなりよろけると、拘束された腕に負担がかかり、痛みが走る。グレロッドはまた小部屋から出ていき、戻ってきて水をかける。途中から疲れたのか、グレロッドは暇そうにしていた子供たちを呼びつけた。
「あんたたち、この桶に水を汲んでくるんだ。さあ、急ぐんだ、ガキどもが」
 グレロッドは二つの桶を子供達に渡し水を汲みに行かせ、戻ってくるまでは鞭であろまのことを打ち付けた。子供から桶を受け取ると、空になった桶をまた子供に渡す。
 汗だくになるまで鞭を打ち、水をかけ、ようやく終わったのは日が落ちてからの食事の時間だ。
「あんたは悪魔だからね。ここにいるんだよ」
 小部屋の扉は開かれっぱなしだった。あろまは壁に拘束されたまま、隣の部屋で食事をしている子供達の姿を遠目に眺めていた。
 同じくらいの年齢で、昔から仲のよかったみかんの笑顔が、わずかに強ばっているのをあろまは感じる。
 自分も長くはないが、もしかすると、優しいみかんの精神が押しつぶされるほうが先かも知れない。
 そんな風にあろまは考えて、一つの決意をした。


 あれから数日後、皆が寝静まってからあろまは中庭に出た。
 子供達には自由がなく、昼頃にグレロッドに監視されて塀に囲まれた中庭に出る日課があるが、こうして勝手に外に出たのは初めてのことだ。
 あろまは中庭の隅に行くと、音を立てぬよう素手で土を掘り返す。爪の間に砂利が入り痛みが走るが、それに耐え必死になって土を掻き出す。
 やがて、あろまは目的のものを見つける。
 先代の悪魔だ。
 埋めてからどれくらい経ったのだろう、死体にはウジがわき、ところどころ腐った肉が落ちて骨が露出していた。
 あろまはその周辺に蝋燭を立てて火を付け、ナイフにベラドンナの汁を吸わせる。
「愛しの母、愛しの母、あなたの子供を私の元へ届けてください。卑しい者の罪を血と恐怖をもって清めなければならないのです」
 死体の横に跪くと、あろまはそう言ってナイフで死体を刺す。グズグズになった肉の感触が手に伝わってきて、腐臭が広がるが、あろまは一心不乱にそれを繰り返す。
「愛しの母、愛しの母、あなたの子供を私の元へ届けてください。卑しい者の罪を血と恐怖をもって清めなければならないのです」
 あろまの両親が帝国軍とストームクロークの戦いに巻き込まれて死ぬ前、まだ幸せだったころに読んだ本に載っていた、人を呪い殺すための儀式だ。
「愛しの母、愛しの母、あなたの子供を私の元へ届けてください。卑しい者の罪を血と恐怖をもって清めなければならないのです」
 人の骨、肉、心臓でできた人のかたちをしたものを、毒草の汁をつけたナイフで突き、呪文を唱える。
「愛しの母、愛しの母、あなたの子供を私の元へ届けてください。卑しい者の罪を血と恐怖をもって清めなければならないのです」
 悪魔のあろまにとって、頼れるのはもうこの儀式だけだった。
「おやおや、余計なものを見てしまったかな」
 何の前触れもなく、甲高い声があろまの耳に届いた。
 心臓のあたりにナイフを突き刺したまま、あろまが声のした方に顔を向けると、そこには一対の光るものがあった。
 真っ暗な闇の中、そこに何かがいた。
 毛むくじゃらの生物。暗い服を着て、暗い色の毛皮のそれは、輪郭はぼやけ闇の中に溶けていて、ただぎらぎらと光る目だけがはっきりとあろまに見えた。
「お嬢ちゃん、何をしているんだい?」
「人を呪い殺す儀式をしているの」
「ほうほう」
「私は悪魔で、儀式をしていた。そうしたらあなたが現れた。だからあなたはデイドラね」
「デイドラだって? ハハハ、こいつは傑作だ。お嬢ちゃんはカジートを知らないのかい?」
「カジート? それがあなたの名前なの?」
「まあ、それでいいか。ところで、あまり聞きたくはないんだけど、お嬢ちゃんはなんのためにその儀式をしていたんだい?」
「殺して欲しい人がいるの。親切者のグレロッドよ」
「そんなことだろうと思ったよ」
 カジートと名乗った生き物が目を細めた。
「だが、すまないね。お嬢ちゃんの依頼を受けることはできない。おじさんは別の人に頼まれて、グレロッドに用事があるんだ」
「そんな……」
 あろまはショックを受ける。このデイドラが願いを聞いてくれなければ、死体を掘り返したことも、泥に汚れた服も、グレロッドに気づかれてしまう。
 そうすれば厳しい罰を受けて、この死体と同じ運命を辿るだろう。
「気を落としてるところを悪いが、グレロッドのところまで案内してくれないかな。おじさんの用事はコンスタンス・ミシェルじゃなくて、親切者のグレロッドじゃないと駄目なんだ」
「わかったわ」
 カジートを連れて、あろまは孤児院の中に入った。
 暗い宵闇の中だけではなく、カジートの存在は建物の中で灯りに触れてもどこかおぼろげで、目の前にいるのにどこにもいないような、そんな不思議な印象をあろまに与えた。
 あろまは足音を忍ばせてベッドに眠る子供達の間を歩く。それでもギシギシと床板が音を立てるが、カジートは幽霊のように全く音を立てずについてくる。
 みかんの穏やかな寝顔を「これで最後かも知れない」と見ながら、グレロッドの寝室に続くドアを示す。
「ありがとう。お嬢ちゃん」
 カジートはそう言うと、あろまと一緒に部屋に入り、粗末なベッドで眠るグレロッドの横まで行くと、体を揺すった。
「あんた何者だい。汚らしいネコが」
 半ば寝ぼけながらグレロッドがベッドの上に体を起こす。あろまがいることには気づいていないようだ。
「アベンタス・アレティノが、よろしく言っていた」
 カジートはそんなグレロッドに対してこう告げた。
 アベンタス・アレティノとは、みかんの前に天使だった子供の名前だ。噂では、家に戻って闇の一党を呼ぶための何かをしているということだった。
「アレティノですって? あのろくでなし!」
 グレロッドの目が怒りでつり上がる。
「覚悟しとけと伝えて。見つけたら、ひどい目に遭わせてやる」
「おばあちゃん、悪いがそれはできないんだ」
 そう言うと、カジートは片手を軽く左右に薙いだ。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
 グレロッドが汚らしい悲鳴を上げる。カジートは軽く手を振っただけだが、グレロッドの喉がぱっくりと裂けて、そこから激しく血が噴き出している。ごぼごぼと口から赤い泡を吹き出し、壁を、ベッドを赤く染めて、どさっと床に崩れ落ちた。
 騒ぎを聞きつけたのか、あろまが気づくとグレロッドの寝室の前に子供達が集まっていた。
「やったー! グレロッドが死んだ!」
「アレティノがやってくれた!」
 血まみれで床に倒れ、苦悶の表情を浮かべるグレロッドの死体を取り囲み、子供達が歓声を上げている。
 彼女が死んで悲しむ者は一人もいない。子供達は口々に、喜びの言葉を放つ。
「グレロッド、死んだなの?」
 みかんがあろまの横にいた。
「よかったなの。これでもう、あろまがいじめられないの」
 みかんはぽろぽろと涙を流す。表情は笑顔の形に固定されたまま、しばらくは他の顔をすることはできないだろう。
 笑顔のまま泣いているみかんの頭をあろまは無言で撫でる。他の子供達よりも厳しい地獄にいた二人は、深いところで繋がっていた。
「お嬢ちゃんの願いを聞けなかったのは、先約があったからさ。すまないね」
 今までどこにいたのか、血まみれのカジートがあろまに話しかけてくる。
「だからお嬢ちゃんの黒き聖餐は成立していない。依頼料もいらない。まあ、代償なしで願いが叶って、運がよかったじゃないか」
「でも私は、人を呪う儀式をした。悪魔だ」
「ふむ、まあそういう考え方もあるかな」
 カジートは、ぴんとヒゲを爪ではじく。
「そうだ、願いが聞けなかったかわりに、お嬢ちゃんたちにいいものをあげよう」
 そう言ってカジートは荷物袋から何か紙片を取り出して、あろまとみかんに手渡す。
「これは何かしら?」
「きれいなの」
「そいつはプリチケと言ってね、それがあればパラジュクのプリパラに入ることができる。まあ、魔法のチケットのようなものかな。少なくともここにいるよりは幸せだろうし、今とは違う何かになることができる。まあ、必要なかったら捨ててくれてかまわない。おじさんが持っていても使い道のないものだ」
「ありがとうなの」
「じゃあ、お嬢ちゃんたちが幸せになれることを祈っているよ」
 カジートの姿がぼやけて、あろまは認識できなくなる。幻のように、今まで目の前にいたのが嘘だったように思えるが、自分とみかんの手にはプリチケが残されていた。
「みかんはどうしたい?」
「あろまと一緒に行きたいの」
「決まりね」
 そう言うと、あろまはみかんの手を引いて、オナーホール孤児院を飛び出した。わずかな小銭を握りしめ、街の外にいた御者にコインを握らせると、パラジュクに向かう馬車に乗った。

つまり、友達でいてくれてありがとう

 スターライト学園の寮は、光量はかなり抑えられるが、深夜でも完全に灯りが消されることはない。一般的な学校と違い、寮に住む全ての生徒はアイドルなので、帰りが遅くなる生徒もいるからだ。
 労働基準法というものがあり、中高生の働くことのできる時間は厳しく制限される。だが、ロケ地が遠方だと仕事が終わる時間は基準に従っていても寮に戻るのが深夜になることもあるし、それ以外にも『自主的に』行われるレッスンなどは、あくまで個人の趣味の範囲ということになるので、遅い時間までやっても法的には問題はない。
 しかしながら、スターライト学園は朝から授業があり、あまり遅い時間まで起きているような状態は推奨されない。寝不足で実力が発揮できなくては本末転倒なので、トップアイドルでも休息は大事にしている。
 ともあれ、深夜でも灯りがついている寮の廊下だが、バスルームも部屋ごとにあるため、遅い時間になると出歩く者はほとんどいない。
 そんな、ほとんどの生徒が眠りについている時間の廊下で、わずかに軋み音を立てて、一つのドアが開いた。
 出てきたのは小柄な生徒だ。ドアを開けたままきょろきょろと周囲を見回し、部屋の中に向かってわずかに首を縦に振る。
 それから少しして、すらっと背の高い生徒が開かれたままのドアから出てくる。
 二つの人影はわずかな会話をして、しばし密着してから離れると、小柄な方が部屋に入ってドアが静かに閉まった。
 後には完全な静寂が戻る。
 薄暗い廊下に残されたのは背の高い人影。閉ざされたドアに、顔を向けている。
 と、その背中に小さな人影が近寄る。足音を立てず、すぐ近くまで迫ると、こう口を開いた。
「おつかー」
 声をかけられた紅林珠璃は、びくりと体を震わせてから「ひなき」と呟いて、顔をそちらに向けた。


 静かな廊下に足音が二つ。
 新条ひなきと紅林珠璃は、薄暗い廊下を静かに歩いている。
「あの先輩、前に共演した人だよね」
 ひなきが口を開く。
 他の生徒達が寝静まった深夜、声は普段より抑えている。
「そう」
「何か用事でもあったの?」
「ちょっと、相談に乗ってもらっていたんだよ。バラエティは慣れないから」
 珠璃が出てきた部屋の先輩は、以前アイカツ先生のゲストとして出演したアイドルだ。それ以降、トーク番組で何度か共演しているのを、ひなきも知っている。
「ふーん。こんな時間まで?」
「話し込んだら遅くなっちゃって。それ言ったら、ひなきはこんな時間にどうしたの?」
「ちょっと気になる噂を耳にしちゃってねー」
「噂?」
「珠璃が先輩とイケナイ関係だって」
 ぴたり、とひなきの横を歩いていた珠璃が足を止めた。
「んー、どうかした?」
 振り返ると、珠璃は呆れたような顔をしてから、歩き出す。
「ひなき、芸能界なんて怪しい噂ばかりじゃない。芸能通なのに、そんなのを信じちゃうの?」
「いやー、それが証拠がありましてー」
 と言うと、ひなきはアイカツフォンルックをポケットから取り出して画面を珠璃に向けた。
「どうかな? 我ながらよく撮れてると思うんだよね」
 ディスプレイに表示されているのは、珠璃と先ほどの先輩が廊下で抱き合う姿だ。薄暗い廊下だが、珠璃の顔だとはっきりと判別できる。
「……なんか、疲れていたみたいで、よろけたのを支えてあげただけだよ」
「首筋、キスマーク付いてるよ」
 ひなきが言うと、珠璃はため息をついた。
「やっぱり、ひなきはごまかせないか」
「ま、幼馴染みですから」
「キスマークか……困るなあ、撮影の時に隠さないと。あの人、ちょっと独占欲強いと思ってたけど、そういうとこあったんだ」
「珠璃」
「どんな噂になってるか知らないけど、だいたい間違ってはいないんじゃないかな」
 珠璃は自嘲気味に笑う。
「でも、女同士なんてこの学校じゃ黙認されてるでしょ」
 実際、スターライト学園ではいくつも噂になっているカップルがあり、ひなきの耳にも入ってくる。寮で同室になったり、先輩後輩のトレーナーシステムがあったり、何かと仲良くなるきっかけはある。そこから深い仲になることは、それほど珍しいことではない。
「外で男と付き合うのと比べたらましじゃない? 寮の中で収まってるからスキャンダルにもなりづらいし」
「んー、付き合うっていうなら止めないけどねー。でも、珠璃、違うんだよね?」
「違うって?」
「あの先輩のこと、好きでもなんでもないんでしょ?」
「小柄が顔も小さくて、可愛いほうだとは思うけど。別に、好きでも嫌いでもないってのが正直なところかな。仕事を回してくれるところは好きだけど」
「やっぱりそうなんだ」
「でも、別にいいじゃない。私は仕事が増えるし、先輩は私に気持ちよくしてもらえる。お互い損はしていないよ」
「でも、そんなの……変だよ。珠璃は、紅林可憐の娘じゃなくて、紅林珠璃として輝くために、芸能界を離れて必死にレッスンをして戻ってきたんだよね? なのに、やってることが枕営業って、絶対に間違ってる」
「これも私の力だよ。あの人にとっては親が誰かなんて関係ない、生身の私自身を求めてくれる」
 裸同士だもの、と冗談めかして言う珠璃に、ひなきは言葉を失った。
「そもそも、体で仕事を取ってくるなんてよくあることでしょ? 売れたアイドルだって、そういう噂がある人はいくらでもいる。星宮先輩と神崎先輩だって『特別』な関係だったって――」
「珠璃、二度とそれを口にしないで」
 視線をひなきの方に向けてから、珠璃はばつが悪そうな顔をした。
「……そうだね。あかりちゃんの耳に入ってもいけないし」
 星宮いちごと神崎美月の関係は、そういう噂の中でも特に有名だ。
 編入試験で中学一年の秋に入学した星宮いちごは、まだ芸歴も知名度もほとんどない状態で、神崎美月のライブに参加することになる。それから星宮いちごは急激に有名になり、スターアニスや、クイーンズカップを経て、二人はほぼ同時期にスターライト学園を去ることになる。
 星宮いちごはそれから一年後に戻ってきたが、神崎美月はそれ以来スターライト学園には戻ってきていない。
 二人が特別な関係にあり、破局をしたのが原因だという噂は、当時から囁かれていた。二人がよく夜に中庭で会っていたという目撃談も多くあり、その噂が信じられている理由はひなきにも理解できる。
 しかし、あのころ初等部から上級生達を見ていたひなきには、二人がそんな関係ではないと断言できる。
 あの二人は、アイドルとして輝くため、本当に努力をしている。そんな卑怯な手段で売れようなんて考えは、一切持っていないだろう。
 仮に尊敬が憧れに、そして愛情に変わったとしても、それはもっと高潔で綺麗な何かだ。
 ひなきは、芸能界を離れていた珠璃がその頃の二人をよく知らなかったとはいえ、軽々しくそんなことを口にしてしまうのが、たまらなく許せなかった。
 もちろん、親友である大空あかりに聞かせたくない話であるというのもあるが、有名な噂ではあるので、既に耳にしている可能性の方が高い。
 しかし、噂話で聞こえてくるのと、自分の親友から聞かされるのでは、ショックは段違いだろう。そんな思いをさせたくはない。
「でもさ、ひな知ってるよ、あの先輩だけじゃないよね?」
「ひなきは詳しいね」
「珠璃のことだもん」
「このスタイルのおかげかな。ああいう小柄な人にけっこうモテるみたいで、男の人がするみたいに強引にエッチして欲しいって人が何人かいるんだよね」
「どうして……」
「うん?」
「珠璃、どうしてそこまでするの?」
「どうしてって、ひなきなら聞かなくてもわかるでしょ」
「やっぱり、あの騒動の」
「ドラマに出るために、頑張ったのになあ。人気だってそこそこあるのに、笑っちゃうよね」
 珠璃は声を殺してくくっと笑う。
 アイカツ先生の騒動は、ひなきほどの芸能通でなくても知っている、有名な話だ。
 最初は円満だった。視聴率もよく、季節の変わり目には特番が作られるほどの人気ドラマとなり、珠璃の知名度向上にも貢献してくれている。
 だが、最近になって問題が起きた。
 売り出し中のアイドルを出演させるため、原作では男性だったキャラクターの性別を女性に変えてしまった。
 タイミングが悪いことに、原作でそのキャラクターが別の女性キャラクターと恋愛をする展開が始まったのと、オンエアの時期が重なってしまい、どちらも修正できない状況になってしまった。
 上手く対処すればそれほど大きな問題にならずに済んだかも知れないが、一部の過激なファンがドラマのほうが元だと勘違いし、キラキラッターで原作者をバッシングして炎上するなどの騒動があり、原作者が腹を立ててしまった。
 その結果、今シーズンの放送でアイカツ先生が終了することが、決まっていた。
「私はもっと他の仕事もできないと駄目なんだよ。最終回の前に、何とかしないと」
「珠璃……」
「だから、私はひなきに止められたとしても、やめるわけにはいかない」
「でも、ひなは……もう、して欲しくない……」
「どうして? 別に私が誰と何をしても、ひなきとは関係ないでしょ?」
「関係ないなんて」
「もしかして、ひなきも私のことが好きなの?」
 珠璃が口元を歪める。
「本当なら何か仕事を紹介してもらうところだけど、黙っていてくれるなら、特別にひなきにも先輩にしたのと同じ事をしてあげるよ。今から部屋に来る?」
 パァン!
 乾いた音が廊下に響いた。
「あ……れ……?」
 ひなきは戸惑って、自分の手と、きょとんとする珠璃の顔を見比べる。
 手の平がジンジンとする。わずかに傾いた珠璃の頬が、赤く染まっている。
 頭に血が上って、無意識に、珠璃の頬を叩いていた。
「友達……だから、心配なんだよ。このまま続けたら、絶対、よくないことになる」
 言葉が勝手に口から溢れ出る。
 けっこうな音が鳴ったはずだ。まだ起きている人がいたら、様子を見るためにドアを開けるかも知れない。
 二人でいるところを見られたら、まずい。特に噂になっている珠璃は問題だ。
「おやすみ、珠璃。叩いてごめん」
 頬に手を添えて立ちつくす珠璃を残し、足早にひなきはその場を立ち去る。
「Grac...」
 珠璃が何か囁くのを、ひなきは最後まで聞くことはできなかった。